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イセカイロセカイ  作者: Elisu Arina
赤の章
38/130

第37話 絶対に関わってはいけない相手


 ポピーの頭が真っ白になる。

辛うじてツキソメを奏でる指は動いている。

でも音がおかしい。なぜこんな裏返るような音が出ているの?

ポピーは自分でもわけがわからなかった。

息が苦しい。どうして、なぜこんなことになっているのか。なぜ思うような、譜面通りの音が出ていないのか。なぜいつも通りの音が出せないのか。

彼女は弓を動かしながらも、意識がどこか遠くへ飛びかけた。

その時だった。

突如右隣から更なる大きなツキソメの音が聞こえてきたのは。

「な……!」

パステルはハクアを奏でながらその音に驚き、声を漏らす。

(音を増やした⁈)

カンショウを吹いていたシェルも目を見開いた。

桃色(ももいろ)はちらりその音の主に視線を向ける。

マゼンタが指示通りの倍は大きく、しかもクオリカの譜面にはない音を奏でていた。

「えっ、なに?」韓紅花(からくれない)姫が垂れていた首をガバッと起こして周囲を見回す。

瞼は半分閉じかかり、唇の端にはよだれがついていた。

なにか、音が大きくなった気が、したような?

「今……」

薄紅(うすくれない)姫はそれだけ呟くと楽舞台(がくぶたい)を眺め続ける。

赤紫色の少女のツキソメは、少しの間独特な音を鳴らした。

それは何かを導くようであり、何かを隠すようでもあった。

しかしそれもほんの数秒のこと。

すぐに音は落ち着き、元の譜面通りの演奏になった。

(あ、あたくし、なにを……)

ポピーは呆然と思った。

指の震えはなぜか治まり、息も苦しくはない。

たった今起きたこともちゃんと聞こえてはいる。

でもいったい何が起きたのかはよくわかっていなかった。

 五人の演奏は続いていく。

パステルは眉間に皺を寄せ、メインを司るシェルは戸惑いながら、桃色は丁寧に音を重ねていく。

赤紫色のマゼンタもいつも通り、練習通りに弦を押さえ弓を引いていた。




 民家が立ち並ぶ道をストロベリーがヘロヘロになりながら走っている。

両側の家々は玄関先さえ見えてはいるが、庭やその先の家屋はベニヤ板で囲われ、通りからはしっかり目隠しされていた。

きっと家の中には人もある程度はいるのだろうが、この暑さではかなりの確率でぐったりとしているに違いない。

炎天下、道に人はいない。あるとすれば逃げ水だけが楽しそうに踊っている。

 ストロベリーは決して肉体派の密偵ではなかった。

密偵の中には体力や武術に自信のある者も少なからず存在する。

が、彼女は全くもってそのタイプではない。

何なら密偵にも関わらず極度の人見知りであり、緊張しいである。

上手く立ち回ったり、何でもすんなりとこなしたり、勿論体力お化けだったりでは決してない。

それでも彼女は走った。

走るのは決して早くないし、正直傍から見れば〝遅っ〟と突っ込まれるだろう。

けど、これは仕事。

対象を見つけるまで、探し当てるまで、情報を得るまで、追いかけねばっ!

ストロベリーはとかく真面目だった。

「もうっ、緋色(ひいろ)どこに行っちゃったの……⁈」

塾の教員室を少年が飛び出してから、彼女はその後をまた追っていた。

(調査対象を見失うだなんて、またローズにネチネチ言われちゃうよぉ……!)

真夏の太陽の下、彼女は上司の小言を思い描いて走り続けた。



 ストロベリーが探している相手は林に囲まれた歩道を歩いていた。

縦に伸びる茶色の木々は密集して影を作り、日の光を遮り、屋外の他の場所よりは幾分涼しい。

風が通り抜ける、生温い風が。

この歩道は車の通行を禁止していた。さらには暑さのため人っ子一人いなかった。

少年はそれを狙ったわけではなかったが、気づけばこの林道に辿り着いていた。

辺りはしんと静まり返り、風の音だけが木の葉を揺らす。

 ところが彼は昼の暑さだの、人のいるいないだの、音がするしないだの、そんなことはどうでもいいかのごとく地団太を踏みまくって怒りを大地に叩き込んでいた。

「なんなんだこのモヤモヤは、なんなんだこのイライラはっ……!」

緋色の口から勝手に言葉が出てくる。

「なんでオレはこんな気持ちになってんだ……!なんでマゼンタのことでこんな風にグチャグチャしなきゃなんねーんだっ……!」

少年は思わず立ち止まった。

「だあっ‼もうっ‼」

彼の叫びが林に響く。

木々の葉っぱがカサカサと音を立てる。

誰も少年の苛立ちに答える者はいない。返事は返ってこない。この場には誰もいない。何者も彼の問いを解決出来ない。

と、思っていたが、急にそれが勘違いではないかと思い始めた。

自分のすぐ側に、何やら人の気配を感じ始めたのだ。

あん?

