序章 君が特別になった日
高校1年の3学期。
自分は村尾文香という女子と席が隣になった。
クラスメイトから羨ましい、替わってくれなどと軽口を言われた。
だが、そんなものかな、というのが正直な思いだった。
席が隣になっただけ。
彼女は物静かで、人当たりが丁寧で、悪く思う人はたぶんいない。
色白の肌と薄めの髪色、そして不思議な色味の淡い瞳。
薄く透き通っている、そういう外見の印象だった。
ただ、彼女とは一度も口を利いたことがなかった。
席が隣になってから、おはよう、また明日を交わすようになった。
ただの挨拶でも彼女は丁寧で、ゆっくりと、少し笑顔で言う。
とても気持ちがよかった。
ただ自分はそれに、逆に距離の遠さを感じていた。
◇◇◇
ある日の、物理基礎の授業中のことだった。
急に寒気がして、頭が重くなってきた。
風邪をひいたか。
思い起こせば朝から、ぼうっとした感覚があった気がする。
経験がないくらいの悪寒だった。
奥歯が、少し鳴っている。
この授業が終わったら、保健室へ行こう。
そう思っていたが、体調はみるみる悪くなり、目を開けているのも辛くなってきた。
机に両肘をついて手に顔を乗せて、教科書を薄目で見るだけ。
しばらくそんな姿勢で時間を過ごした。
視界の右下、机の上に突然、白い指先とノートの切れ端が現れた。
『大丈夫?』
鉛筆でそう書かれている。
ああ、村尾さんか。
様子がおかしいのに気付かれたか。
横を向いて彼女の顔を見てから、軽く頷いた。
もうその表情も、薄暗くしか見えていなかったが。
「え~と……」
急に授業が止まったと思ったら、教師が自分の方を見ていた。
目が合う。
教師は一瞬、教卓の座席表に目を落としてから
「……相良君。大丈夫?」
クラスの視線がサッと自分に集まる。
「保健室、行ってきていいよ」
普段はハキハキと大きな声だが、このときは心配そうな声色で、教師が言った。
正直、ありがたかった。
「……はい。すいません」
そう言って、感覚がぼやけた体で、ゆっくり立ち上がる。
早く立ち去らないと。
「誰か、一緒に」
教師がそう言う。
いや、それは……そんな大ごとには。
急に気が重くなったが、
「あ。私が」
間を置かずに、隣の村尾さんが立ち上がった。
「うん。……よろしくお願いします」
教師がそう言った。
村尾さんは戸口に向けて、自分を振り返りながら先を歩く。
自分は彼女の足元だけを視界に、付いて歩く。
教室内はずっと沈黙している。
早く出ないと。
彼女はガラと戸を開けて、自分が来るのを待った。
何とか、廊下へ歩み出る。
背後で戸がカラカラと閉じられる。
『……じゃあ、授業続けるよ』
戸越しに、教師の声が聞こえた。
はっきり記憶にあるのは、ここまでだ。
◇◇◇
意識がはっきりしたのは、保健室のベッドの中だった。
額に急に、ひんやりした感触が乗ってハッとなった。
目を開けると、横から覗いている村尾さんの顔が間近にあり、少し驚く。
額に乗っているのは村尾さんの右手だと分かってまた驚くが、その手は少し冷たくて、心地よかった。
かなり熱いです。大丈夫ですか――
そういうことを、村尾さんは言ったと思う。
そして自分も何か言ったはずだが、覚えていない。
ただ、その手の心地よさと、初めて間近で見る彼女の瞳は、はっきり覚えている。
やがて村尾さんは手を離すと、顔を少し耳元に寄せて、
保健室の先生、呼んできます――
静かにそう言って、部屋を出ていく。
ゆっくりと戸を閉めて、その制服姿は視界から消えた。
少し、若草色が混じってるんだな――
誰もいなくなった保健室で、眠りに落ちる前に考えていたのは、村尾さんの瞳の色だった。
◇◇◇
この日を境に、自分と村尾さんは、おはよう、また明日とは違う会話も、少しだけするようになった。
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