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第4章 夢の世界での導き

【夢への降臨、緊迫の神殿】


 令和8年、初夏。現世の進が、度重なる理不尽な労働による傷を「適応障害」という名で受け入れ、自らの内面を見つめ直し始めたその夜、霊界の白銀の神殿には、かつてないほどの緊張感が満ちていた。


「千夜子よ。今こそ、進の魂の深層へ降り立つ時です」

 指導霊が厳かに杖を掲げると、現世の進の脳波とシンクロするように、神殿の大鏡が深く、底知れぬ藍色の渦を描き始めた。

 「主護霊が対象の『夢』に直接介入することは、霊界ののりにおいて重大な儀式です。あなたの恐怖や生前の未練を少しでも混ぜてはなりません。ただ純白の神界の光として、あの子の羅針盤となる言葉を届けるのです」


 「はい……」

 千夜子は胸の前で手を握り締め、深く呼吸をした。 

 隣では智代が、我がことのように祈るような眼差しで千夜子の背中を見つめている。

 千夜子は目を閉じると、自らのすべての霊格を一点に集中させ、進の見る「夢の迷宮」のなかへと、静かにその意識を滑り込ませていった。


【名古屋の渚、美しき啓示】


 進の夢の中は、当初、コールセンターの罵声と冷酷な叱責が飛び交う暗い事務所の景色だった。

 千夜子はそこへ、まばゆい純白の光を差し込ませ、コンクリートの闇を一瞬にして消し去った。


 再構築されたのは、昭和の懐かしい名古屋の街並み。

 轟音を立てて走り抜ける名鉄パノラマカーの赤い車体、そして「チューリップのお店」。

 千夜子は、自らの霊体を、進が最も安心を覚える「二十代の若々しく美しい母親」の姿へと変えて、小さな子どもの姿になった進の隣に立った。


 「今日は暑いね、進」


 進が驚愕の目で見上げてくる。

 夢の中の空気は冬の陽だまりのように温かく、千夜子が愛おしそうに進の頭を撫でる掌の感触は、驚くほど生々しかった。


 「進は、大きくなったら、何になりたい?」

 戸惑う進に、千夜子は遠い水平線を見つめる瞳で、優しく、しかし確信を込めて語りかけた。

 「教える仕事が良いかな」


 そして、昼間に医師から告げられた「凸凹でこぼこ」という言葉を、千夜子は自らの声で、どこまでも柔らかく響かせた。

 「人にはね、向いていることと向かないことがあるの。これからは、それを選べる時代になるわ。……パパやママは、選べなかったけれど」


 千夜子の声には、時代という抗えない奔流に身を任せるしかなかった、

 生前の自分と俊郎の深い哀しみが自然と宿っていた。

 「選べなかったの?」

 「そう。選べなかった。道は一つしかなかったの。でもね、進は選べるの。ママやパパと違うのよ。……自分の手で選ばなきゃダメよ。約束してくれる?」


【なかくらの因縁、哀しき反逆の真実】


 千夜子は膝を抱えた進をそっと引き寄せると、智代が幽界での苦行を経て純化させ、自分へと託してくれた「一族の血脈の物語」を、静かに進の魂へと流し込んでいった。


 「進のおばあちゃんね。実家は『なかくら』っていう大きな元庄屋だったの。……けれど、おばあちゃんのお父さま……進の曾祖父さまね。その人がひどくお金を使っちゃって、家はすっかり貧乏になったの」


 千夜子の美しい瞳に、一度も見ることのなかった仲倉家の栄華と没落の情景が、智代の記憶を通じて鮮やかに映し出される。


 「良い家に育って、お嬢様って呼ばれていたおばあちゃんが、あのおじいさんに嫁いだのは、本当に……本当に悲しいことだった。政夫おじさんは、それをずっと恨んでいるわ。おばあちゃんのことも、おばあちゃんをそんな人にしてしまった『なかくら』という家のこともね」


 進が息を呑むのが分かった。

 信州の叔父・政夫が、なぜあの日、千夜子の遺した本を塵芥のように蔑み、進の高校進学を拒絶したのか。

 その凍てついた地層の奥にある理由を、千夜子は静かに紐解いていく。


 「おばあちゃんはね、下品なことを何よりも嫌いだったわ。だから、政夫おじさんが『畜生』と吐き捨てて悔しがっていると、酷く叱ったの。『相手は人なのだから、獣のように呼んではいけません』って。……だから、今の政夫おじさんはね、家でわざと下らないテレビを見ては大声で笑うのよ。おかしいでしょう。それは、もういないおばあちゃんに対する、おじさんなりの精一杯の仕返しなのね」


 進の脳裏に、俗悪な笑いに身を委ねていた政夫の姿が蘇る。

 あれは愉悦ではなく、自分を縛り付けた母の「気高さ」への、孤独で哀しい反逆だったのだ。


 「政夫おじさんの怒りも、分かってあげてほしい。みんな、自分なりの『正しさ』を持っているの。必死に生きているの。進……みんな、精一杯生きていることだけは、忘れないでね」


【二人の進、そして静かなる寝息】


 千夜子は最後に、まっすぐ進の瞳を覗き込んだ。

 その眼差しは、主護霊としての鋭い神聖さと、母親としての無限の慈愛に満ちていた。


 「進は選べるのよ。おばあちゃんとも、パパやママとも違う。ママには見えるの、大人になった進が。でもね、全然違う進が二人いる。……すごく生き生きとして輝いている進と、合っていない場所で、肩を落として落ち込んでいる進」


 千夜子は、進の魂の核心を揺さぶるように、強く、激しく叫んだ。


 「いい、進。自分を殺すような場所に、居続けちゃダメよ!」


 その叫びが響いた瞬間、波が引くように夢の景色が遠のき、進は真夜中の静寂の中で跳ねるように目を覚ました。

 心臓が激しく波打つなか、部屋の静寂の奥から、かすかな音が聞こえてくる。


 すーっ、すーっ……。


 それは、すぐ横で眠る美智子のものよりもずっと小さく、幼い、どこか見守るような穏やかな寝息。

 かつて蒲郡の借家で、父・治郎蔵が千夜子のために立ててしまったあの愛の寝息のように、今度は主護霊となった千夜子と智代の放つ守護の波動が、現世の物理的な音となって進の耳へと届いていたのだ。


 「……進君、起きてるの?」

 目を覚ました美智子に、進が震える声で「誰かいるような寝息が聞こえないか」と問いかけると、美智子は闇の中でじっと耳を澄まし、確信を持って頷いた。

 「うん……聞こえるよ。進君。ずっと前から、時々聞こえていたよ」


 霊界の神殿に戻った千夜子は、智代としっかりと抱き合った。

 「よくやりました、千夜子。智代。進の魂の羅針盤は、今、完全に正しい方角を向きましたよ」

 指導霊の温かい言葉の通り、鏡の向こうの進の胸には、合っていない場所から立ち去り、自らの凸凹を受け入れて主人公として生きる「真の覚悟」が、静かな闇の中で、青く、優しく、満ち満ちていくのであった。

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