緋色は首を僅かに振ってその気配に目をやった。

クリムスン家頭首の長男、コチニールが驚いた顔で佇み、緋色を見ていた。

「――⁈」

緋色とコチニールは驚きのあまり固まってしまった。

ここにいるはずのない相手。絶対に関わってはいけない相手。

コチニールは学校の帰りなのか、四角い鞄を背中に背負っていた。

「コ、コチニール……⁈」

緋色の声がかすれる。

相手が自分の名を呼び、コチニールははっと我に返った。

まずい、まずい、まずい、ここから早く去らなければ……!

コチニールは無言で彼の隣を過ぎ去ろうとした。

「あ、あのさ……!」

ありえない。

緋色が話しかけてきた。

しかもドキッとした自分の足がその場で立ち止まってしまう。

「こ、こんなこと言ったら、あれなんだけど……」

緋色の視線が自分の背中を貫いているのを感じる。

が、彼の言葉はコチニールにとって予想だにしないものだった。

「マゼンタと連絡取ってたりする?」

「えっ……?」

コチニールは驚いて振り返る。

緋色は視線をそらしつつも、

「なんか、ケータイとか、楽坊に持ち込むのはダメって聞いたけど、連絡出来たり、たまには家に帰って来てたりすんの?」

少年の問いにコチニールは目を見開いた。

「な、なんでそんなこと聞くの?」

わけがわからない。

緋色がどうして?

相手は急にもじもじし始めたかと思うと、

「あー、誰にも言うなよ」

「内容によるよ」コチニールの声が震える。

「実は、花火大会で偶然マゼンタに会って」

「えっ⁈」

マゼンタに、会った……⁈

コチニールの思考が一瞬停止した。

「ちょっとだけ、最近どうしてるとかお互い話して」

コチニールは息を呑む。

待って、待って、それって……!

コチニールは唾を飲み込むと、

「やっぱり君たち、塾でずっと接していたんだね。だから……!」

「接してたっていうか、ちょっと話したり、手合わせしたくらいだけどな」

「手合わせ⁈」

今度はコチニールの悲鳴が林道に響く番だった。

マゼンタ、君はいったい、緋色となんてことを……‼

本当はそこまで叫んでしまいたかったくらいだ。

緋色は淡々と説明する。

「オレが養子でマゼンタも養女で、なんか話が合ったんだ」

コチニールは全身からすっかり力が抜けてしまった。

「そうか、なるほどね……」

なんかこいつ、ぐったりしてる?

