百五十七話目
――あっという間だった。筋トレを終え、ロングトーンを終え、個人練から合奏をして――集中力が極限に達するとどうも時間間隔を失ってしまうらしい。現に、もう時刻は昼。だというのに、まだ合奏の時の雰囲気が保たれたままだ。
体にはまだ熱が残っていて今にも楽器を吹きたいという衝動に駆られている。それはみんなも同様で、いつもゆっくり食べているはずなのに今日に限ってはペースが速く一人また一人と準備に取りかかっていく。やがて昼練開始三十分前には全員個人練を開始していた。
「俺も負けてられないな」
そっとチューバの体を撫で、ニッと口の端を吊り上げてから抱き上げる。
本当なら音が邪魔しないように外に行きたいが、そうはいかない。何故なら、次は早速パート練が始まるからだ。ちなみにメンバーはいつも通り金管とパーカッション。当然場所は音楽室だ。
パート練を終えるのが大体三時ごろ。つまり、実質一時間半でパート内で確認を済ませなければならない。そこに午前の演奏で見つかった個人課題の克服も含まれるのだから、相当ハードだ。
が、誰一人としてそれを嘆く者はいない。むしろその短い時間でどう足掻くか必死に考えている。事実、あのトラですら何やら難しそうな顔をして楽器と向き合っていた。その横顔は思わずぎょっとするほど真剣なもので、つい萎縮してしまうほどだ。
もう一度音楽室内を見渡した後、大きく深呼吸。全身に回った空気はまるで燃料のように俺の体を動かしてくれる。すでに午前でエンジンがかかっていたのだから、なおさらだ。
マウスピースに口をつけ、視線を前に向ける。そこにある窓――ではなくもっと先。遠くの空、そして雲。そこでイメージするのはもちろん……観客だ。
「――ッ!」
先生が振る指揮棒をイメージし、一気に吹き鳴らす。暴発しないように唇をうまくコントロールし、音を当てる。そこからも一定のリズムを刻みつつ演奏を進ませていった。
曲が中盤に差し掛かるころには――すでに入っていた。この、軍艦行進曲と言う曲に。
何回も反復練習したおかげで曲はもうつかめている。今は一人で吹いているはずなのに、まるで全員が吹いているような錯覚すら覚えてきた。それが何とも心地よく、甘美で、燃える。
「――ッ!」
見える。楽しそうな顔で聞き入っている観客の姿が。聞こえる。俺が支えるべき周りの音が。
先生たち曰く、ある程度の段階まで達するとこういうことが稀に起こるらしい。ある種のトランス状態だそうだ。楽譜と向き合い、楽器と向き合い、何より自分と向き合ってきた……そんな人間たちが踏み入ることができる極地。
その一端を感じることができ、演奏中だというのについ笑い声を上げたくなる。たまらなくおかしくて、楽しくて、どこかこそばゆい。こんな感覚を味わったのは初めてだ。吹奏楽を始める前にも、始めてからも、未経験だったものだ。
だが、それを今俺は体感している。
「――ッ!」
終盤に差し掛かると同時、かき鳴らす。俺の今できる最高の音を。
残り数章節。そんな短い中にも全力を込め、
「……」
演奏を終えた。
そこで初めて自分が汗をかいていたことに気づく。呼吸も荒く、頭だってくらくらする。だけど、最高に気持ちよかった。これは、これを知ってしまったら……絶対にやめられない。




