第1話 大聖女、寿退社を決意する
聖ルスニア王国、大聖堂の礼拝堂。
ステンドグラスから差し込む光の中、一人の少女が両手を組み、天井を仰いでいた。
プラチナブロンドの髪が光を弾き、儚げな横顔はまさに絵画から抜け出てきたかのようである。
彼女の名はセシリア。
十九歳にして「大聖女」の称号を持つ、人類史上最高峰の神聖魔力の持ち主だ。
「……決めました」
セシリアはぽつりと呟くと、拳をぎゅっと握りしめた。
その瞬間、彼女の足元の石床に、蜘蛛の巣状のひびが静かに走った。
本人はまったく気づいていない。
「私、結婚します」
礼拝堂の掃除をしていた見習いシスターが、箒を落として振り返った。
「せ、聖女様!? け、結婚って、どなたと……!?」
「まだ決めていません。これから探すのです」
セシリアは胸を張って言い切った。堂々たる態度である。中身が伴っていないことを除けば。
「二十歳になった今こそ、普通の恋をして、普通の結婚をして、普通に寿退社する。それが私の悲願です」
彼女はここ数年、来る日も来る日も浄化任務、討伐任務、災害救助に駆り出されてきた。
気がつけば同年代の友人たちはとうに恋人を作り、あるいは結婚していく。
セシリアだけが、教会という名の職場に縛られたまま、青春を魔物退治に捧げていたのだ。
「けれど……」
シスターが恐る恐る尋ねる。
「教会がお許しになるでしょうか。聖女様は、いわば国の要でいらっしゃいますし……」
「大丈夫です。ちゃんと理由があります」
セシリアは自信満々に、聖典を掲げるようにびしっと指を立てた。
「世界に戦乱がある限り、私は聖女としての責務から逃れられません。ならば――世界を平和にすればいいのです」
「は、はあ」
「今、この世界最大の脅威は、魔界を統べる魔王ディアボロスです。彼さえ討伐してしまえば、人間界と魔界の戦いは終わり、世界は真の平和を迎えます。そうなれば、もう聖女の私が戦う理由もなくなる。晴れて寿退社できるというわけです」
シスターは口をぽかんと開けたまま、しばし言葉を失った。
(……魔王討伐と寿退社が、なぜ一直線に繋がるんですか……?)
だが、これがセシリアという人間だった。
善良で、まっすぐで、そして致命的に発想が斜め上なのである。
本人の中では完璧な理論として成立しているため、誰にも止められない。
「というわけで、行ってきます」
「い、行くって、どちらへ!?」
「魔王城です。挨拶に伺います」
「あ、挨拶って――お待ちください、せめて騎士団を編成してからでも――」
「大丈夫です。私一人で十分ですから」
セシリアはにこりと微笑んだ。
その笑顔は聖女らしい慈愛に満ちていたが、シスターの背筋には冷たいものが走った。
経験上、この笑顔が出た時のセシリアは誰にも止められない。
*
大聖堂の裏手、資材置き場では、枢機卿長イグナーツと国王アルベルトが、こっそりと立ち聞きをしていた。
「へ、陛下……聖女様が、単身で魔王討伐に向かわれるおつもりのようです」
「……止めるべきか?」
国王は震える声で尋ねた。イグナーツはゆっくりと首を横に振る。
「陛下。三年前、彼女が『ちょっとストレッチを』と大聖堂の裏山で軽く体をほぐしただけで、山ひとつが更地になったのをお忘れですか」
「……忘れられるはずがない」
「先月は『お掃除』と称して、隣国との国境にある古戦場跡の瘴気を浄化されましたが、結果として山脈がひとつ消滅しました」
国王は頭を抱えた。
「あれは、もはや自然災害だ……」
「聖女様のお力は、もはや我々人間の手に負えるものではございません。彼女が魔王討伐に向かうと仰るのなら、我々にできることはただ一つ」
イグナーツは深々と息を吐き、両手を組んで祈るような仕草をした。
「――どうか、道中で何も壊されませんように、と祈ることだけです」
「魔王が心配だ……」
「陛下、それは私も同意見でございます」
二人の視線の先で、セシリアは既に旅支度を整え、意気揚々と城門を出ていくところだった。
その背中は希望に満ち溢れ、まるでこれから初デートにでも向かうかのように弾んでいる。
こうして、世界の運命を左右する大聖女の「寿退社を賭けた魔王討伐」が、静かに、そして盛大な誤解と共に幕を開けたのだった。