緋色は相手を眺めながら思った。

コチニールは気の抜けた顔を上げると、

「マゼンタはずっと帰って来てないし、携帯端末も持ってないから、僕たちは連絡さえ取ってないよ」

正直にそう伝えた。

嘘をつく、隠す、ということが苦手なのもあるが、それをするという選択肢が彼にはなかったのだ。

緋色はがっかりと、「やっぱそうだよなぁ」足元の小石を軽く蹴る。

「君のほうがよっぽど運がいいね……」

コチニールはそれだけ言い、トボトボとその場を後にした。

まさかこんな所で絶対に会ってはいけない相手と出会い、その相手から絶対にありえない出来事を聞かされ、さらには大切な家族との連絡についてまで質問されるとは……

コチニールの気力は地下深くまで埋められてしまった。

「運か……」

緋色はそんな彼の後姿を見送りながら呟いた。

運なんてものを特別信じているわけじゃなかったが、少年は自分の引きが強いことを身をもって体感していた。




 王宮の廊下を長い列がなしている。

そのほとんどは皆同じ格好をした袴姿の女官で、彼女たちの先頭には二人の姫君が並んで歩いていた。

姫君の一人、薄紅はゆったりと廊下を進みながら、

「今日の演奏、どう思った?」

隣を歩く妹の韓紅花に尋ねる。

韓紅花姫は姉を見上げると、

「とてもハデな色のガクシがいました」

目をパチパチとさせて答えた。

さも当然の如く、ありのままに、見たままに。

薄紅はほんの少々呆れると、

「ああ、最近楽坊に入った新人らしい」

「そうなんですか」

「私が聞きたいのはそういうことではなくてだな」

「ほ?」

姫とは思えぬ腑抜けた顔の妹に、薄紅は根気強く質問を投げかける。

「面白かったと思わないか?いつもと違って」

「いつも?」

「そなたにはまだわからぬか」

韓紅花姫はポカンとする。

薄紅姫は諦めたように妹から視線を外すと、瞳には映らない遠くの景色を眺め始めた。

韓紅花は隣をゆったりと歩く姉を見上げて瞬きを繰り返す。

(姉君サマはときどきよくわからないことを言う。今日のエンソウ?おもしろい?なんかがちがったの?)

そう思いながら。




 夕日が天窓から差し込む楽坊の桃色の部屋では、その部屋の主とパステルが一人の楽師と向かい合っていた。

「先程の演奏はいったいどういうことだ」

椅子に座った桃色の隣に立つパステルが、目の前の楽師に問う。

「ど、どういうこととは?」

机を挟んで立ったポピーが問い返す。

何を言っているのかまるでわからない、そんな風だ。

「先程姫君様方の前でしたそなたの演奏のことだ……!」

パステルの声が一段と低くなった。

「な、何か問題でも?」

相手はほんの少しだけひるんだかに見えたが、返ってきた言葉の内容に参謀の怒りが沸点を突破する。

「そなたがツキソメの音を外したことだ!わからぬか⁈」

ポピーの心臓がドキリと音を立てた。

「あ、あれは、あたくしが音を外したのではなく……」

彼女はその瞬間の記憶を手繰り寄せる。

「そ、そうですわ、あの子が、マゼンタが音を間違えたのですわ!」

パステルが啞然として、

「そなた、本気でそう思っているのか……?」

「も、もちろんですわ。だ、だって、あんな音、楽譜には一切記載されておりませんし、勝手に音を増やすなど、楽師としてはありえない所業で……」

「そなたが音を外したからマゼンタが咄嗟に音を増やしてカバーしたのではないか!そんなこともわからぬかっ⁈」

「で、でも、そんなの、やっていいことでは……!」

「ポピー」

名を呼ばれた彼女ははっとして桃色に顔を向ける。

それまで口を閉じていた桃色が彼女を真っ直ぐ見つめていた。

楽坊の主は静かに、かつ丁寧に話し始める。

「あなたは楽舞台に立つ前から、何か違うことに心を捕らわれていたように思います。それがあのような結果に繋がったのだと」

ポピーの脳が何かを一瞬思い出させた。

それでも言葉は次いで出てくる。

「でもあたくしは本当に何も悪くはないのです!悪いのはあの子です、マゼンタです!」

パステルはうんざりと首を振った。

ここまで言ってもわからないとは。

ポピーを見つめていた桃色は決意を固めたかのように告げる。

「そうですか。マゼンタが何をしたのかさえ理解できないようであれば、あなたにはこの楽坊に在籍する資格がありません」

「え……?」

「ポピー、楽坊を去って頭を冷やしていらっしゃい」

彼女には桃色が何を言ったのか、わけがわからなかった。

在席する資格がない?

楽坊を去る?

何を言って、何を言って……?

