第2章 背後霊の限界と、泥中に咲く蓮
【守護霊への遠き道】
「お父さん、私、もう十分学びました。進の痛みも、この世の不条理も、霊界のルールも分かったつもりです。これなら、すぐにでもあの子の『守護霊』になれますよね?」
幽界の学び舎で、千夜子は自信に満ちた表情で父・治郎蔵に問いかけた。
補助霊として進の傍らに立ち、彼が政夫の家を脱出し、鹿沢家を経て大阪の定時制へと辿り着くまでの激動を見守ってきた。
進の肩に触れることはできずとも、その苦渋の決断を、千夜子は誰よりも近くで共に泣きながら支えてきた自負があった。
しかし、治郎蔵は静かに首を振った。
その瞳には、慈愛を通り越した「峻厳」が宿っていた。
「千夜子、守護霊という役職はそんな甘いものではない。私を見てごらん。お前をあれほど愛し、不器用ながらも見守ってきた私でさえ、お前の『主護霊』には就任できなかったのだよ。今の私は、お前の成長を助ける『指導霊』の端くれに過ぎない。進の背後霊も兼ねているがな」
千夜子は絶句した。
父でさえ、一段階下の地位にいるというのか。
そこへ、霧の中から導き霊が音もなく現れた。
その透き通った瞳が千夜子を射抜く。
「伊崎千夜子。私がこの『導き霊』の座に就くために、何年前からこの学びを続けているかご存じですか?」
導き霊が告げたその年数は、千夜子の想像を絶するものだった。
人間の寿命を何倍も上回る、気の遠くなるような歳月。
「それでは……進が生きている間に、私はあの子の守護霊になれないというのですか?」
千夜子の声が震える。
導き霊は静かに語った。
「主護霊とは、魂の輪廻すべてを把握し、宿命の手綱を握る者。今のあなたには無理です。しかし、絶望することはありません。今から言うように励みなさい。進の人生を、自らの欲や未練を排して、ただ『純粋な祈り』として見守り抜くのです。そうすれば、あの子が生きているうちに、より強力な『指導霊』の一員として、あの子の運命を劇的に好転させる許可が下りるかもしれません」
【大阪、祝宴の光と影】
千夜子は、再び進の背後に降り立った。
進は、郁代の母(鹿沢の姉)から食事に招待されていた。
自分の娘が不合格になった高校に入学する進。
それを心から祝福する鹿沢の姉。
進はご馳走を振る舞われ、図書券を贈られ、満面の笑顔で祝福されていた。
「凄い。この女の人は凄い」
純粋に、他人の幸せを祝うことができる人。
その温かさに触れたとき、千夜子の魂は震えた。
「こんな人が本当にいるのか」
千夜子は、感動で、胸が震えていた。
「お父さん、見て。進が泣いているわ。あの子、孤独じゃない。まさにい(進の叔父・政夫)のような人ばかりじゃないって、ようやく分かったのね」
思わず進を抱きしめようとする千夜子の手を、治郎蔵が制する。
「待て、千夜子。また感情が先走っている。あの子の喜びを『自分の手柄』のように感じてはいけない。静かに見守るのだ」
「いけない」
千夜子は反省した。
こんなことでは、いつまでも補助霊のままだ。
「冷静になる。冷静にならないと」
進が大阪へ向かう高速バスに乗った時、千夜子は彼の隣に座った。
信州の山影が遠ざかるのを、進と同じ寂しさと期待を持って見つめた。
「進、がんばるのよ。お母さん、応援するわ」
しかし、その後の寮生活。
進は1年生として、「奴隷」のような扱いを受けていた。
寮や町中で上級生に会ったら大声で気合いを入れて挨拶しないといけない。
まあ、そのくらいは仕方ないとも思った。
ただ、寮のイベントでの上級生の態度に、千夜子の「母としての怒り」が再燃した。
「何よ、この上級生たちは! 進がどれだけ苦労してここに来たと思っているの! 」
進は、食事会で、七輪で肉を焼いていた。
目の前の先輩から山盛りのご飯を無理やり食べさせられた。
進がいくら断っても、先輩は次々とご飯を進に差し出す。
進はもう食べ切れない。
千夜子は、天井から見おろしながら激怒した。
「何、あの上級生。イジメだわ」
千夜子は叫ぶ。
「これは教育じゃない。ただの虐待よ!」
千夜子の怒りで、寮の食堂の空気が一瞬だけ氷結したように冷え込んだ。
進が震えながら5杯目を完食した瞬間、千夜子は先輩の背後からその霊体を突き飛ばそうとした。
「おやめなさい!」
導き霊の声が、千夜子の脳内に直接響く。
「彼は、この理不尽を飲み込むことで、将来出会う『弱者の痛み』を学んでいるのです。あなたが今、この先輩に罰を与えれば、進は『耐えることの無意味さ』を知ってしまう。彼を信じなさい」
【鹿沢と美智子、二つの灯火】
