7.三人目の妻
重たい、苦しい…。
そう思うのはこれで何度目だろう。結婚式を終えてからのアンナは、とにかく毎日忙しかった。朝から晩まで客人を迎えたり、訪問したり、社交の場に出たり…。貴族の夫人がこんなにも忙しいなんて初めて知った。
今日も夫であるエリオットに連れられ、友人主催のパーティーに来ている。グレースに着せられたドレスは夜会向けのもので、とにかく豪奢で煌びやかだった。アンナがあまり派手なものを好まないと分かっている為、彼女は出来るだけシンプルなデザインの物を選んだようなのだが、それでも動き難い事に変わりはない。
「大丈夫?」
「なんとか歩いております…」
春になり、貴族の多くは社交の場に出るため王都に集まっている。エリオットとアンナも同じで、式を終えて一週間後には王都に訪れていた。
初めて顔を合わせたのも王都だった。あの時着ていたボロボロのドレスではない、真新しい豪奢なドレスを着ているアンナは、周囲の女性たちから羨望の眼差しを向けられていた。
「あの方が四人目の…」
「チェストル男爵家の?まあまあ…新しいドレスに浮かれていらっしゃるわ」
クスクスと笑われている事は何となく分かった。結婚前から面白そうに観察される事にも、コソコソと噂話をされる事にも慣れている。扇で口元を隠しながら何やら話している女性に視線を向け、にこりと微笑んでみせれば、相手の女性たちもにっこりと微笑んで小さく頭を下げてくれた。
「ごめんね、私のせいで君まで面白可笑しく言われているようだ」
「いえいえ、結婚前から色々言われておりましたから慣れておりますよ」
申し訳なさそうに眉尻を下げたエリオットがコソコソと謝ってくるのだが、別に言いたいやつには言わせておけば良い。今更気にして怒る程の事でも無いし、いちいち怒っていたらきりが無い。
「見ろよ、四度目の結婚ともなるとあんな女しか捕まえられないようだ」
「貧乏チェストルの娘だろう?醜いとは言わないが美しくもない。子供を産む為だけの女だろうな」
男性たちの言葉に気付いたのか、エリオットは額に青筋を浮かべながら男たちを睨みつけた。成程そこまで言われるかとアンナは内心感心していたのだが、エリオットはすぐにでも黙らせようと男たちの元へ歩み寄ろうとする。
「ちょっ、駄目ですエリオット様!喧嘩はいけません!」
エリオットの腕を掴み、アンナは何とか落ち着かせようと声を掛けるのだが、エリオットは聞こえていないのか止まろうとしない。
これはマズいと焦ったアンナは、ぎゅうとエリオットの腕を抱きしめながら足を踏ん張った。
「エリオット!」
「…分かったよ」
渋々と言った様子だが、エリオットは男たちを睨みつけてからアンナの言う通り足を止めた。揉めずに済んだ事に安堵したアンナだったが、周囲の客人たちがどれだけ自分たちの事を馬鹿にしているのかを知ったような気がする。
「お金で買ったらしいわよ」
「まあ、あの方ご自分をお売りになったの?商売女じゃありませんか」
「一体お幾らだったのかしらね」
誰かがそう言った。周りの客人たちが全員敵に見える。
三人の妻に逃げられ、四度目の結婚をした男。
金と引き換えに四人目の妻となった女。
馬鹿にしたいのならすれば良い。
「金貨300枚ですよ」
にっこりと微笑みながら、アンナは声を張る。視線の先には「幾らだったのか」と笑い合っていた女性二人組だ。
金貨が一枚あれば、庶民ならば半年は食べる物に困らない。今アンナが着ているドレスは金貨二枚と聞いている。元の持ち主は三人目の妻だからだ。
「金貨300枚をお支払いいただく代わりに嫁ぎましたよ。何か他に聞きたい事はございまして?」
「え…あの、その…」
冷たい視線を送られている女性たちは、扇で口元を隠したまま視線をうろつかせる。反撃されて狼狽えるくらいなら最初から喧嘩など売らなければ良いのだ。
どこからか男の声で「あの女に金貨300枚の価値が」と話している声が聞こえたが、価値があるから払ってもらえたのだろう。
「他にも聞きたい事があるのならお答えしますよ。どうぞお気軽に話しかけてくださいまし」
ニコニコと微笑んでいるアンナは、隣に立つエリオットに体を寄せる。コソコソと噂話をされて俯いているだけの女だと思うなよと回りを威嚇したつもりだったのだが、エリオットは面白そうに声を漏らして笑っていた。
「申し訳ない、新しい妻は今までの妻たちと比べて気が強いんだ。噛み付かれますので、お手柔らかに」
「まあ、酷いわエリオット。私はお友達が出来たら嬉しいなと思っただけで…」
「それならまずはピーターに挨拶しに行こう。彼から紹介してもらえば良いさ」
今更だが少しやりすぎただろうか。喧嘩になりかけたエリオットを止めたくせに自分から喧嘩を買ってしまった。いや、売ったのだろうか?