数秒後、その言葉の意味を理解した彼女は、今度こそ本当に息が止まっていた。

ポピーの眼前がガラガラと音を立てて崩れ去った瞬間だった。




 翌朝、楽坊の教室ではポピーに関する噂話が大いに盛り上がった。

その内容は、ポピーが楽坊を追放されたこと、姫たちの前で音を間違えたこと、音を間違えたら楽坊を追放される等、本当のことから飛躍しすぎたものまで様々だった。

 マゼンタと隣席のシェルはそれぞれ席に着きながら面白おかしく、或いは間違いに怯え恐怖する楽師たちを呆然と眺めていた。

「なんだか、真実とは違う噂が飛び交ってるみたい」

シェルが言う。

「本当は間違ったからじゃなくて、自分の間違いを認めなかったからだと思うけどなぁ。でもポピーも相当頑固だからなぁ、認められないだろうなぁ」

横笛奏者が唇を尖らせる。

マゼンタは友人の言葉を聞きながら、いつもの無表情のまま、ただ前方を見つめ続けた。




 塾では臙脂(えんじ)が教壇に立ち、子供たちが授業を受けていた。

子供たちは相変わらずはしゃいで、前後左右の友達と時折喋ってはケラケラと笑っていたが、なぜかアガットが教鞭をとる時より騒がしくない。

彼らも実は見抜いて、いや、本能で感じ取っていたのだろう。怒らせても大丈夫な人間と、そうではない人間とを。

そのおかげか臙脂の授業は、割と平和に進行していた。

 子供たちの中には緋色とストロベリーも当然交じっている。

一番後ろの席の緋色はボーっとしながら一応黒板を眺め、窓際の席のストロベリーは斜め後ろに座る彼をチラチラ見ながら授業を聞いていた。

(この子は身体能力は高いけど、勉強は本当に苦手なんだな。今も魂抜けてるし)

緋色をそう評価しながらも密偵のストロベリーは考える。

それとも、この間先生たちと話してたのが関係してる?


「なんで、なんでこんな風になっちゃったんだ!」


緋色が講師のアガットに対して放った言葉が蘇った。

いや、まさかね。だって今日先生たちと普通に話してたし、考えすぎ考えすぎ。

ストロベリーは首を振ると黒板に向き直った。

自分が彼にその台詞を吐かせるきっかけを作ったなどとは、露程にも思わずに。

 緋色は未だぼんやりしつつ黒板を視界に入れていた。

見ている、というより、ただ眼球に映っている、程度だった。

(なんとか、なんとかして、マゼンタに会えないかなぁ……)

少年は右から左に授業を聞き流しながらそればかり考えていた。

(そんな方法がもしあるとしたら……)

だから彼は誰かが自分の名前を呼んでも全く耳に入らない。

ストロベリーや周りの子供たちが自分を振り返っていても全く気づかない。

「緋色!」

一際大きな声がして、少年はやっと我に返った。

室内の全員が自分に注目していた。

その中で教壇に立った臙脂が冷ややかに告げる。

「黒板に見惚(みと)れるのは構いませんが、私の話もしっかり聞いてくださいね」

「は、はい」

子供たちがクスクスと笑いながら前を向く。

だが彼らの笑い声さえ少年には届かず、緋色はまたぼんやりと黒板を瞳に映した。

彼の脳は赤紫色の少女から、昨日の出来事を連想させる。

そういえば、昨日クリムスン家のコチニールと話したんだっけ。なんか、ちゃんとまともにアイツとしゃべったの初めてだな。

その時だ。

緋色の目が、はっと見開かれる。

えっ、ちょっと待って。オレ、コチニールとしゃべっちゃったじゃん……!クリムスン家の長男と、会話しちゃったじゃん‼

少年の止まっていた中身が一気に動き始めた。




「そのポピーとおっしゃる楽師は何かと問題があったとか。女官たちの間では勝手にあなたの部屋に忍び込んでいるとの話も出ていたようですし、あなたが持ち込んだセキエという楽器、それが一時紛失したらしいですね。その際も彼女の仕業ではないかという噂があったとか」

