20.後悔
ゆらゆらと揺れる炎を見つめながら、アンナは無言の続く談話室でどう過ごそうかを考える。床に座っているのは、アリシアの膝で眠ってしまったリジーを起こさないようにする為だ。
大急ぎで来てくれた医師は、熱が下がれば大丈夫だと言って薬を置いて行ってくれた。少し苦い薬のようだが、リジーはなんとか飲み込んでくれたようで、気持ちよさそうな顔で母の膝に縋りついて眠っている。
「あの…本当に、何とお礼を言えば良いのか」
リジーの頭を撫でながら、アリシアはアンナとエリオットに頭を下げる。エリオットは先程から何も言わない。厳しい顔をして、静かにアリシアを睨みつけるだけ。
普段ならそんな顔はしないのだが、かつて自分を裏切り、不義の子を腹に宿した女が目の前に現れたのだから、無理もないと思った。
「何故ここに来たんだい」
「ごめんなさい…頼れる人が貴方しか思い浮かばなくて」
「修道院にいたんじゃないのかい?」
「逃げてきました」
目を伏せたアリシアは、離縁してからの事をぽつぽつと話し始めた。
離縁してすぐ、アリシアは実家を追い出されて修道院に入れられた。最低限の世話はしてもらえたが、外に出る事は許されなかった。暫くして無事に女の子を産み、育てる事にしたのだが、父親である男は姿を消した。
たった一人、修道院という鳥籠の中で子供を育てていたのだが、修道院長である男から言い寄られるようになった。
「夫を裏切るふしだらな女」「罪深い女」そう言われ、蔑みながらも夜な夜な迫られる生活は、アリシアの心を蝕んだ。もうここにはいられない、安心して眠る事も出来ないこの場所から逃げよう。そう考え、子供が一歳になった頃に逃げ出したのだそうだ。
「逃げた先で、一人の男性に出会いました。子供を抱いて物乞いをしている私を憐れみ、家に入れてくれたのです」
男はハリーという名前だったそうだ。ハリーはとても優しい人で、アリシアの事情を知ると自分の事のように怒った。女性が一人で子供を育てるのは大変だろうと、夫婦のように生活してくれたそうだ。
グルテール領から離れた場所で生活していたのだが、ハリーはグルテール出身の男だった。家業を継ぐ為に戻るから、付いておいでと言われた。アリシアは迷ったが、まだ幼い娘を育てる為に、ハリーに付いてグルテール領に戻って来たのだと言う。
「町の方々とあまり顔を合わせないようにしていました。私が元伯爵夫人であると知られないように」
町の人々はきっと、アリシアを酷い女だと思っている。あまり町を歩いた事は無かったが、もし知られてしまったら何を言われるか、危害を加えられるのではないかと不安だったのだ。
「ハリーさんはどうされたのですか?父親は亡くなったと聞きましたが」
「はい。グルテール領に来てすぐ、ハリーは倒れてしまったのです。医師に診てもらおうと何度も言ったのですが、そんなお金は無かったのです。そうして、あっという間に亡くなってしまいました」
悲しそうな顔をしながら、アリシアは優しい人を思い出す。目尻にうっすらと涙を浮かべているが、口元は優しく微笑んでいた。
「ハリーの実家には結婚もしていない、子供は血の繋がりの無い娘。歓迎してもらえませんでした。他の地へ行く事も考えましたが、何処へ行けば良いのやら…」
幼子を連れてさ迷うのは不安だったのだろう。身じろぎをしたリジーの腹に手を添えたアリシアは、震える声で言った。
一人で子供を育てるのは不安でたまらない。仕事も無く、顔を隠しながら人には言えない仕事をして、日銭を稼ぐ日々。
昼間リジーが一人で母を探し歩いていたのは、畑仕事を手伝わせてもらっている間の出来事だったそうだ。一度戻り、寝かせてから夜の仕事をするつもりだった。だが、夕方から熱を出し始めた為一緒に家にいたらしい。
「貴方の前に姿を現す事は許されないと分かっております。ですが、娘が死んでしまうかもしれないと思うと…恐ろしくて」
ぽろぽろと涙を流し始めたアリシアを前に、エリオットは長く、細く息を吐く。
事情は分かったが、これ以上助けてやる気にはなれないのだろう。昼間リジーの相手をしていた時はあんなにも優しい顔をしていたのに、自分を裏切った女の娘であると知ってしまった今、素直にリジーを可愛がることが出来ないのだろう。
「私がした事は決して許されません。どれだけ謝ったところで、あまりにも罪深い事をしました」
深々と頭を下げたアリシアは、エリオットに向かって何度も詫びた。
エミリーと上手くいかず、それを知ったエリオットが別邸に逃がしてくれたというのに、寂しさを埋めたいがために言い寄る男に甘えてしまった。
「これからどうするつもりだい?子供を育てるにしても、まっとうな仕事をした方が良い」
「子供を抱えた女が、何処で働けると言うのですか?」
困った顔で笑ったアリシアを見ながら、エリオットは口を閉ざす。女が外で働く事をあまり良しとしない人は多い。女に出来る仕事など無いと言う人もいる。そんな中で一人で子供を抱えて働く事が出来るのは、ほんの一握りの人だけ。