千夜子は、進の周囲に集まる魂の色彩を注意深く観察するようになった。
信州で進を救った鹿沢慎之助。
彼の背後には、彼がかつて失った夢と、亡き母への思慕がオーラとなって漂っている。
千夜子は、霊界から鹿沢の背中にそっと手を添え、彼が絶望に折れないよう、微かな勇気を送り続けた。
鹿沢は、毎日泣いていた。
進を引き取ったのに、あんな形になってしまった。
ただ、鹿沢は定期的に進に電話をかけ、お菓子や果物を寮に送った。
鹿沢の努力と周囲の援助で、僅かずつだが借金は減っていった。
「鹿沢さん、ありがとう。進を息子だと言ってくれて……」
鹿沢は後日、進が食事会で酷い目にあったことを知った。
鹿沢は激怒し、寮に講義すると言った。
しかし、それを思いとどまらせたのは、なんと進だった。
千夜子は驚いた。
「進、なぜ?正当な抗議でしょう」
治郎蔵が言う。
「千夜子、落ち着きなさい」
納得のいかない千夜子だった。
進は中学の時、クラスメイトの加登から「お前の母親はキャバレーで働いてるんだろ」と言われ、喧嘩になった。
あの時は、進は言い返した。
今回は、進は耐えた。
戦略的に耐えたのだ。
千夜子はひたすら悔しかった。
だが、一方で嬉しいこともあった。
「私の代わりに、鹿沢さんが進の上級生に激怒してくれた」
それが最高に嬉しかった。
「進は、こんな良い人と巡り会えて、本当に良かった」
そう思うと千夜子は、ほんの少しだけ冷静さを取り戻した。
やがて、進の前に上林美智子が現れた。
大阪の進の勤務先の図書館に、届けものを持ってきたのだ。
彼女が現れたとき、千夜子は不思議な予感を覚えた。
美智子の魂は、進の持つ鋭い知性と対照的に、すべてを包み込むような柔らかい、しかし芯の強い光を放っていた。
境遇も進に似ていた。
小学校入学前後に両親が離婚し、父親に引き取られていた。
「進の周りに集まる人って、似た境遇の人が多いわね」
千夜子は、大事なことに気づき初めていた。
「お父さん、あの子……進の将来の……」
千夜子は、父・治郎蔵に尋ねた。
「まだ、それは誰にも分からないことだ。だが、彼女もまた夜に学ぶ同志。あの子たちの魂が共鳴するのは、当然かもしれんな」
千夜子は、進と美智子が「がんばろう」と交わす短い言葉に、自分が生前、夫・俊郎と交わしたかった「信頼」の形を見た。
【時代の奔流と、0点の衝撃】
1985年。
現世の大阪は、豊田商事事件、日航機墜落、そして阪神タイガースの優勝と、狂騒と絶望が入り混じっていた。
千夜子は、進が社会の暴力性に怯え、死の偶然性に戦慄する姿を、ただ寄り添って見つめた。
そんなとき、山畑という寮友が、他の寮友の通帳を盗み、金を引き出す事件が起きた。
千夜子は進が「1円の重み」を噛み締める姿を見て、自らの人生を振り返った。
(そうよ、進。お金は命の欠片。道を踏み外してはいけない)
しかし、その後、千夜子は再びパニックに陥った。
進が模試で酷い成績を取ったのだ。
それは「偏差値32、英語・数学0点」という結果だった。
「そんな……!もともとあの子は勉強ができたはずよ。定時制高校で、勉強する時間がないから、こんなことになったのね。こんな残酷なことがあっていいの!」
千夜子は霊界の指導霊に食ってかかった。
「これが『学び』だというのですか? 努力が報われないことを教えるのが、神様のやり方なのですか!」
指導霊は、深夜の寮で拳を握りしめる進を見下ろしながら、静かに言った。
「千夜子、よく見なさい。あの子の顔を。絶望しているか?」
進は、暗闇の中で
「0点なら、あとは上がるだけだ」
と呟いていた。
レベッカの『Maybe Tomorrow』が流れる。
そんな中で、進の瞳には、かつてないほど激しい「逆襲の炎」が灯っていた。
「彼は今、自らの『無力』という名の底を打ったのです。ここから始まるのは、誰に与えられたものでもない、彼自身の知性の再構築です」
千夜子は、涙を拭い、進の隣に座った。
直接答えを教えることはできない。
英語の単語を思い出させることもできない。
けれど、彼が深夜、重い瞼をこすりながら参考書を開くとき、千夜子は彼の背中を支える「椅子」になり、彼の心を温める「毛布」になろうと決意した。
「……そうね。0点は、始まりの数字なのね。進、お母さんも一緒に戦うわ。一人前の守護霊にはなれなくても、あなたの心の一番近くにいる『お母さん』として」
大阪の冬の夜。
進の開いた教科書の上に、千夜子の透明な祈りが重なった。
それは、どんな偏差値の数字よりも強く、進の未来を照らし始めていた。