「よく知っている、ますね」

「ああいえね、そういった話は人から人に伝わって私の所にも流れて来るのですよ。決して私が興味本位で探りを入れたわけではなくてですね……!」

 王宮内にある紅樺(べにかば)の部屋にマゼンタは今日も招かれていた。

勿論ツキソメを持参して、ツキソメを奏でるために、だ。

しかし紅樺は曲を聞く前に、と自分と彼女にお茶を入れた。

親指と人差し指で掴めるほどの小さな茶碗が二つ、茶色い急須が一つ、彼の机に載っている。

紅樺と少女は机で向かい合うように茶碗に揺れる液体を(たしな)んだ。

嗜んだといっても彼女にとっては、ただ茶を飲むという行為に過ぎないが。

茶は実家、クリムスン家で飲むものより甘くまろやかな味がした。

「探りを入れたんだ、ですね」

マゼンタが言う。

「い、入れておりませんよ……!」

「どちらにしても」

「入れておりません、本当に……!」

紅樺が焦ったように答える。

「わかりました。とにかく、どちらにしてもポピーは去、りました、楽坊から」

「ええ、これであなたの生活は安泰ですね」

「安泰……」

「でしょう?」

マゼンタは自分の手の中の茶碗を見下ろした。

茶碗の中の液体に全く表情のない自分の顔が映っている。

ポピーがいなくなって、楽坊の生活が安泰になるのだろうか。もう何も起きないのだろうか。

彼女は少しの間思考を巡らせるものの、顔を上げると、

「ところで私を所望したのはツキソメを演奏するためだと思って来たのだ、ですが、なぜ私たちはのんびり茶をすすっているのか、でしょうか」

少女の問いに紅樺がにこり微笑む。

「演奏前に一息つきましょう?たまには」




 夕日が傾いたクリムスン家の屋敷では、コチニールが廊下をひたすらうろうろしていた。

その光景を家の男たちが見たら「それは考え過ぎだコチニール」とか「心配し過ぎだ」とか声をかけるだろうし、弟カーマインが見れば「ついに頭がおかしくなった」と心無い台詞を吐くかもしれなかった。

でもこの場に彼らの姿はない。

夕暮れの屋敷はしんと静まり返っているし、虫たちの鳴き声のほうが活発だ。

コチニールは行きつ戻りつしながら頭を抱える。

(昨日は緋色からマゼンタのことを聞かされて、そのことで頭がいっぱいになっちゃったけど、よく考えてみたらクリムスン家の僕が茜色(あかねいろ)家の緋色と接してしまったのって、すっごくマズイことだったんじゃ……)

彼の記憶が林道で緋色とばったり遭遇し、彼と会話してしまった映像をこびりつかせた。

コチニールが頭を左右に振る。

やっぱり、昨日のことは葡萄(えび)に話したほうがいいのかな。でも緋色が誰にも言うなって……けど、やっぱり……

彼は溜息をつきながら足を引きずるように廊下を進んだ。



 コチニールが廊下から目当ての部屋へやってくると、その場所は障子戸が全て開き、縁側も開け放たれているというのに、室内は薄暗く物音もしなかった。

ああ、灯りがついていないからだ。

コチニールはすぐに納得した。

それに部屋を覆う書棚のせいでもあった。

棚の中は大小様々な大きさの本がぎっしり詰め込まれている。

 彼が会いたい人物は部屋の奥に置かれた机の椅子に座って、書物に目を通しては文字を紙に書き連ねていた。

きっと室内が暗くなってきたことにも気づかないくらいに集中しているのだろう。

コチニールは部屋の前で立ち止まると、

「葡萄」

眼鏡を掛けた彼の名を呼んだ。

「はい?」葡萄が顔を上げる。

眼鏡の蔓が若干ずり落ちていた。

「今いい?」

「どうぞ」

コチニールは入室しながら、

「なんか最近忙しそうだけど、何してるの?」彼に尋ねた。

葡萄は眼鏡をしっかり掛け直して、

「ああ、執政官になるための試験勉強です」

コチニールが彼の机の側で立ち止まる。

「え、執政?王宮の?」

「そうですよ、他に何があるというのです?」

「な、なんで急に?」

「もちろんクリムスンの命令であり、この家の為になるからです」

「命令って……本気……⁈」

コチニールは啞然となる。

「当然でしょう、頭首の命令は絶対ですから。あなたもよくご存知のはずですよ」

葡萄がさらりと答えた。

何を今さら決まりきったことを、そんな具合に。

コチニールは口を半開きにしたまま固まってしまった。




 コチニールと瓜二つの人間がいる。

といっても彼の見た目や性格が全く一緒なのではない。家族から思いがけない就職先や信念を明かされて何も言葉に出来なくなってしまったわけでもない。

コチニールのほんの数分前の状態、それが彼にぴったり当てはまったのだ。

 その人間は守人クリムスン家からたいして遠くない場所にいた。

家の作りも外観も敷地内も全く似通ったその庭で、彼はぐるぐると同じ箇所を歩きまわっている。

ああでもないこうでもないと頭を抱え、彼の姿は本当にコチニールにそっくりだった。

(なんか勢いでコチニールに話しかけて、マゼンタのこと聞いちゃったけど、これってやっぱマズかったのか?オレは茜色家の人間だし、アイツはクリムスン家の人間だし……)

緋色は不意に立ち止まる。

 塾の授業中に、もしかして自分の起こした行動はとんでもない間違いだったのでは?と気づいた彼は、それからずっと同じ内容について考えに考え考えまくっていた。

しかし考えても考えても考えても考えても、答えは一向に導かれない。

 どうしようもなくなった少年は自らの髪をぐちゃぐちゃに掻き回す。

あーっもうこれってマゼンタの時とおんなじ悩みじゃねーかよっ!なんでいっつもこうなるんだっ!

