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第2章 砂の城の主と、腐った果実

【元配偶者への念に気付く】


 智代の孤独を知り、憑き物が落ちたような顔で千夜子は言った。

「お父さん、指導霊様。ありがとうございます。母さんの不器用さを知って、私の心は本当に軽くなりました。もう、私を縛り付けるような強烈な恨みを持つ相手はいません」


 だが、治郎蔵は悲しげに首を振り、指導霊は峻烈な眼差しを千夜子に向けた。

「千夜子、お前の魂の奥底には、まだどす黒い執着が沈殿している」

「そんなはずは…」

 指導霊が続ける。

「お前がその名を口にすることさえ拒み、記憶の底に封じ込めようとしている男……進の父、俊郎のことだ」


 千夜子の顔から血の気が引いた。

「あの人だけは別です。母さんは運命に翻弄されたかもしれません。けれど、あの男は自分の意志で私と進を地獄へ叩き落とした。病んだふりをして私を働かせ、借金と散財を繰り返し、夜逃げまでさせた……。あんな卑怯な男、憐れむ価値もありません!」


「ならば、見るがいい」

 指導霊が再び幕を掲げた。

「彼がなぜ、あのようなことをしてしまったのを」

「何を見ても、たぶん許せません」

 千夜子の返答に指導霊が言った。

「許さなくて良い。とにかく見るのだ」


【荒川俊郎という「過保護の檻」】


 幕に映し出されたのは、昭和十年代、東京・代々木の豪邸だった。

 そこには、千夜子が知る薄汚れたアパートの俊郎ではなく、仕立ての良い服を着て、高価なブリキの玩具に囲まれた少年・俊郎がいた。


「俊郎は長男だから。何でも一番いいものをね」

 俊郎は初めての子どもだった。

 両親は彼を甘やかし、苦しまないようにと、辛い思いから彼を徹底的に遠ざけた。

 小遣いも、当時の子どもの倍以上与えた。

 いつしか俊郎は、贅沢で金遣いの荒い子どもになっていた。

 それがまずいことは、両親も途中で気付いた。

 ある時、俊郎は母の財布から五十銭札を盗んで菓子を買い食いした。

 それに気付いた母・しずは、さすがにまずいと思った。

 幼い俊郎に強烈な平手打ちを食らわす母・しず。

 ただ、俊郎の金遣いの荒さと浪費癖は、もうしっかり身に付いてしまっていた。


 一方で、それを反面教師にした弟たちは、実力で自らの道を切り開き、家業を支える「本物」へと成長していく。

 何もせずとも与えられてきた俊郎は、いつしか兄弟の中でも浮き上がり、実力のない「お飾り」の長男として、家の中でも孤立していった。


【望まぬ道、ゴミ箱の洗礼】


 荒川家は、体面を気にしていた。

 俊郎の父は大手光学機器メーカーの重役だ。

 資産はいくらでもあった。

 戦後、何不自由なく高校、名門私立大学に通う俊郎。

 在学中はずっと、何の労働もせず、学生時代を謳歌した。

 その後、父のコネで大手光学機器メーカーに入社。

 就職活動も形だけだった。


 千夜子が呟く。

「私は、大学どころか、高校にも行けなかった。何なの、この人は」

 羨ましさと、嫉妬を感じる千夜子。

 だが、指導霊は言った。

「千夜子、羨ましいか」

「羨ましいです。羨ましすぎます」

 しかし、指導霊は静かに答えた。

「最後までよく見るが良い」


【俊郎の地獄の日々】


 精密なレンズを扱うその仕事は、過酷だった。

 俊郎は大雑把で、かつ「自分は特別な人間だ」というプライドだけが高い大人になっていた。

 営業職に回された俊郎は、取引相手にひたすら頭を下げ、数字を確保する仕事は苦痛以外の何物でもなかった。

 適性のない職種、周囲からの冷ややかな視線。

 彼は毎日、自分を殺しながら会社へ向かった。


 家へ帰れば、親が決めた見合い相手の妻が待っていた。

 そこに愛はなかった。

 高慢で世間体を重んじる妻は、出世の遅い俊郎を執拗に攻め立てた。

「隣の田中さんは、もう係長に昇進したそうよ。あなた、重役の息子なんでしょ。何でまだヒラなのよ」

 長男と次男が生まれ、順調に育っていた。

 しかし、母が毎日俊郎を蔑み、軽蔑する中で子ども達も父・俊郎を蔑み、バカにするようになっていった。

 俊郎には居場所がなくなっていた。

 ある朝、靴紐さえ満足に結べない俊郎の頭に、妻が台所の生ゴミをぶちまけた。

「無能な男! こんな奴となんで結婚したのかしら!」


 生ゴミの汁を滴らせながら、俊郎は鏡に映る自分を見た。

(俺の人生は、俺のものではなかった。最初から、誰かが用意した偽物の舞台だったんだ)

 彼は、自分の心を「壊す」ことでしか、その檻から逃げ出す方法を知らなかった。


【憐れみという名の軽蔑】


「……そんな。そんなことがあったの?」

 千夜子は呆然と立ち尽くしていた。

 俊郎が病んだふりをし、詐病に逃げ込んだのは、彼が生まれて一度も「自分の力で責任を取る」という教育を受けてこなかったからだ。

 彼は、自分を守るために他人を食いつぶす「寄生虫」としてしか生きられない人間になってしまった。

 それは、周りがそうしてしまったのだ。


「どうだ、千夜子。彼もまた、歪んだ教育と期待という名の『呪い』をかけられた犠牲者だとは思わんか?」

 治郎蔵が静かに問う。


「……いいえ。だからと言って許せるものじゃありません。でも…」

 千夜子の声は震えていた。

「母さんの時は、周りの人達に憤りを感じました。でも、この男に対しては……。ただ、憐れで、情けない。愛のない結婚をして、自分を否定され続けて、なんて、ちっぽけな男……」


 千夜子の中にあった激しい「恨みの炎」が、冷たい「憐れみの雨」に打たれて消えていく。

 完全な許しではなかった。

 でも以前の、燃えるような憎しみは少しだけ軽くなっていた。

 千夜子の父・治郎蔵が言った。

「許せとは言わない。でも、この男を憎むことに、貴重な霊界での時間を使うのは、もうやめないか。こんな空っぽな男の記憶で、千夜子の魂を汚すのは、もったいないことだ」

 千夜子は、深く頷いた。

 千夜子の霊体から、また一つ、重い鎖が音を立てて外れた。

 また1つ、憎しみという執着を捨て、彼女の眼差しは、今、現世で一人戦う進へと、より純粋な形で向けられようとしていた。


「進……。あんな男の血が、あなたの中に半分流れている。でも、あなたは違う。あなたは、自分の足で立ち、自分の責任で生きようとしている。お父さんが、そして私が見届けるわ」


 千夜子の魂は、今度こそ、過去の亡霊たちを背に、高次の光へと一歩踏み出したかに見えた。

 しかし、千夜子にはまだ越えないといけない関門があった。

 幽界の学びは、まだまだ続いていくのだ。

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