どちらにせよ、招待されたパーティーで揉め事を起こしてしまった事を今更後悔したのだが、エリオットに連れられて主催者である男の元へ歩み寄ると、男は豪快に笑ってくれた。
「悪いねピーター。ちょっと揉めた」
「いや、良いよ面白かった。金貨300枚の奥さんか!」
あははと腹を抱えているピーターは、ジロジロとアンナを観察する。ピーター・アンドリューと名乗った彼は、よろしくねと微笑みながらアンナに手を差し出す。差し出された手を取れば、グローブを嵌めた手の甲にキスを落とされた。
「ピーターは宝石商でね。貴族じゃないけど我が家では昔からお世話になってるんだ」
「そうでしたか。お世話になっております」
「奥様も是非我が社を御贔屓に。結婚のお祝いに何か素敵な宝石を贈りましょう」
ニコニコと微笑む黒髪の男は、周囲を見回して誰かを探しているらしい。目的の人物を見つけたのか、彼は少し離れた場所に向かって手招きをした。
「今日は私の婚約パーティーなんです。本当はエリオットを呼ぶものじゃないかもしれないが…大切な友人ですので」
どういう事かと首を傾げたアンナの隣で、エリオットは何とも言えない表情をしていた。人込みの中から現れた一人の女性が、ゆっくりと歩いてくる。
「婚約者のサンプール嬢だ」
輝く金色の髪を美しく結い上げた女性は、ピーターの隣に立ってジロジロとアンナを観察する。冷たい印象を抱かせる真っ青な瞳。突き刺さる視線。観察される事には慣れているが、この女性の視線は恐ろしいとさえ感じる。
「…久しぶりね、エリオット」
「やあ、久しぶりだねソフィア」
口を開いた女性の名は、ソフィア・エマーソン。サンプール公爵家の令嬢である。
アンナは彼女の顔に見覚えは無かったが、名前を聞けば誰なのかすぐに分かった。エミリーが呼び寄せた家庭教師に教わった事があるからだ。
エリオットの三人目の妻である。
「貴方、本当にエリオットを呼んだのね」
「そりゃあ、仲の良い友人でもあるからね。一応君が婚約者だってきちんと伝えた上で呼んでいるし、断ってくれても構わないって手紙には書いたよ」
「彼が断われないって分かっていて呼んだのね?酷い人」
呆れたような溜息を吐き、ソフィアはまたちらりとアンナに視線を戻す。公爵家の令嬢ならば、アンナの方から挨拶をすべきかと考えてしまったが、今のアンナは伯爵夫人であり、身分はソフィアよりも上である。
「元気そうで安心したわ。お義母様もお変わり無いかしら」
「ああ、元気にしているよ」
「そう、それなら良かった。あら…奥様が着ているドレス、私が置いて行ったものね」
最初から気付いていただろうに、わざとらしく驚いた顔をしてみせたソフィアは、憐れむような視線をアンナに向ける。
衣裳部屋の大量のドレスの持ち主が目の前にいるとなると、勝手に着ていて申し訳ないと言いたくなってきた。
「エリオット、奥様に新しいドレスくらい用意してさしあげて?私の置いて行ったドレスをそのまま使わせるなんて…」
「いえ、私がそのままで良いと言ったのです。素敵なドレスばかりでしたから」
「あら…そうでしたの」
夫に非は無いと庇ってみたが、ソフィアは口を挟まれた事が気に食わないのか、更に冷たい視線を向けてくる。エリオットは何となく気まずそうにしているし、ピーターも困り顔でポリポリと頬を掻いていた。
「あー…ゆっくりしていってくれ。俺たちはそろそろ他の招待客に挨拶回りをするから…」
「あら、私まだ奥様とお話ししたいわ。お時間いかが?奥様」
「私は構いませんが…」
「お優しい方。ではこちらへどうぞ」
エリオットはやめておけと首を横に振ったが、アンナはソフィアと話をしてみたくなった。夫の元妻と会話をするなんて機会は普通なら殆ど無い事なのだろうが、夫同士が友人ならば、その妻たちも仲良くしておいた方が良いだろう。
夫の為に少しでも友人を増やした方が良い。公爵家の娘ならば、友人も沢山いるだろうし人脈を広げるには丁度良い。折角向こうから話をするチャンスをくれたのだから、このチャンスを逃すのは勿体ない気がした。
「すぐお返しするわ。そんなに怖い顔をしないでよ」
「…十五分だ」
「分かったわ」
眉間に皺を寄せたエリオットから離れ、アンナはソフィアに連れられて会場の端へと歩いて行く。
周囲の客人たちは興味深そうに此方を見ているが、ソフィアは気にする様子無く歩き続けていた。
「ここなら二人で話せますわね。どうぞ夫人、お掛けになって」
「ありがとうございます」
にこりと微笑んだソフィアは、先程までの冷たい印象が消え去っていた。穏やかで優しそうな顔をして、彼女は会場の端に置かれた休憩用のソファーに座るよう促してくれた。
二人揃ってソファーに座ると、ソフィアは静かに口を開いた。
「どうして、彼と結婚したのか聞いても良いかしら」
「噂はご存知かと。お金の為です」
「では、彼との間に愛は無いと?」
