第3章 沈黙の誓約、漆黒の家庭
【幽界の「補助霊」としての第一歩】
四十九日の節目を越え、千夜子は正式に、進の背後で支える「補助霊」としての活動を許された。
しかし、それは彼女が望んでいたような「万能の救済者」になることではなかった。
「伊崎千夜子。あなたは進のすぐそばに留まることができます。しかし、肝に銘じなさい。あなたはあくまで『風』であり『光』です。決して彼に代わって嵐を止める『壁』になってはなりません」
導き霊の厳格な通告が、霊界の冷たい大気に響く。
隣には、見届け人として父・治郎蔵が立っている。
千夜子は震える拳を握りしめ、現世で一人、叔父・政夫の工場が放つ重苦しい鉄の匂いの中に佇む進を見つめていた。
【怒りの炎と、治郎蔵の制止】
進が「特待生なら高校へ行ける」という唯一の希望を抱き、伊勢先生に縋った時。
千夜子の魂は、歓喜で震えた。
(そうよ、進。勉強さえできれば、あなたはあの家から抜け出せる!)
しかし、現実はあまりに無慈悲だった。
まさにい——兄・政夫の口から放たれた「高校など行くな」という言葉。
それは、千夜子が命を削って買い与えた本を、進の未来ごと踏みにじる暴力だった。
「まさにい! 何を言っているの! 進は理屈っぽくて、本を読むのが何より好きな子なのよ! その芽を摘まないで!」
千夜子の魂が激しく発火し、政夫の居間の空気が一瞬、物理的に歪んだ。
電球が小さく明滅し、政夫が不審げに天井を仰ぐ。
「やめなさい、千夜子!」
治郎蔵が、千夜子の肩を強く掴んだ。
「お父さん、離して! あの人は進の人生を壊そうとしているのよ!」
「聞こえないのか、千夜子。あの子は今、自分の足で絶望の沼を渡っている。お前が怒りでこの家の空気を乱せば、進は余計な恐怖を感じ、思考を止めてしまう。守護とは、お前の感情をぶつけることではない!」
「でも……!」
「見なさい、進の目を。あの子はまだ、諦めていない」
治郎蔵の指し示す先。
松本駅の冷たい待合室で、あみんの『待つわ』が流れる中、独りペンを走らせる息子の姿があった。
千夜子は、溢れ出る涙を堪え、ただ進の右肩にそっと寄り添った。
言葉は届かない。けれど、彼のペン先が震えるたび、千夜子は自分の霊体の輝きを分け与えるように、祈りを込めた。
進は、家で勉強することを禁じられている。
だから、駅の待合室で勉強すると決めたのだ。
千夜子は思う。
「受験生よ。おかしいわ。家で勉強させてあげて」
治郎蔵が言う。
「黙って見守るんだ」
【本という名の殉教、千夜子の慟哭】
悲劇はそれで終わらなかった。
進は、学年二位という驚異的な結果を叩き出した。
担任の伊勢も、「これで叔父さんを説得できる」と意気込んだ。
しかし、そんな進に対し、政夫が下した決断は非情だった。
「それでも高校に行くのは認めない」という宣告。
「高校なんて、人生の無駄なんだよ。何度言ったら分かるんだ。学問なんかやる奴はな、人間のクズになり下がるんだよ」
進の叔父・政夫は、頑として聞かなかった。
そして進に命令した。
「お前の、この本を全部捨てろ。邪魔だ」
それは千夜子にとって、自分の人生そのものを否定される以上の苦しみだった。
「こんなものがあるから、高校に行きたくなるんだ。今すぐ、ここに詰めろ。明日、捨ててきてやる」
政夫は大声で言い放った。
「特待生になろうなんて、バカなことを考えるのは、この本のせいだ。汚らわしい」
進の母・千夜子が叫ぶ。
「それは私が……私が夜中に立ち仕事をして、ようやく一冊ずつ買い足した本なのよ。あの子の友達なのよ!」
ただ、その声は誰にも聞こえない。
進が泣きながら、一冊ずつ本を段ボールに詰めていく。
千夜子の「化身」たちが、冷たいゴミとして扱われていく光景。
千夜子は狂ったように進の腕を掴もうとした。
(捨てないで、進。持って逃げて。お母さんがここにいるから!)
