3.夢ではないようです
フカフカのベッド、黴臭くないシーツ。こんなにも気持ちよく眠れる事があっただろうかと嬉しい気持ちで眠りに落ちたアンナは、随分早く目が覚めた。
実家にいた頃は、食事の支度やら庭の片隅に作った畑の世話をする為にまだ薄暗いうちから起きていたのだ。
体はまだその事をきちんと覚えているようで、いつもと同じ頃の時間に起きてしまったのだ。
きょろきょろと回りを見渡せば、昨晩眠りに落ちたグルテール伯爵邸の自室が広がっている。
ああ、夢では無いのねと口元を綻ばせ、アンナはベッドから飛び降りた。いつものようにぐいぐいと体を伸ばし、眠っている間に固まってしまった体をほぐす。これも、実家にいる頃からの習慣だ。
昨晩寝る支度をしてくれたグレースが言うに、朝も起こしに来てもらえるそうだ。着替えを済ませる前に部屋から出てはいけないと言われているし、何もする事が無いまま退屈な時間を過ごす事になりそうだ。
暖炉の石炭は真夜中に尽きてしまったようで、うっすらと寒い。冬が来るまでもう少しある筈だが、日が昇る前のこの時間帯は冷えるようだ。
「ガウンはどこかしら…」
ぶるりと体を震わせ、アンナは薄暗い部屋の中を歩き回る。近くの部屋で眠っている誰かを起こしてしまわぬよう、なるべく静かに動いていたのだが、よく見えずに椅子につま先をぶつけてしまった。
声にならない悲鳴を上げ、痛みに悶えていると、扉の向こうから女性の声が聞こえた。きっと使用人の誰かだろう。
「何か音がしなかった?」
「気のせいよ。まだ皆様眠っている筈だもの」
扉の前に誰かいるのなら、灯りをくださいとお願いしてみようと思った。そうっと扉を開いて廊下を覗き込むと、眠っている筈のアンナが起きている事に気が付いたメイドとグレースが小さな悲鳴を上げた。
「奥様…!」
「おはようグレース…ガウンが欲しいのだけれど、見つけられないの」
「ええと…ジョアン、後はお願いね。奥様、お部屋へ」
慌ててアンナを部屋に押し込みながら、グレースは一緒になって部屋に入る。ベッド脇に置いてあったランプに火を灯し、アンナを座らせた応接セットのテーブルにそれを置くと、すぐさま隣の衣裳部屋からガウンを持ってきてくれた。
「申し訳ございません、こんなに早い時間にお目覚めになるとは思わず…」
「実家にいた頃はいつもこれくらいの時間に起きていたから…こちらこそ、ごめんなさい」
受け取ったガウンに包まり、アンナは温かいと嬉しそうに笑う。
「グレース、何か用事があったんじゃないの?私はもう大丈夫だから、戻ってちょうだい」
侍女への話し方はこれで良いのだろうかとどぎまぎしたが、昨日よりはマシだったようで、グレースはふるふると首を横に振って衣装室を指し示した。
「本日の御召し物を用意するところでしたので…私の用事はお隣のお部屋です」
「あら、そうだったの。そういえば、まだきちんと衣装部屋を見ていないの。一緒に見ても良い?」
「はい、勿論」
二人揃って衣裳部屋に入ると、グレースはちらりとアンナを見た。どのドレスが似合うか考えているのだろうと思い、好きなだけ観察させる事にしたのだが、すぐに視線を逸らされてしまった。
「ねえ、ここにあるドレスは元奥様方のドレスなのでしょう?」
「はい。ご存知なのですね」
「昨晩旦那様から聞いたの。それにしても凄い数…」
「…三人目の奥様が、お買い物好きでしたので」
目を伏せたグレースは、ぽつりとそう呟いた。さて、この侍女とどう仲を深めようか。頭の中で色々と案を考えてみるのだが、友人すら殆どいないアンナでは、良い解決策は見つからない。
「奥様は…どのようなドレスがお好みでしょうか」
「そうねぇ…今まで母のドレスを着ていたから、自分のドレスを持っていなかったの。だから好きな物はよく分からないわ」
「左様でございますか」
しまった、これはグレースなりに気を遣って話題を振ってくれたのに、話をバッサリと切ってしまった。そう慌てても、グレースは既にドレスの森に手を突っ込んでいる。
「あー…その、可愛らしいデザインのドレスはあまり似合わないかもしれないわ」
「では、こちらは如何でしょう」
グレースが差し出したのは、詰襟の淡いグレーのドレスだった。光の加減によってはシルバーにも見えるそれは、素直に綺麗だと思った。
「素敵…でも、似合うかしら?」
「お似合いになると思います」
「そう?それじゃあ…それにしようかしら」