「それはこれから育めば良いと考えております。貴族の娘ならば、愛のある結婚は難しい事でしょう?」
何が言いたいのか分からないが、じっとこちらを見つめるソフィアの顔はとても真面目だった。美人の真顔は迫力があるなぁとぼんやり考えていると、ふいにソフィアの顔が柔らかく緩んだ。
「私が何故彼と離縁したのか、ご存知ですか?」
「散財が原因だと少しだけ…」
そう言ったアンナに、ソフィアは困ったように微笑んで言葉を続ける。
「私、彼に恋をしてしまったのです」
それは夫婦なのだから問題無いだろう。そう言いたかったが、ゆっくりと語るソフィアの言葉を遮る事は出来なかった。
ソフィアは愛の無い結婚をしたが、義母や居候と揉める度に守ろうとしてくれるエリオットに心を開き、やがて愛情を抱くようになった。愛する男と共に居たいと思っていたのに、ローラの存在が邪魔だった。
領地の屋敷にいるのは当たり前、何かと理由を付けて王都の屋敷にまで付いてくる彼女は、いつもエリオットに纏わりついた。
「愛した殿方に親戚とはいえ年頃の娘が纏わりつくのは我慢ならないでしょう?あの子、まだエリオットに纏わりついているのではなくて?」
「仰る通りです」
ソフィアの言う通り、ローラは今回も王都の屋敷について来た。体調が悪いと引き籠る事が多く、社交の場に出る事も殆ど無いくせに王都に付いてくる意味が分からない。
そして、屋敷にエリオットがいると部屋から出てきて、楽しそうに二人で話をしている事も多い。アンナがゆっくりエリオットと過ごせるのは、二人で外出する時と夜の眠る前の僅かな時間だけだった。
「そのうち私はあの子を追い出そうと考えるようになりました。でも上手くいかなかった。エリオットを取られる事が増えて、揉めて、そうして寂しさを埋める為に部屋を物で埋めました。貴方が着ているそのドレスもそうです」
「…それは少し聞いた事があります」
「買い物をしている時は心が満たされた。でも、屋敷に戻って二人を見ていると、また胸にぽっかりと穴が開きました」
買い物をしていると心が満たされるという気持ちは分からないが、好きな男に女が纏わりついている事が不愉快な気持ちは何となく分かった。
「お義母様から我が家の財産を食いつぶす気かと怒鳴られ、エリオットも私を庇ってくれなかったわ。今考えれば私が悪いと分かっているのに、屋敷を飛び出して実家に戻ってしまったの」
恥ずかしい話だと項垂れたソフィアの隣で、アンナはどう言葉を返そうか考える。だが、何を言えば良いのか分からず、黙り込むしかない。
「奥様をお連れしたのは忠告をする為です。ローラには気を付けて。彼女は見た目は天使のようですけれど、中身は悪魔のような女。出来る事ならばすぐにでも追い出した方が宜しいわ」
そう言われても、ローラはエリオットの従妹であり、同居しているエミリーの姪だ。彼女よりもアンナの方が身分は上となったが、病気療養のために預かっている伯爵令嬢を無理に追い出せば家同士の揉め事となってしまう。
親戚同士で揉める事は避けたいし、ローラという病弱な令嬢を無理に追い出した酷い妻と噂が立つと困るのはグルテール家だ。ただでさえ四度も結婚した伯爵が当主で、社交界では噂の的になっているのだから。
「もう良いかな?私の妻を返しておくれ」
「あら、もう時間?」
ツンとした態度に戻ってしまったソフィアは、冷たい視線をエリオットに向ける。つい先程エリオットに恋をしていたと言っていたのに、今向けている視線の温度は、恋をしていたという言葉を疑いたくなる程冷たい。
アンナに恋をした経験はないが、恋をした相手に向ける視線ではない事は何となく分かる。今はエリオットを軽蔑しているのか、それとも恋愛感情が無くなったからこその視線なのか、それは分からない。ただ、アンナはソフィアという女性がどんな人なのかもう少し知りたくなった。
「あの、ソフィアさん。もしよろしければ、今度お茶にお誘いしてもよろしいでしょうか。もう少しお話してみたいです」
「アンナ…」
エリオットは心配そうな顔をしているが、ソフィアはぱちくりと目を瞬かせている。断られるかと不安に思ったが、ソフィアはゆっくりと口元を緩ませて穏やかに微笑んでくれた。
「ええ、奥様からのお誘い、大変嬉しく思います」
「では、改めてお手紙をお送りいたします。お好みのお茶菓子を教えてくださいね」
にっこりと微笑んだ女二人の間で、エリオットは何とも言えない微妙な表情を浮かべる。元妻と現妻が仲良くお茶をするなんて機会はそうそうない。エリオットにとって非常に居心地の悪い空間となるであろうその日は、前もって知らせて逃げられるようにしてやった方が良いだろう。
「それではお二人共、楽しんでいらしてね」
にっこりと微笑んだソフィアは、小さく頭を下げて去っていく。他の招待客の相手をしていたピーターの元へ向かう背中を見送りながら、アンナは唇を引き結んでいた。