第2話 青の色光と赤の色光
(私は……誰だ?私は、何者だ……?)
少女の中にその言葉がぐるぐると渦を巻いていた。だが単語だけが虚しく響いて答えは一向に出る気配を見せない。
「どう■た?」クリムスンが問いかける。
彼女はただ呆然と彼に顔を向けることしか出来なかった。
すると大男はすぐに察して、
「まさ■、名前■わからない■■?」
「名前、わからない……」
やっと出るようになった声で絞り出す。
しかしそれを聞いた大柄な男は眉一つ動かさなかった。
彼女はがっくりと項垂れ、
(なんとか声が出たと思ったら、今度は自分が何者かわからないだなんて……なんなんだこれは……なんでこんなことになっているんだ……なんで私は私のことがわからないんだ……?)ひたすら自問自答を続けていた。
「ちょ■と待っ■いろ」
クリムスンはその場から立ち上がると、先程入ってきた扉替わりの厚い幕へ向かいそのまま出て行ってしまう。
取り残された赤紫色の少女は俯いたまま両手の拳を強く握りしめるしかなかった。
その老人は、ベッドの上で上体を起こしている少女の側に置かれた椅子に座って何かを尋ねていた。
髪も髭も長く真っ直ぐに伸びた彼の格好は、クリムスンと似たような服装をしていたのだが、背丈が大男とは全く異なっていて何なら少女よりも小柄でやせ細っていた。
小柄な老人は皺だらけの顔で優しく、少しずつ、ゆっくり言葉を発する。
彼女はその言葉に全神経を集中させた。
どうやら彼が少女に尋ねていたのは、いつどこで生まれてどう育ちどう暮らしてきたか、なぜ多くの人々が倒れている中にたった一人で存在していたか、等々……
老人の隣にはクリムスンが立って腕組みをしながら二人のやり取りを見守っていた。
だが彼女の答えは全て、
「……わからない」だった。
「おまえ■よう■症状■決し■珍し■■ない。戦場■■よくある■■だ」
夕日が外から差し込んでいるのか、テントの中は仄かに赤みを帯びている。
少女は相変わらずベッドの上で上体を起こし、クリムスンは彼女の側に置かれた椅子に座っていた。
「珍、しい?」
彼女は言葉を理解するため大男に集中しながら問う。
「いや、珍しくない」
「珍しく、ない」
彼は安心させるように微笑むと、
「ああ。過酷■状況■経験■■■一時的■記憶■言葉■失っ■しまう■■■ある」
少女は流れてきた言葉を自分の中で咀嚼して、
「記憶……言葉……」と、繰り返す。
「そうだ。でもおまえ■言葉■もう理解■始め■いるし、発する■■■出来ている■、記憶■じきに戻る■ろう」
彼女の脳は隣に座るクリムスンを凝視しながら、今の言葉の意味を思考し始めた。
(何を言っているのかわからなかった言葉が、少しずつわかるようになって、出せなかった声が出せるようになった。だから今はわからない自分のことも、もう少ししたら思い出せるようになる、ということだな……!)
大男が伝えたかった内容はどうやらしっかりと伝わっているらしい。
「それ■■医者■言って■■、休養■一番だ」
そう言うと彼は立ち上がって、
「ゆっくり休む■いい」
底知れない闇の中、数え切れないほど小さな星々が瞬いている。それらはまるで自らを主張するようにいつまでも輝くことをやめはしなかったが、その中に他とは群を抜いて特徴的な並びをした六つの星が浮かび上がっていた。
一つは赤色に輝き、隣は橙色に、その隣は黄色に、さらに隣は緑色、その次は青色、そして最後に紫色に輝くと、また赤色の星へと戻り、六つの星は円を描くように並んでいる。
だがそれらは微動だにせずそこにあったわけでない。
赤色に輝く星、通称赤星がだんだんとこちらへ近づいてくるのだ。
内側からほんのり赤みを漂わせるその星は、意思があるのだろうか、視界の全てを飲み込むように巨大化していく。
このままでは星に取り込まれてしまう……その時だった。
今まで全く聴覚を必要としない、無音の空間だったその場所に、音が混ざり始めたのだ。
この感じは知っている。
つい最近も経験した。
そう、誰かが、複数の人が何かを叫んで……
少女がはっと目を開けると、ベッドの上で仰向けになっていた。どうやら眠りについていたらしい。
彼女は上半身を起こして周囲を見回す。
テントの中は灯りが消えて暗く、しんとしていた。
(なんだ……夢……?)
赤紫色の少女は自分が寝ぼけているのだと思った。
ところが、
「俺たち■どう■■■⁈」
「避難■決まっ■■■■!」
男の声が、しかも複数人の声がテントの外から聞こえてきたのだ。
彼女は内心驚きながらも今聞こえた言葉を脳内で必死に理解しようとする。
「避、難……?」
そう呟くと、おもむろに足を床に下ろした。
夜がだんだんと明けていく頃だった。
空には小さな星々が散らばり、乾いた荒野にいくつも点在する三角形のテントの山を何とか照らし出そうとしている。
それにしても騒々しい。彼らは明け方に鳴く鳥並みに早起きなのだろうか。
地上では刀を持った男たちがテントの間を右往左往しながら駆け抜けていく。その表情は慌てふためき居ても立っても居られない様子だった。
その時、数あるテントの内の一つからひょっこり顔を出した少女がいた。
激しい赤紫色の髪と瞳をした彼女は扉替わりの厚い幕を手で押さえながら、慌てて走り抜ける男たちをきょろきょろと見回している。
(なんだ……?なぜみんな急いでいる……?)
