第7章 古都の冷気と、磁気テープの祈り
【霊格の壁と、父の昇進】
「お父さん、どうして……。どうして私は、いつまでもこの場所から動けないの」
霊界の学び舎で、千夜子は焦燥に駆られていた。
傍らに立つ父・治郎蔵の姿は、以前よりも透き通るような、それでいて神々しい輝きを放っている。
彼は長年の献身と、進や千夜子への静かな守護が認められ、霊位が「指導霊」からさらに高次の階梯へと昇格したのだ。
一方で、千夜子は依然として感情の波に飲み込まれ、進の苦境を見るたびに霊体が激しく明滅してしまう。
「千夜子、焦ることはない。霊格とは、対象をどれだけ『神の視点』、つまり無償の愛で観られるかだ。お前はまだ、進の苦しみを『自分の痛み』として握りしめすぎている」
治郎蔵の言葉は優しかったが、千夜子にはそれが自分への失格烙印のように聞こえてしまった。
進がせっかく掴み取った黎明大学で、再び「不条理」に晒されているのを見て、彼女の魂はまたしても激しく揺れ動き始めたのだ。
【「滑り止め」という棘への憤怒】
1987年春。京都。
進が胸を張って入学したキャンパスで、千夜子が耳にしたのは、エリート学生たちの傲慢な溜息だった。
「何よ、あの子たち……! 進がどれだけの思いでこの門をくぐったと思っているの!」
細田という学生が放った「お前は三流大学に入って恥ずかしくないのか」という言葉。
その瞬間、千夜子の背後の霊気が爆発し、図書館の書架の隙間に冷たい旋風が吹き抜けた。
進の悔しさ、そして彼が死守した「聖域」を汚された怒りで、千夜子は細田の机にある九州大学の赤本を突き飛ばしたい衝動に駆られた。
「おやめなさい、千夜子」
昇格した治郎蔵の制止は、以前よりも強く、重かった。
「見なさい。その細田という青年もまた、自らが作り出した『学歴』という幻影に首を絞められている。彼は進を攻撃しているのではない。自分自身の不甲斐なさを、進という鏡に映して叫んでいるだけなのだ」
やがて細田は精神を病み、赤本を一冊残して消えていった。
千夜子は怒りの代わりに、言いようのない虚しさを感じた。
(進……。あの子が捨てた場所を、あなたは耕し続けるのね。それでいいわ。泥の中にしか、本当の蓮の花は咲かないのだから)
治郎蔵が千夜子に語り掛ける。
「あの、細田という若者も、学びの時なのだ。彼を悪く言うでない。彼も今、苦しいが学んでいるのだよ」
千夜子は深く頷いて聞いた。
【ダビングされた「正義」の音】
大学生活が始まっても、進の苦学生としての境遇は変わらなかった。
学食での調理補助、深夜の肉体労働。
進は、アルバイトを重ねていた。
千夜子は、授業中に居眠りしそうになる進の肩を必死に支え、彼の耳元で「起きなさい、進」と囁き続けた。
特に千夜子の心を締め付けたのは、司法試験予備校の「情報の壁」だった。
裕福な学生たちは、最新の攻略法を手に、快適な自習室で学ぶ。
でも、進は型落ちのカセットテープをダビングして聴くしかない。
安物のレコーダーから流れる、講師の声。
千夜子が言う。
「お父さん、進を、ちゃんとした環境で学ばせてあげたい。いつも疲れていて、寝不足で、あれじゃ、受かるものも受からないわ……!」
だが、治郎蔵は静かに言った。
「案ずるな。それも、魂の学びなのだ」
【奨学金という名の「見えない鎖」と母の涙】
月に30,000円の給付制奨学金。
それが進のアパート生活を支えていた。
ただ、進が「近況報告の手紙」を書くことを「無駄な作業」だと感じ、事務的に処理している姿を見て、千夜子はハラハラした。
「進、ダメよ! 感謝の気持ちを忘れては……。
その3万円の向こうには、あなたの顔も知らないけれど、あなたの未来を願って汗を流した誰かがいるのよ!」
学生課に呼び出され、慌てて3ヶ月分の手紙をでっち上げる進。
千夜子は、かつてパートを掛け持ちし、飲食店を経営していた時の気持ちを思い出した。
名もなき労働が、誰かの生活を支える。
あるいは、誰かの笑顔を支える。
その尊さを、今の進はまだ「効率」の影で見失っていた。
(あなたは今、自分の戦いに必死すぎて、周りの愛が見えなくなっているのね。でもいいわ。いつかあなたが、いろいろ気づく日まで、私はここで見守るわ)
【不合格の静寂と、夕映えの誓い】
在学中の司法試験、すべて不合格。
1日8時間勉強するライバルに対し、進は2時間が限界だった。
合格発表の掲示板に、自分の番号がないことを確認し、独りトボトボと京都の街を歩く進。
千夜子は、そんな進の影に重なるようにして歩いた。
「進、ごめんね。お母さんがもっとお金を残してあげられたら。もっと、勉強に専念させてあげられたら……」
感情が溢れ、千夜子の霊体から大粒の光の滴がこぼれ落ちる。
しかし、治郎蔵は千夜子の肩を抱き寄せ、こう言った。
「千夜子。あの子は今、『負けること』を学んでいる。エリートたちが一度の失敗で細田くんのように折れていく中で、進は何度も、何度も、泥を噛んで立ち上がる力を蓄えている。これこそが、将来、本当の幸せを掴むための財産になるのだ」
夕映えに染まる鴨川のほとりで、進は空を見上げた。
その瞳は、絶望に濁ることなく、むしろ次の戦いを見据えて研ぎ澄まされていた。
千夜子は悟った。
自分の霊格が上がらないのは、進を「助けなければならない弱い存在」だと決めつけていたからだ。
進は、もう強い。
母の愛をエネルギーに変え、何もかも踏み台にして、まだ見ぬ可能性へと漕ぎ出そうとしている。
千夜子は、こぼれた光の涙を拭い、治郎蔵に告げた。
「お父さん、私、もう少しここで頑張ります。進が、自分の力でその『重い門』をこじ開けるその日まで」
古都の夜風が、進の耳元で松任谷由実の『青い舟で』を微かに奏でたような気がした。
進が、まだ定時制高校にいた頃によく時々聴いていた曲だ。
進たちを乗せた船は、暗い夜の海を、しかし確かな方角へと進んでいた。
それは、決して孤独な航海ではない。
傍らには、母・千夜子が静かに寄り添っていた。
進には、このあと、誰も予想しなかったドラマチックな展開が待っている。
指導霊は、既にそれを予見している。
だが、何も言わない。
それが、霊界の掟なのだ。




