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セッション9.攻撃開始

 リクは目覚めた瞬間、今どこにいるのかどころか、自分が何者かもすぐには自覚できなかった。そのくらい深く、長く眠っていた気がした。睡眠薬を飲んだ翌朝のような感覚だった。脳髄が断固として活動を渋っている。


「カワダ様は初めてのセッションでしたので、1回目はこのくらいの時間にしておいた方がよろしいかと存じます」

 ゆっくりと目を開けると、ハマダさんがいた。その反対側ではタカシマ・レイがヘッドギアを外そうとしていた。この美しい指の動きは覚えている。

「すごく長く眠っていたような気分です。随分長いセッションだったのですね」

「いえ、お時間は8分40秒ほどです」

 ハマダさんは事も無げに言った。

「そんなバカな」

「そう思われても当然です。この8分間で、カワダ様はナカモトさんの数か月に近い記憶を一気にトレースされました。脳の活動スピードはそれほど高速なのです。随分と脳を酷使されましたので、かなりお疲れになったはずです。これ以上の長時間セッションは負担が大き過ぎます」

「しかし、まだ全てを理解できた訳ではありません。旅はまだ途中だ」

 ハマダさんは頷いた。

「無理をなさらないでください。カワダ様のお時間が許せば、明日もその次の日もセッションにお越しください。我々はいつでも歓迎いたします」


 リクは古ぼけたオフィス21を出て、ウォール・ドームの人込みをかき分けて歩いた。周囲の風景が全く頭の中に入って来ない。足元がフワフワとした感覚で、頭の中で考えがまるでまとまらない。ただぼんやりと歩を進めているだけだ。つい数時間前とは別の人格になったような気分だった。

<他人の記憶にアクセスするというのは、このようなものなのか>


 リクはハマダさんのオフィスでのセッションを反芻した。

 ハマダさんが言った通り、ナカモトの記憶を旅している間は夢を見ているようでもあった。何の疑いを抱くこともなく、セッションの最中、自分は完全にナカモトだった。

 暗号資産が消滅したときの驚愕と恐怖は本物で、副社長が自殺したときには心の底から涙を流した。信じていた社員が会社を辞めたいと打ち明けたときの落胆と寂寥感も自分の経験として感じられた。

 暗号資産のコア開発者との接触では、不気味さを感じつつも相手を説得しようと必死になった。手や脇に変な汗をかいていた感覚まで思い出していた。人の記憶とはこんな些細なことまで刻まれる。実に複雑で不思議なものだ。

 しかし、ナカモトの記憶はストックホルム郊外の寂れたビルに入る所でストップした。これから何が起こるのか―リクは興味を抑えきれないでいた。


 どこをどう通って戻ったのか覚えていなかったが、リクは小1時間かけて自分のマンションに帰った。当然のことながら、いつもハマダさんがいる受け付けカウンターは無人だった。

 自室に入ると、リクはコンピューターのディスプレイに目を遣った。ここは自宅だが、秘密の仕事場でもある。リビングの中央に広めのデスクを置き、その上に3枚の大型ディスプレイがある。仕事柄、それは24時間つけっぱなしだ。

 リクの目はその一枚に釘付けとなり、心臓を鷲掴みにされたかのように固まった。

「動き出した」

 「ルナ」のユーザーやノードに対する大規模な攻撃が始まっていることを、コンピューターは示していた。


 そのとき、リクの情報端末がコール音を鳴らした。手首に装着しているハイブリッドの端末は月コロニーの通信装置でもある。通信相手は不明だ。

「はい」

 すぐにリクが応答すると、

「現在の事態を把握していますか」

 声の主はすぐに分かった。ナカモトだ。旧知の友人のように一瞬感じてしまったのは不思議だった。今日のセッションのせいだろうか。

「51%攻撃です。かなり本格的だ」

「その通りです。取引所は業務を即時停止しました。しかし、マイナーが心配です」

「こちらが51%を取り返せば良い。それはここで対応できるでしょう」

「可能ですか」

 リクはコンピューターを操りながら答えた。

「今、対処しているところです。もうすぐ終わります」

 ナカモトは黙った。リクの指はタッチパネルの上を踊るように走った。失敗は決して許されない。胃の辺りが万力で締め付けられているような不快な鈍痛を感じつつ、リクは集中力を極限まで研ぎ澄ませた。こうした事態に遭遇したときはいつもそうだ。呼吸や瞬きすら忘れてしまったかのように、リクは作業に没頭した。

「終わりました。こちらの多数は保たれました。メインチェーンの正当性は保持されました」

 わずか数十秒後、リクが言葉を発すると、ナカモトが小さな溜息を吐いたのが分かった。

「ご苦労様でした」

「こちらのAIもなかなか優秀なパートナーなんでね。このくらいの攻撃には対抗できます。今回はギリギリでしたが…」

「やはり『ルナ』の脆弱性を突いてきました」

「ハッシュパワーの問題ですね」

「ええ。資源が限られたコロニーですから、なるべくパワーを必要としないマイニングの仕組みにしたのが仇になりました」

「地球と比べるとユーザーやマイナーは圧倒的に少ないので、多数決を奪うのが簡単だと考えるのは普通の行動です」

「改良が必要ですね」

「敵の行動パターンが予想できれば対処計画も事前に準備しやすい。それと、ユーザーやマイナーが少ないなら、なおさら誠意ある副官を増やせば良いということもあります」

「ビザンチン将軍問題の解決ですね」

「これまではそうやって何とか対処してこられました」

「しかし、これからは…」

「そう簡単にはいかないでしょう。新しいユーザーやマイナーが続々と流れ込んできています。月全体の富の蓄積が進んできているので、経済規模は集中管理できるレベルではなくなってきました」

「おっしゃる通りです。また何かありましたら連絡を取らせていただきます」

 それだけ言うと、ナカモトは一方的に通信を切った。まもなく、ディスプレイの一つが取引所の業務再開を伝えるメッセージを発した。

 極めて強い緊張から解き放たれた虚脱状態の中で、リクはあの非現実的な取引所のデスクにたった一人で向かっているナカモトの姿を想像していた。


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