こくりと頷いたグレースは、ドレスの他に肌着やらコルセットやら、沢山の物を腕に抱えて隣の部屋に戻る。一緒になってアンナも戻ると、ベッドに持っていた物を広げて待ち構えられていた。
少し早いが着替えてしまう事にして、アンナは着ていた寝間着を脱ぐ。人に着替えを手伝ってもらうのはまだ慣れないが、衣裳部屋にあるドレスは、どれもこれも手伝ってもらわなければ着る事が出来ない。
背中に紐があるコルセットなど、この屋敷に来てから初めて見た。世話をされる事を前提とした服なんて、ごくまれに行く夜会の時にしか着た事が無い。
着替えを手伝うのは母だった。いつも着替えさせられている間「今度こそ良縁を」とブツブツ言われ続けていたのだ。
ぼんやりとそんな事を思い出しながら着替えていると、いつの間にか着替えが済んだらしい。
「奥様、御髪を整えます」
「はいはい、座れば良いのかしら」
「はい、こちらへ」
ドレッサーの前に座ると、グレースは優しくアンナの髪の毛にブラシを通す。何度も丁寧に手を動かし、少し寝癖の付いた髪を梳かされている姿を鏡越しに見ていると、何だかまだ夢を見ているような気がした。
「奥様、明日からもこの時間にお支度をされますか?」
「そうねぇ…グレースのお仕事に支障が無いのなら、これくらいの時間にお願いしたいわ」
少し考えているように視線を動かしたのが鏡越しに見えた。きっと、少し困るのだろう。
「ああ、待って。やっぱりもう少し遅くても良いわ。忙しいのでしょう?」
「お心遣い、感謝いたします」
「起きてしまうと思うけれど、好きに過ごしているからあまり気にしなくて良いわ。朝食に間に合うように支度を手伝ってくれたらそれで良いから」
「畏まりました」
ふっと口元を緩ませ、グレースはせっせとアンナの髪を整える。背中の中ほどまで伸びた髪をするすると編み上げられ、銀細工の髪留めを付けたら完成だ。
顔もうっすらと化粧をしてもらって、鏡に映るアンナはすっかり良家の妻らしい姿になっている。これで部屋の外に出ても大丈夫だ。
「ありがとうグレース。朝食の時間になったら食堂に行くわね」
「お目覚めのお茶は如何でしょうか。お部屋にお持ちします」
「今日は良いわ。お庭を散歩したいの」
「まだ冷えます」
「少しにするから大丈夫よ」
寝起きに体を動かさないと何だか気持ち悪い。体を伸ばしはしたが、まだあちこちが固まっているような気がした。
仕方ないなと言いたげな顔をしたグレースは、少しでも冷えないようにと衣裳部屋からストールを出してくれた。それを肩に掛けると、アンナは嬉々とした顔で部屋を出る。
まだ静かな屋敷の中。時々使用人が立てた音なのか、控えめな物音がしたが、こっそりと覗く程度にして仕事の邪魔にならないように気を付ける。
時々掃除をしているメイドたちがぎょっとした顔でアンナを見たが、「おはよう、お掃除ありがとうね」とにっこり微笑めば、メイドたちは顔を見合わせてからペコリと頭を下げてくれた。
ささっと廊下を歩き、階段を下りた。玄関ホールで執事とばったり出くわし、随分早いなと驚かれたが、庭を歩いてくると言えば「行ってらっしゃいませ」と頭を下げながら玄関の扉を開いてくれた。
ひやりとした空気が、アンナの頬を撫でる。
ストールをしっかりと体に巻き付け、周りを見回しながら歩く。しっかりと整えられた庭は、春になれば色とりどりの花で彩られるだろう。
コツコツとレンガ敷きの道を歩き、時々足を止めてこの花は何だろうと観察をする。野菜は育てていたが、花を育てた事が無いせいで、花の名前は分からなかった。
そういえば、実家の畑は誰が世話をするのだろう。弟は手伝ってくれる事もあったが、基本的に世話をするのはアンナだった。両親は土いじりなんてした事がないし、母に至ってはどれだけ困窮した生活をしていても、絶対に畑に顔を出す事は無かった。
料理はするが、手を土で汚す事はしない。元々裕福な子爵家令嬢だったのなら、それも無理は無いだろう。
「あら…」
大きな木を見つけ、アンナはその木に近付いた。時期ではない為花は咲いていないが、これは実家の片隅にもあった木で覚えている。藤の木だ。
その根元に、汚れてしまった墓石があった。周囲は綺麗に整えられているのに、墓石はあちこち汚れている。墓の下の住人の名前は、オーウェン・ウィルソンというらしい。
もしかして、義父なのでは?と思い付き、アンナは跪いて手を組んだ。初めましてと胸の内で呟いたのだが、どうにも汚れが気になって仕方が無い。