少女は裸足のまま一歩外へ歩み出た。足裏を通じ大地の感触がひんやりと伝わってくる。
「なんで■■タイミング■っ!」
「冗談■■ない■っ!」
テントの前で立ち尽くす間も、刀を手にした男たちが彼女の前を逃げるように去っていく。
しかし少女はどうすることも出来ず、ただその場に佇むしかなかった。
今何が起きているのか、自分はどうすればいいのか、全く理解が追いつかない。
(私も、彼らの後を、追ったほうがいいのだろうか……?)
そう思い始めた時、二人の人間が彼女のほうに向かって走ってくる。
一人は見慣れた大男のクリムスン、もう一人は齢三十程で、大男には及ばないがそれでも背の高い男だった。若い彼はクリムスンと同じく髪を一つに結び上げ、服装も大男によく似ている。ただクリムスンよりは優しい赤色の髪と瞳をしていた。
その彼が走りながら大男に叫ぶ。
「あなた■■■なら■も……!」
だがクリムスンはその言葉に反するように、
「いや、その■■は■■」と答え、テントの外に突っ立っている少女の側で立ち止まった。
一緒に走ってきた長身の男もクリムスンの隣で立ち止まり、彼女に目を留める。
「出てきた■か」大男は彼女に尋ねた。
赤紫色の少女は脳を必死に動かして、
「何か、あった……?」言葉を紡いだ。
するとクリムスンは微笑むように「心配ない■」
それだけ答えると隣の男に視線を向け、
「ワイン、この子■頼む」
「えっ?」
そう言って二人をその場に残し、また颯爽と駆けていく。
「た、頼む■て……!」
しかし大男はその体格からは信じられないほどの身軽さで既にどこかへ消えてしまっていた。
ワインと呼ばれた彼は困ったように彼女を見下ろすと、
「君はクリムスン■助け■っていう……」
少女はもう一度、今度は彼に問う。
「何か、あった?」
「あった■何も……!」
その時だった。
地鳴りか、はたまた遠雷か、それらに近しい音が遠くの空から聞こえてきたのだ。
少女は驚いて音が鳴っている空の向こう側を見上げる。
隣に立っていたワインも空を見上げると、ゴクリと唾を飲み込んで、
「来た……!」
二人の視線の先、雲を搔き分けるようにしてそれは現れた。
体幹から頭部と四肢、背中からは翼が生え、一見人のような、しかし全体の造りは機械のような姿形をした異常に巨大な飛行物体が一つ、青い光を全身から放ちこちらへと向かってきたのだ。
少女は目に映った光景にポカンと口を開け「なんだ、あれは……?」
隣の彼はその物体を睨み上げると、
「青の、色光……!」とだけ答えた。
彼女は繰り返す。
「青の、シキコウ?」
色光と呼ばれたそれは鋭角な翼を広げながらこちらへと真っ直ぐに飛行してくる。
少女は思わず尋ねた。
「こっち、来る?」
「それ■そうだ……!」
ワインが答える間も、刀を持った男たちが二人の脇を転げるように逃げていく。
「たっ、助け■……!」
「殺され■っ……!」
走って逃げ切れるものなのか、それでも彼らはこの場に留まってなどいられないようだ。
彼女はワインを見上げる。「ここ、マズイ?」
彼はこめかみから冷汗を流し、「どうかな……!」
それを聞いた少女は切迫した雰囲気ながらも若干呆れ、
(どうかなって……!)
その時、地面を揺らすような轟音が鳴り響いた。
彼女は音の出所を探って振り返る。轟音は彼女たちが立っている場所より、さらには立ち並ぶテントよりもずっと離れた奥のほうから聞こえていた。
ところが音の正体をもっと探ろうと身を乗り出した瞬間、猛烈な砂煙がテントの間を縫って二人に襲いかかり、少女は咄嗟に顔を腕で覆う。
(なんだ……⁈)
小さな砂粒が剝き出しの顔と手に当たる。とてもじゃないが目は開けられない。
でも音だけは耳に届いていた。最初は轟音だったそれは羽ばたきのような音とへ変わり、どうやら上空へ移動しているらしい。
彼女は薄目を開けて音の正体を見極めようとした。今自分の目の前で起きていることは、この大きな音は一体何なのか、と。
――そして赤紫色の瞳にその正体が映った。
「これ、は……⁈」
少女が見上げていたのは異様に巨大な人、いや、動物のような生き物だった。
頭部・体幹・両腕・両脚はあるが背中には鳥のような翼、腰からは毛が密集した長い尻尾が生え、頭の先から手の指先、足の爪先まで甲冑らしきものが覆っている。ゴツゴツと波打つ金属のような甲冑の内部はどうなっているのか見当もつかないが、翼と尻尾は剝き出しのままだ。さらには肉体の内側から仄かに赤い光を放っているようで、まるで全身が輝いているようにも見えた。
その謎の生物は大きな翼をゆっくり羽ばたかせ、大空へと舞い上がっていく。
少女は続け様の有り得ない光景に呆然とするしかなかった。目の前の光景が信じられなかった。
例え記憶がなかったとしても、こんなものは見たことがない。
それくらいの衝撃だったのだ。
だが、今目に映っているもの以上の衝撃をワインが口にした。
「クリムスンレーキ」
「え……?」彼女は掠れた声で彼に視線を向ける。
彼も少女を見下ろすと、
「クリムスン■変身した赤の色光■■」