今まで一度も働いた事の無かった貴族出身のアリシアがすぐに出来る事は、体を使う事だった。
「私は汚れました。これ以上貴方の前に姿を晒す恥に耐えられません。今夜の御恩は何年かかっても必ずお返しいたします」
もう一度頭を下げると、アリシアは眠っている愛娘を抱き上げ、屋敷を出ようと立ち上がる。
外はまだ暗く、風も冷たいだろう。熱がある幼子を抱いて歩くには厳しい夜だった。
「泊まって行くと良い」
「いいえ、そこまでお世話になるわけにはまいりませんもの」
「君の為じゃない。リジーの為だ。良いかな、アンナ?」
「勿論です。客間の用意をさせましたから、どうぞ一晩お泊りになって」
「でも…」
どうしようと迷っているアリシアは視線をエリオットに向け、アンナに向けを繰り返す。自分でも分かっているのだろう。寒い中娘を抱いて歩き続けるのは、リジーにとって良くないという事が。
「これ以上の問答は無駄ですよ。客間にご案内いたします」
「…はい」
項垂れたアリシアはしきりに申し訳ないを繰り返しながらアンナと共に談話室を出る。かつて自分も生活していた屋敷だからか、迷う事なく客間を目指して歩いてくれた。
母に抱かれたリジーは、すやすやと眠ったままだった。
◆◆◆
コンコンコンと何度かノックを繰り返し、アンナはエリオットの部屋に顔を出した。
不機嫌そうな顔をしたエリオットは酒を呑んでいるようで、窓辺に座ってじっとしている。
「今夜はお疲れ様でした」
「うん」
思っていたよりもそっけないぞと思いながら、アンナはそっとエリオットに寄り添う。肩に頬を預けると、エリオットも同じようにアンアの頭に頬を寄せてくれた。
「早く熱が下がると良いのですけれど」
「うん」
「アリシアさん、心配なのではありませんか?一度は夫婦になった方ですから」
「…うん」
グラスを握りしめたエリオットは、アリシアと夫婦だった頃の事を話し始めた。
二人目の妻にアリシアを選んだのはエミリーだった。大人しく、従順な妻をと選んだそうだが、アリシアはあまりにも大人しすぎた。
エミリーにどれだけ小言を言われても、困ったように微笑み続ける人だった。何度か夜に自室で泣いているところを見つけて、心配になった結果、エリオットは少しでも穏やかに暮らせるようにと、アリシアを別邸に住まわせる事にした。
「あの時は、それが最善だと思っていたんだよ。母上を別邸に行かせようと思ったんだけれど、庭に父上が眠っているから…無理に追い出せなかった」
エリオットの両親はとても仲の良い夫婦だったそうだ。父が亡くなった時、エミリーは酷く憔悴し、このまま後を追ってしまうのではないかと思ったらしい。
一度はエミリーに別邸に行ってくれと頼んだのだが、エミリーは酷く怒り、拒絶したそうだ。
「あの時、領内で食糧難が起きていてね。領地のあちこちを見に行ったり、対策したりで忙しくて…」
「ああ…雨が少なかった年がありましたね。あの時は大変でした」
実家にいた頃、小麦の値段が跳ね上がった事がある。雨が降らず、国中で食糧難になっていたのだ。父も対応に追われ、少し減っていた借金を増やしていたが、エリオットも同じく領民たちの為に走り回っていたようだ。
「少しは居心地が良くなるようにと考えたつもりだったけれど、結果的に放置してしまった私にも責任はあると思っているよ」
「だからといって、夫を裏切って良い理由にはなりませんよ。それはアリシアさんの罪です」
「そうかな…もっと上手くやれていたら、アリシアに辛い思いをさせずに済んだかもしれない。酷い仕事をせず、苦労もしなかったかもしれないのに…」
俯いたエリオットは、僅かにスンと鼻を鳴らす。優しい人である事は知っているが、あまりにも優しすぎるだろうとアンナは苛立った。
「過去の事を悩んだところで何も変わりません。エリオット様はどうされたいのです?あの方を憐れみ、屋敷に住まわせるおつもりですか?」
「まさか。アンナがいるのにそんな事出来ないし、母上も許さないよ」
エミリーは既に今夜の事を知ったようだが、子供の為だとアンナが説き伏せた。朝になったらすぐに追い出しなさいと怒鳴られ、扉を目の前で閉じられた事を思い出し、アンナは面白くなさそうに鼻を鳴らす。
「でも、助けてあげたいと思っているのでしょう?」
「…うん」
「全く…本当にお優しい方ですこと!」
どうしたら良いのかまでは分からないが、アリシアの状況を知って、見て見ぬ振りをする事は出来ない。でもアンナの事を考えると、元妻に親切にする事も出来ない。
どうしたら良いと何度も考え、エリオットは眉間に深々と皺を刻み込んでいた。
「明日、朝になってから考えましょう。疲れた頭では、良い案も浮かびませんから」
「…そうだね、そうするよ」
「今日はここで眠っても?」
「そうしてくれ」
泣きそうな顔で笑ったエリオットは、まだ酒の入ったグラスを置いてアンナを抱きしめる。今夜は一人になりたくないと耳元で呟く夫の体を抱き返しながら、アンナはボロボロの姿をした元伯爵令嬢の顔を思い浮かべていた。