何か掃除道具をと思い、きょろきょろ周りを見渡すと、少し離れた場所に小屋がある事に気が付いた。
もしかしたらそこに何かあるかもしれないと思い、アンナは迷う事なく近付いて扉を開く。思った通り、中には庭仕事に必要な物が揃っているようだ。
小屋の片隅に、掃除用具も置かれている。バケツと汚れた布を持ち、アンナは小屋から出た。
「おや…」
「あらおはよう」
小屋に入ろうとしていたのか、初老の男性が扉の前で固まっている。誰だと目を瞬かせているが、アンナが着ているドレスを見て使用人ではない事には気が付いたらしい。
「ねえ、お水が欲しいのだけれど…井戸はどこ?」
「この小屋の裏ですが…」
「ありがと」
男に礼を言って歩き出そうとしたアンナを急いで止め、男はバケツを受け取って歩き出す。
女性に重たい物を持たせる事は出来ないと言うのだが、元々貧乏暮らしをしていたアンナは水くみなんて日常だった。
「あのう…」
水を汲みながら、男はちらりとアンナの顔を見る。何だろうと思ったが、そういえば挨拶をしていなかったと思い出し、アンナはニッコリと微笑みながら口を開いた。
「アンナ・モリー・リックマンよ。エリオット様に嫁ぐ予定なの」
「奥様でしたか。ブルックスと申します。庭師です」
「ブルックスね。よろしく」
まだ正式に結婚したわけではないが、どうやら使用人たちの間では「奥様」として認知されているらしい。いちいちまだ奥様ではないと訂正するのも面倒だし、好きに呼んでもらえば良いだろう。
「これは何処に運びましょう?重たいので代わりに運びます」
「あそこのお墓まで。でも大丈夫よ、一人で運べるわ」
水を入れたバケツをブルックスから受け取ったのだが、想定外だった。しっかりとコルセットで締め上げられた体では屈む事が出来ない。それに、今まで着ていた物とは比べ物にならない程高価なドレスを濡らさないように動く自信が無かった。
「運びます」
「ありがとう…」
クスクスと笑ったブルックスは、興味深そうにアンナをチラチラと見る。見られる事には慣れているが、そろそろ視線が気になるようになってきた。
「ねぇ、私、どこかおかしい?」
「え?!あ、申し訳ありません!ご不快でしたか」
「ああ、違うの。見られる事には慣れているのだけれど、今はグレースが綺麗にしてくれたからよくいる貴族の姿でしょう?どこか変かしらと思って…」
「いえ…あの、庭を散歩するご婦人はよくいらっしゃいますが、掃除道具を持って行こうとする方は殆どいませんので…」
しどろもどろになりながら答えたブルックスが、墓石の隣にバケツを置いた。
アンナはバケツの中に布を突っ込み、慣れた手つきで絞るとそのまま墓石を拭き始める。その姿を見たブルックスは慌ててやめさせようとしたのだが、へらりと笑ったアンナは手を止めなかった。
「汚れます!」
「手なら洗えば良いのよ。それに、こんなに墓石が汚れていたら可哀想。眠っていらっしゃるのはお義父様かしら」
「はい、先代の伯爵様です」
「なら、綺麗にしておかないと。後でお花も持ってこないとね。ブルックス、何か良いお花は無い?」
手を動かしながらそう問うと、ブルックスは小さく息を吐いてから「持ってきます」と言い残して何処かへ歩いて行く。
何度も布を洗い、ごしごしと墓石を擦っていると、冷たい水のせいで手が真っ赤になった。ストールが邪魔になって首にぐるぐる巻いてマフラーのようにしてしまったが、だんだんと体温が上がったのか暑くなってきた。
流石に汗をかく程ではないが、寝起きの体には丁度良い運動だ。
「よし、これくらいかしら」
「奥様、このくらいでどうでしょう」
「あら素敵!これは分かるわ、コスモスでしょう?」
「はい、そうです」
丁度戻って来たブルックスが持って来たコスモスを受け取ると、アンナはそれを墓石に供えた。初めましての挨拶が少し遅くなった事を心の中で詫び、綺麗になった事に満足して立ち上がる。
「奥様!」
「あらグレース、どうかした?」
「朝食のお時間が…その前にお着替えですね…」
やれやれと溜息を吐いたグレースは、濡れたり汚れたりしているアンナの姿に呆れている。気を付けていたつもりだったのだが、夢中になっているうちにこんな事になっていたようだ。
「ごめんなさい!」
やってしまったと慌てるアンナの姿に、ブルックスは大きな声を上げて笑う。行きますよと促され、アンナはしょんぼりと肩を落としながらグレースの後を付いて歩いた。