父親でありこの家の頭首でもある茜色から、マゼンタとは関わるなと言われた言葉が蘇る。

彼が搔き回した髪は、元々寝癖まみれで(くし)など入れたことはなかったが、さらにボサボサな形態へと見事に変化した。

「おい、稽古するのかしないのかどっちだ」

緋色がはっと我に返る。

近くの木の根元にカッパーがもたれかかっていた。

少年の稽古相手、カッパーは今日も一切やる気のない態度で目を細めている。

俺は本当は稽古などしたくない。だが猩々緋(しょうじょうひ)に言われたから仕方なく付き合ってやっている、その姿勢を初めから全く崩さない。

「やるっ!」

少年は頭の中の煩わしい考えを一旦封じ、彼の元へと駆け出した。




「俺の相手をする気がないならよそで溜息つけよ」

「ごめん」

謝りつつコチニールは再び溜息をつく。

 夜も更けたクリムスン家の道場では、カーマインが今晩も一人居残って剣術稽古を続けていた。

ある一定の時間になるとクリムスン家の男衆は皆大座敷へ向かい、すっかり空っぽになってしまった胃袋を満たし始める。それは本当にありがたく、幸せに満ちた時間だった。

けれどクリムスン家頭首の次男、カーマインだけは稽古に集中し、この家の誰よりも遅くまで道場に残っていた。

 彼は木刀を一心に振るう。

強くなるため、誰にも負けないため、父に、兄に、妹に勝つため、それらのためだったら早朝も夕方も夜も休日も稽古に時間を割くのは、決して苦ではなかった。

 なのに今晩は客がいる。

しかもそいつは自分のすぐ側で体育座りをしながらうつむき、永遠と溜息をついていた。

さすがに苛立ちが勝ったカーマインは、木刀を振るう手を止めざるを得なかった。

「なんかあったの?」

彼は呆れたように兄コチニールに尋ねる。

兄はうつむいたまま、

「葡萄が、執政官になるって、父上の命令で」

何でか落ち込むように言った。

「へー」

「へーって、なんとも思わないの?」コチニールがやっと顔を上げる。

「葡萄なら父上の命令でなんでもやりかねない」

弟カーマインは正直な感想を述べた。

それが守人一族クリムスン家に属する人間の暗黙の了解だろうに。

「それはそうだけど。でも執政官……葡萄が執政官かぁ」

今さら何を、と返したいところだが、兄はどうしてか納得いかないらしい。

「葡萄の頭なら問題ないだろ。紅国(くれないこく)の頭のお固い高校を出て、何を好んでか朱国(しゅこく)の大学に留学して、卒業して帰ってきたと思ったら今度は俺たちのお世話係なんぞやっちゃってさ。ま、どーせ朱国の大学に行ったのも父上の命令だったんだろうけど」

弟の言葉にコチニールはしょんぼりとし、

「葡萄の頭脳のことは心配してないよ。ただ、せっかく朱国から帰って来たのに、執政官なんかになったら、僕たちと過ごす時間がほとんどなくなっちゃうんじゃないかと思って……」

カーマインは一瞬呆然とする。「なんだそれ、ガキか?」

「そういうんじゃないよ……!」

「いやガキだろ」

「違うったら!」

「いーやクソガキだ」

「もうっ!それにね」

「まだなんかあんの?」

弟カーマインはうんざりしながらも先を促す。

「葡萄自身は本当に執政官になりたいって思ってるのかなぁ」

コチニールが天井を見上げて言った。

それは素直な疑問だった。

 この家に属する者は頭首の命令に必ず応えなければならない。

そのことは充分理解している。

それでも、たとえそうだとしても、コチニールにとっては身近な人間が本当は何をしたいのか、何になりたくてどう生きていきたいのか、大切な家族の気持ちを尊重したいと思い始めていたのだ。

兄の気持ちをそこまで読み取ったかどうかは定かではないが、

「葡萄にとっては父上の期待に応えることこそが最大の幸福なんだろ。兄貴だってそうじゃねーの」

カーマインは言い捨てた。

自分たちにそれ以外の選択肢などない。

「そうだけど……」

コチニールはまた視線を下げてうつむく。

妹マゼンタが楽坊に入ると決心した時のことが、嫌でも思い出された。


















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