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第3章 漆喰の呪縛と、砂の楼閣

【「三人目」の亡霊】


 俊郎への恨みが、冷めた憐れみへと変わったとき、千夜子は今度こそ霊界の奥へと進めると信じた。

 しかし、治郎蔵の背後に立つ指導霊の指先は、まだ「過去」を指し示していた。


「千夜子。お前が、その男との再婚で『楽になれる』と信じ、そして裏切られたあの痛み……木島を、お前はまだ許していない」


 千夜子の表情が、一瞬で凍りついた。

 「木島……。あいつは、俊郎とは別の意味で許せません。家を建てると豪語して私を騙し、進にまで意味不明なルールを押し付けました。あいつのせいで、私は進に、またしても地獄を見せてしまったんです」

 黙って聞く指導霊と父・治郎蔵。

 治郎蔵は少しだけ微笑んでいた。

 「進を傷つけたあいつの傲慢さだけは、絶対に許すべきではありません!」


 指導霊は静かに幕を開いた。

 そこに映し出されたのは、昭和二十年代のドブ川の匂いが漂う、貧しい長屋の光景だった。


こてに込めた「生存の狂気」】


 木島は、戦後の焼け跡から立ち上がろうとする日本の、最も泥臭い場所で育った。

 日雇い労働で疲弊する父と、感情を殺して家計をやりくりする母。

 少年時代の木島にとって、世界は「弱肉強食の狩り場」でしかなかった。


 中学を卒業し、左官の世界へ放り込まれた彼を待っていたのは、漆喰しっくいと汗、そして暴力が支配する徒弟制度だった。

 「飯を食うのが遅い奴に、壁を塗る資格はねえ!」

  親方の怒声とともに飛んでくる鉄拳。

 現場では、壁が乾き始める「刹那」がすべてだった。

 その一瞬を逃せば、職人の誇りは崩れ去る。

  彼にとって、食事を二分で終えることも、醤油以外の贅沢を断つことも、すべては「職人として生き残るための止むを得ない手段」だったのである。


 前の妻が逃げ出した理由もそこにあった。

 彼は、自分が生き抜くために身につけた「狂気じみた規律」こそが、家族を守るための唯一の武器だと信じ込んでいた。

 愛すればこそ、彼は息子を、自分と同じような「過酷な現場で死なない男」に鍛え上げようとした。

 そして、その心を粉砕してしまったのだ。


【「年金運搬機」の呪い】


 さらに千夜子が見たのは、木島の母が冷たく言い放った一言だった。

 「あれはただの、年金運搬機だよ」


 長年連れ添った夫を「モノ」としてしか見ない母の言葉。

 それは木島の深層心理に、「稼がなければ価値がない」「家一軒建てられなければ人間ではない」という強迫観念を植え付けた。

 木島の両親は、親が決めた結婚だった。

 愛情なんて、最初からなかった。

 打算と外聞、世間体で結びついている夫婦。

 木島が千夜子に見せた自信満々な図面。

 進に与えようとした「広い部屋」。

 それは純粋な愛情ではない。

 そんなものは元々知らないのだ。

 木島は、自分が「稼げる男」であり、一流であることを証明したかった。

 悲しい虚栄の叫びだったのだ。


 千夜子は、木島の横柄な態度の裏に隠されていた、震えるような「恐怖」を初めて目にした。

  もし、稼げなくなったら。

 もし、家族を支配できなくなったら。

 自分はゴミのように捨てられる——。

 その恐怖が、彼をより一層、暴君へと変えていたのだ。


【 楼閣の残骸に、風が吹く】


「……なんて、不自由な人だったのかしら」


 千夜子は呟いた。

 木島が実の息子たちに強いた「二分の食事」は、嫌がらせではなく、「教育」の形だった。

 そして、絶対にニュース番組しか見ない頑なさも木島の弱さの現れだった。

 進に対して、「好きな番組を見たいなら自分で稼いでテレビを買え」と言ったのも、コンプレックスの裏返しだった。

 もちろん、進のような繊細な魂を持つ少年には、それは毒にしかならなかった。

 でも、それは木島の善意から出たものだったのだ。


「あの人は、土や砂や石灰としか対話できなかったのね。人間の心という、目に見えない、乾かないものを塗る方法は……誰も教えてくれなかったんだわ」


 木島への怒りが、奇妙な静寂に包まれていく。

 彼もまた、戦後という激動の時代が生んだ、不器用で歪んだ「職人という名の犠牲者」だった。

 「家を建てる」という約束が守られず、結局、夜逃げのような形で別れることになったあの苦い記憶。

 それさえも、今となっては「砂上の楼閣」を必死に守ろうとした男の、哀れな足掻きに見えた。


 「お父さん、指導霊様。木島を許すことは、難しいです。でも…木島も必死だったことは理解しました。」


 千夜子がそう口にした瞬間、彼女を包んでいた重苦しい空気が、さらりと霧散した。

  智代、俊郎、そして木島。

 千夜子の人生を翻弄した三人の影が、一列に並んで遠ざかっていく。

 そこにはもう、彼女の魂を現世に繋ぎ止める執着は残っていなかった。


「千夜子、よくやった。これで、お前の『浄化』の取り敢えずの第一段階は終わりだ」


 治郎蔵が千夜子の肩に手を置く。

 その手は、生前の脳出血で動かなくなったあの時のものではなく、力強く、温かい。

  千夜子は、松本の病院で泣き崩れていた息子・進の姿を思い出した。


「進……。お母さんは、ようやく本当の意味で、あなたの後ろに立てるようになった気がするわ。お母さんを縛っていた鎖は、全部解けた。これからは、あなたの歩く道に、曇りのない光を降らせてあげるから」


 千夜子の魂は、かつてないほど透明に輝き、幽界のさらに深い場所へと昇華し始めた。

 ただそれは、愛憎を越えた先にある、真の「守護者」への入口に過ぎなかった。

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