第6話「社長として、母として」
――それでも私は、社長であり、母になった。
退院から二週間。
氷室結衣の暮らしは、音を立てずに大きく変わった。
高層ビル最上階。かつて“深夜の社長会議”が行われていたその部屋には、今――哺乳瓶の匂いと、柔らかな赤ん坊の泣き声が満ちている。
ルクシア本社40階。
社長室と自宅を兼ねたその空間は、今や双子のための“家”であり、“母”としての彼女の城だった。
「はいはい、陽葵。お腹すいたのね……。悠翔は、ちょっと待っててね……」
朝6時。
結衣は授乳用のクッションを抱え、わずかに眠たげな目で赤子を胸に寄せていた。
その腕の中には、あたたかな命。
あの手術室で産声を上げた小さな双子が、今、日々確かに育っている。
ミルクを飲みながら、小さな手がぎゅっと結衣の服を掴む。
――この子たちは、私を“選んで”生まれてきてくれたのだろうか。
ふと、そんな考えがよぎる。
44歳。
経営の最前線に立ち、女性という肩書きさえ戦略にしてきた自分が、今――命を育んでいる。
すべては、望んでいた未来ではなかった。
けれど、今は確かに、愛おしい。
「……君たちに出会えて、私は救われているのかもしれないわね」
ベビーベッドに寝かされた陽葵と悠翔が、互いの手を掴みあう。
まるで、生まれた瞬間からの約束が、そこにあるかのように。
***
午前11時。
一時的に仕事に復帰した橘理沙が、書類を抱えてやってきた。
「この1ヶ月で、社内も株主も、“あなたの不在”にやっと慣れてきたわ。
でも、そろそろ“戻るのかどうか”の判断は必要になってきてる」
結衣は双子を見つめながら、静かに言った。
「私は……まだ完全には戻れないわ。
だけど、任せっきりにはできない。
“母親である自分”と“社長である自分”――両立する方法を探したいの」
理沙はわずかに頷く。
彼女にとって、結衣は親友であり、ライバルであり、最強の同志だった。
「じゃあ……私が、あなたの“半身”になる。
あなただけじゃない、“会社と家庭を両方持つ人間”の希望になるべきなのよ、あなたは」
「……ありがとう、理沙」
結衣の言葉に、ふたりは少しだけ笑い合った。
その一瞬が、どこまでも深い絆を物語っていた。
***
その夜。
リビングでは、陽翔が哺乳瓶を片手に悠翔をあやしていた。
「社長、今日も“ミルク戦争”に勝利ですね」
「ふふ、もう“社長”じゃないわ。今はただの“ミルク係よ”」
ふたりは小さく笑い合う。
「でも……戻るわよ。必ず。
ルクシアは、私が育ててきた“もうひとつの子ども”だもの」
「ええ。だから俺も、育てます。結衣さんの両方の子どもを――あなたと一緒に」
その言葉に、結衣はしばらく黙って、陽翔の手を握った。
静かに、温かく、何の言葉もいらない確信だけがそこにあった。
そして結衣は、ふたりの赤子が眠るベッドを見つめながら、ふと思う。
――この子たちが、“母親が社長”であることを誇りに思えるような世界を創りたい。
「陽翔」
「はい」
「名前はまだ伏せておいて。でも……ルクシアの“社員全体集会”に、私、戻るわ」
「……本気ですか?」
「ええ。――覚悟を決めたの。母として、社長として。私なりのやり方で、両方、守ってみせる」
(つづく)
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