蒼唯 [1]
自傷行為に関する描写があります。
「……──リスト、カット?」
澄川くん──もとい湖緒から呆けたように発せられた呟きが、蒼唯の胸を突き刺す。
(バレた………!しかもクラスメイトに)
焦りと恐れから噴き出す冷や汗と、単純な暑さから出る汗で、蒼唯の背中はぐっしょりと濡れていた。
蝉がうるさいくらいに鳴いている。短い己の人生を、目一杯に叫んでいる。
やっぱり、学校でなんてするんじゃなかった。
後悔先に立たず、というのはまさにこのことかと奥歯を噛み締める。
(嗚呼、澄川くんはなんて言うだろう。)
彼の人となりを知らないため、湖緒の言動を全く予想できない。
笑うだろうか。心配するだろうか。引くだろうか。
いずれも自分がひどく傷つくことを、蒼唯は一番分かっていた。
長い沈黙の後、湖緒が口を開いた。
「……自傷って、どんな感じ?」
「───え?」
「僕も一瞬、やってみようか迷ったときがあって。痛そうだし、傷を隠すのが面倒臭そうだからやらなかったけど……。実際にやるとどうなのかなって。」
予想していた反応と全く違い、ましてや興味を持たれるなんて夢にも思っていなかった。蒼唯は鳩が豆鉄砲を食らったような表情になる。
しかも、ごく真面目な顔で尋ねてくるものだから、蒼唯は思わず笑ってしまった。全身の力がゆるゆると抜けていく。
何故笑われたのか分からない湖緒は、しょんぼりと肩を落とす。
「………やっぱり、変な質問だったよね。無神経だったし……、ごめん。」
「いや、違くて。てっきり笑われたり引かれたりするかと思ってたから、びっくりして。リストカットしてどうだったか、かぁ……。」
どこか遠くを見るような目をする。
「マジでいいことないよ。やってる最中は解放感あるけど、やった後は後悔しかない。今だって、『自傷なんてやらなきゃよかった、学校でなんてするんじゃなかった』ってすごい後悔してる。それに、」
蒼唯はそこまで言うと空を仰いで、「クラスメイトにバレたしー!!」と自棄気味に叫んだ。
いきなりの言動に湖緒は目を丸くさせたが、蒼唯の様子にくつくつと笑った。つられて蒼唯も笑う。
(………もうバレちゃったし、何も隠さなくて良いのかな。澄川くんは友達もいなさそうだし、言いふらすような人でもなさそう。)
若干失礼なことを思う。見つかった直後の焦燥はどこへ行ったのか、何故か今はただ清々しかった。
蒼唯はスクールバッグに入っていたポケットティッシュを一枚抜き取り、おもむろにカッターの歯を拭いていく。
視界の端で、湖緒が地面に座ったのが見えた。
きちんと血を拭き取ったあとカチカチと歯をしまい、スクールバッグにしまった。
蒼唯も、湖緒の斜め前の位置に座り込む。
屋上の地面は、昼間に溜め込んだ太陽の熱をまだ抱いたままだ。少し熱いくらいの暖かさが、スカート越しにお尻に届いた。
「そっか。じゃあやらなくてよかったな。」
「あはは、でしょ?………わたしも、もうやめようかな。手当ても、傷を隠さなきゃいけないのも面倒だし。リスカがバレないように長袖を着るのも暑いし、怪しまれるし。」
「あー……、たしかに。こんな暑いのになんで長袖なんだろう?って思ってた。」
「隠すにはそれしか策がなくてね。」
「はぁ、ほんと暑いなぁ……」と零しつつ蒼唯は袖を捲り始める。
あまり日焼けのしていない右腕と、手首付近に切り傷のある左腕が露わになった。右腕には傷がないのは、利き腕だからだろう。
湖緒は一瞬、躊躇うような表情を見せたが、すぐに意を決したように口を開く。
「………あのさ」
「うん?」
「なんでリストカットをしていたのか、いつからしていたか、とか、訊いてもいいかな。」
「………面白くないよ?」
「まあ、そりゃあ、そうだろうけど。」
───女の子らしいところもあるのね、料理が好きだなんて。
───将来、良いお嫁さんになれるわね。
心を深く抉るそんな声が、唐突に再生される。
その脳にこびりついた言葉が、蒼唯に待ったをかける。
ずっと隠してきた心に、踏み込まれようとしている。それがひどく怖くもあり、少し希望も抱いている。
(わたしは───僕は間違っていると言われるのか。………受け入れてくれるのか。)
彼に曝け出して、明日から居場所を失うか。
それとも、己にとって唯一の理解者になってくれるのか。
「きっときみも、わたしのことをおかしいと言うよ。わたしだって、自分がおかしいことくらい分かってるんだ。」
「………僕に『郡山さんはおかしいよ』って言われるのが怖いってこと?」
「………情けないけど、その通りだよ。」
蒼唯は震える唇を噛み締める。
怖いから、こうやって保険をかけてしまう。どれだけ確認するんだと思われても、自分の心の安全が確保されるまでは防衛しなくては。
「僕だって十分おかしいのに、何が怖いの。『火事で家族を亡くした、顔に火傷のある可哀想な奴』だよ?僕も普通じゃない」
だから安心してほしいんだ、と湖緒は笑う。
(彼はきっと、僕を笑わない。)
信じてみよう。目の前の、痛ましい火傷のある湖緒を。たくさん傷ついてきたであろう湖緒を。
「………そうだね。きみを信じて、わたしのことを話してもいいかな?」
「もちろん。聞かせてよ、郡山さんのことを。」
蒼唯は、誰にも打ち明けたことのない、苦しさと孤独を語り出した。




