第4章 連帯保証の嵐と、大阪への片道切符
【 幽界の慟哭、救世主の出現】
信州の凍てつく寒さの中、進の心はまさにい——兄・政夫の無慈悲な言葉によって粉砕されていた。
補助霊として進の背後に寄り添う千夜子は、霊界の石畳を爪が剥がれるほどに掻きむしり、叫び続けていた。
「まさにい! その本はゴミじゃない、あの子の血であり肉なのよ! 返して、あの子に返して!」
千夜子の怒りと悲しみに呼応するように、政夫の家の窓ガラスが小さく震える。
だが、幽界のルールは無情だ。
直接、現世の物質を動かすことも、政夫の喉元を締め上げることも許されない。
「落ち着け、千夜子。見ろ、新しい『縁』が動こうとしている」
父・治郎蔵の声に顔を上げると、そこには一人の男が立っていた。
鹿沢慎之助。
その魂の輝きを見た瞬間、千夜子は直感した。
この人は、進を「知性の死」から救い出してくれる人だ、と。
鹿沢が政夫を説得し、進を松本へと連れ戻してくれた。
「俺たちが高校に行かせてやる」
千夜子は鹿沢の背中に向かって、これ以上ないほど深い感謝の祈りを捧げた。
進とは、何の縁もないはずの鹿沢。
「いくら、昔、同じような境遇だったとは言え、ここまでしてくださるなんて…」
千夜子は、もう、いても立ってもいられないほどの喜びを感じていた。
【 連帯保証という悪魔、三千万円の絶望】
松本での平穏。温かい味噌汁と、夜に本を開ける自由。
千夜子は進の寝顔を見守りながら、ようやく補助霊として安らぎを得ようとしていた。
「俺も15の時におふくろが亡くなったんだ。だから高校に行けなかった」
鹿沢も、進に近い過去を持っていた。
進と違うのは、一人っ子ではなかったことだ。
父親も生きてはいたが、病気療養中だった。
鹿沢の母も過労による突然死だった。
驚くことに、鹿沢の母が亡くなった時期は、進の母・千夜子の父・治郎蔵が亡くなったのと、ほぼ同時期だった。
鹿沢は、進を我が子のように扱った。
息子と娘が1人ずついたが、全く別け隔てしなかった。
血のつながりがなくても、縁のあった関係だと思っていたのだ。
進はこれで、高校に行ける目処がついた。
誰もがそう思った。
しかし、運命の歯車は再び、最も残酷な形で回り始める。
「夜逃げ……」
鹿沢の口から漏れたその言葉を聞いた瞬間、千夜子の心臓(魂の中核)が凍りついた。
かつて自分が、そして夫・俊郎が進の手を引いて岡崎から逃げ出したあの夜。
あの時の惨めさと、喉の奥にこびりつく鉄の味を、恩人である鹿沢が味わうことになるなんて。
さらに突きつけられた「三千万円」という負債の重み。
鹿沢は、友人の連帯保証人になっていた。
それは、信頼していた幼なじみだった。
「あいつが裏切るわけがない」
鹿沢は、二つ返事で連帯保証人を引き受けていたのだった。
頭を抱え、うずくまる鹿沢。
鹿沢の妻が横でオロオロしている。
「あいつが夜逃げするなんて嘘だ。信じてたのに」
鹿沢が呟く。
しかし、それは本当だった。
「どうしましょう。どうしたら良いか分からないわ」
鹿沢の妻は深く溜息をついた。
「お父さん! 何か、何か手立てはないの? 」
千夜子は取り乱し、父・治郎蔵に話しかけていた。
「鹿沢さんはあんなに善良な人なのに、どうして不条理な裏切りに遭わなきゃいけないの!」
千夜子は導き霊の衣を掴んで激しく揺さぶった。
「なぜ神様は、真面目な人をこんなに苦しめるの! これじゃ、私が命を削って働いていた時と何も変わらないじゃない!」
導き霊は、静かにその手を解いた。
「千夜子。これは鹿沢氏の、そして進の魂が選んだ『修羅の学び』です。無知は、時として悪意よりも残酷な結果を招く。それを進に見せているのです。あなたがここで鹿沢氏に宝くじを当てさせるような奇跡を起こせば、進の魂はそれ以上成長しないでしょう」
「そんな…おかしいわ。おかしいわよ」
進の母・千夜子は、これが「学び」だとは、到底納得出来なかった。
「正直者がなんでバカをみるの。絶対おかしいわ」
千夜子の怒りは頂点に達していた。
「千夜子、耐えるんだ。これは千夜子の修行でもあり、祖父の私の修行でもあるんだ」
「でも…」
治郎蔵は続けた。
「良いか。人はな、必要な経験をして魂が磨かれるのだ。この世はそのための道場なんだ」
【進の決断と、母の「優しい嘘」への共鳴】
進が自ら「大阪の定時制高校へ行く」と決意した夜。
千夜子は、進が自分の存在を「鹿沢家の重荷」と考え、自ら愛する場所を去ろうとするその健気な自己犠牲に、胸が張り裂けそうになった。
(進……いいのよ。あなたは甘えてもいいの。まだ子供なんだから)
千夜子は、これも納得出来なかった。
進は、地元の名門・高志高校に入る実力があると言われてきた。