しかし、彼女の手は空を切り、進の体を通り抜ける。
「ルールを忘れるな」
導き霊が、冷徹に現れた。
「あなたが今、彼の耳元で囁けば、彼は叔父への憎しみに支配され、自暴自棄になるでしょう。それは彼の『学び』を奪う行為です。本は紙に過ぎない。しかし、あの子の中に刻まれた『言葉』は、誰にも捨てられないのです」
千夜子は膝をつき、嗚咽した。
「……悔しい。あの子が、私があげたものを、自分の手で捨てなきゃいけないなんて」
その時だった。
進が、一冊の本——『挫折で人は強くなる』だけを鞄の奥底に隠した。
千夜子の魂が、かすかに震えた。
(ああ……進。あなたは、一番大切なものを分かっているのね)
【漆黒の団欒と、叔母の麻婆茄子】
土曜日の夕食。テレビの中では『オレたちひょうきん族』が馬鹿げた笑い声を上げている。
進が、叔母の作った麻婆茄子を無表情に口に運ぶ。
千夜子は、その情景を複雑な思いで見守っていた。
かつて自分も実家で、父・治郎蔵と母・智代のもとで「引き裂かれた食卓」を囲んでいた。
ただ、父・治郎蔵は、いつも千夜子の味方だった。
今、進を救おうとしているのは、政夫の妻である叔母の、ささやかな、しかし確かな善意だ。
「すーちゃん、美味しい?」
千夜子は、叔母の背後に回り、彼女の手にそっと自分の手を重ねた。
(ありがとう……。この子に、温かいものを食べさせてくれて。まさにいを止めることはできなくても、あなたがこの子に優しくしてくれるだけで、私は救われるわ)
千夜子は、憎しみだけで世界を見るのをやめた。
自分一人で進を守ろうとする傲慢さを捨て、現世に残る「善意の欠片」を繋ぎ合わせること。
それもまた、補助霊としての重要な役割だと気づき始めたのだ。
【手のひらを太陽に】
翌日、凍てつく冬空の下、進が自分の掌を太陽に透かした。
「真っ赤に流れる僕の血潮……」
進の呟きが、千夜子の心にダイレクトに響く。
「そうよ、進。その血は、私と、お父さんと、おじいちゃんから繋がった命の色。どんなに本を奪われても、あなたの体の中にあるその輝きだけは、誰にも奪えない」
千夜子は、進の掌の上に、自分の光を重ねた。
進には見えない。けれど、彼が「もう少し、粘ってみよう」と自分に誓った時、松本の冷たい風が一瞬だけ、春のような温かさを帯びた。
「よく耐えたな、千夜子。あの子は、お前が思うよりずっと強い」
治郎蔵が隣で頷く。
千夜子は、まだ補助霊として未熟だった。政夫への怒りに震え、進を抱きしめられないもどかしさに涙する夜は続くだろう。
しかし、彼女は決意した。
直接手を貸すことはできない。けれど、進が暗闇の中で「懐中電灯」を必要とする時、彼の心の中に、かつて読み聞かせた物語の記憶を、母の微笑みの残像を、一筋の光として送り続けることを。
治郎蔵が言う。
「私も、人間界にいたときは未熟だった。この世界(霊界)に来てからも、千夜子が心配で、いつもそばにいた。今、千夜子が進に感じているのと同じ思いだった。千夜子。お前の気持ちは分かる。だが、耐えろ」
千夜子は静かに頷いた。
信州の漆黒の夜はまだ続く。
だが、その闇のすぐ傍らで、千夜子は静かに翼を広げ、進の明日をじっと見守り続けていた。