しかし、引き取られた先の叔父・政夫に「高校になど行くな」と止められた。
それを鹿沢は救った。
鹿沢は「俺たちが高校に行かせてやる」と言ってくれた。
それなのに、鹿沢宅は、連帯保証の負債に苦しむことになった。
進の高校入学は、また危うくなっていた。
「何とかならないの?ねえ、進が可哀想!」
「落ち着きなさい、千夜子!」
千夜子の父・治郎蔵が静かにたしなめた。
治郎蔵が言う。
「千夜子、進の顔を見てみなさい」
千夜子は、はっとした。
進の眼差しには、かつての自分にはなかった「覚悟」が宿っていた。
「真面目に生きている人が、無知ゆえに泣かされる。そんな世界を、僕が変える」
その言葉を聞いたとき、千夜子の周りを渦巻いていた「恨み」の霧が、一気に晴れていった。
進は、母の死という悲劇を、誰かを救うための「誓い」へと昇華させようとしていたのだ。
「……そうね。あなたは私を超えていくのね」
千夜子は泣きながら微笑んだ。
もう、現世の「恨み」のエネルギーを、進の未来を照らす光に変える時が来たのだ。
【高速バスのメロディと、幽界のサイン】
大阪へ向かう夜行バス。
進のイヤホンから漏れ聞こえてくる、松田聖子の『Sweet Memories』。
千夜子はこの曲を、霊界からの「サイン」として進に届けようと試みた。
進がこの曲に聴き入り、涙する時、千夜子は彼の首筋をそっと撫で、自分の存在を香らせようとした。
「進、聞こえる? お母さんも、幸せだったのよ。あなたを守るために働けた時間は、私の誇りだった。だから、嘘を吐かなくていい。今のあなたの悲しみは、いつか必ず、誰かの痛みを理解するための『優しさ』に変わるから」
幽界のルールは「直接手を貸さない」こと。
だが、音楽の波に乗せて想いを伝えることは、補助霊に許された数少ない「サイン」だった。
進が窓の外を見つめ、声を出さずに泣いた時、千夜子もまた、彼のすぐ隣の席で、透き通った涙を流し続けていた。
【大阪、合格発表の前夜に】
試験会場。
進は、定時制高校の入試問題に「簡単すぎる」と感じていた。
進は、もともと地元の難関高校・高志高校を志望だったため、かなりハイレベルの受験勉強を重ねていた。
それなのに、定時制高校の入試問題は、ほぼ全てが平易な基本問題だった。
進は、簡単過ぎて「何か裏があるのでは」と何度も何度も見直した。
「進、大丈夫よ」
母・千夜子は天井の高いところから進を見おろしていた。
一方で千夜子は、その問題の裏側に、「現世の格差」という名の不条理を見た。
一緒に受験した郁代という少女の絶望を感じたからだ。
彼女は、鹿沢の姪だという。
千夜子は、初めて見たとき、素直で良い娘だと思った。
ただ、全然勉強が出来ないらしい。
千夜子は思った。
「一緒に受かってほしい」
だが、進だけが合格し、郁代は不合格だった。
学びの入り口で立ち往生する彼女の姿。
千夜子は他人ごとながら、郁代が可哀想で仕方なかった。
「進。あなたは、その学力を、持たざる者のために使いなさい」
千夜子は、大阪の夕暮れに染まる進の横顔を見つめた。
補助霊として就任してから四十九日を超え、千夜子は少しずつ理解し始めていた。
自分がすべきことは、進の進む道から石ころを取り除くことではない。
進が石に躓いて転んだとき、立ち上がるための「心の中の火」を絶やさないことなのだ、と。
「お父さん、私、あの子を信じられるようになったわ。あの子はもう、誰かの犠牲になる『人柱』じゃない。自分の力で、不条理な海を渡る『船』になったのね」
治郎蔵は、松本から大阪へと舞台を移した孫の背中を頼もしそうに見つめ、千夜子の肩を叩いた。
「ああ。これからは、大阪の風が私たちの言葉になる。進が弁護士を目指す修羅の道、しっかりと支えてやろうな」
千夜子が頷く。
しかし、指導霊が静かに語り掛けた。
「進が、弁護士を順調に目指せるかどうかも、分かりません。全てが魂の修行」
千夜子は、また頷く。
ただ、千夜子は進の母だ。
どうしても、平穏なハッピーエンドを願ってしまう。
「千夜子、これからも手出しはするな。1日も早く守護霊にならないとな」
そう語り掛ける千夜子の父・治郎蔵自身は、ようやく守護霊として認められる最終段階に近づきつつあった。
大阪の街の灯りが、進の瞳に映る。
その瞳の奥には、母・千夜子が灯した「青い炎」が、誰にも消せない輝きを放って燃え盛っていた。
千夜子は静かに、進の心に寄り添いながら、明日という新しい扉が開くのを待った。
だが、この後から待ち受ける様々な困難。
進を見守る補助霊・進の母・千夜子の守護霊までの道のりは、まだ遠いものだったのだ。
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