第1話 私は誰?
ただ闇。
何も見えず、何も聞こえず、何も触れず、何も匂わない。
一点の小さな光でもあれば自分が何者か見ることが出来て、微かな音でも聞こえれば今いる場所がどこかわかるかもしれない。この手に何かが触れれば傍にあるものを認識し、香りが漂えば何かしら想像出来る可能性もある。けれど光が瞬くことはなかった。一切の音はしなかった。何も触れてはこなかったし、何も匂ってはこなかった。
だからわからなかったのだ、今ある状況が、ここがどこかさえも。知りたかった、これが何なのか、ここがどこなのか。
だがそれは嘘だった。
いや、正確には何も聞こえていなかったはずなのに少しずつ耳が何かを捉えるようになったのだ。
例えるならばそう、声である。男、それも一人ではなく数人の。
遠くのほうからまるで近づいてくるように、その声たちは何かを呼んでいた。
「……ムスン」
「クリム……」
「クリムスン……!」
少女がはっと目を開くと、一番最初に飛び込んできた光景は厚手の布が張られた天井だった。高さは相当あり大人でも充分立てるほどの余裕がある。赤紫色の瞳をした彼女は周囲を確認するために上体を起こすと、自分が布が張り巡らされた室内の端に設置されたベッドの上で眠っていたことに気づいた。しかも土で汚れたワンピースを着ていたはずが、どこかで見たことがあるような帯を巻かれた服装に変わっている。どこで見たのだろう、割と最近だったはず……そう思いながらまた室内に目をやると、小さな空間ながらも簡易的な木製の机や椅子などが置かれていて一応生活することは出来そうだ。
(ここ、は……私、は……)
少女が自問自答していたその時、外と室内を繋ぐ扉の役目を果たしていた分厚い幕が何者かの手によって開けられる。
そして向こう側からやってきたのは、彼女が気を失って倒れる前、二人で会話をしていた……と言っていいかどうかは微妙な所だが、とにかく例の大男だった。
しかし彼女が思い浮かべていたのは彼と話していた光景ではなく、この大柄な男が刀で人を斬り殺した瞬間なのだが。
その刀を今は鞘に納め腰に差した彼は少女に近づくと、
「気■つ■■■」
何やらまた口を動かし、でも倒れる前よりはほんの少しだけ聞き取れるような言葉で話しかけた。
鮮やかな赤紫色の少女は大男をじーっと見上げている。彼の頭は天井に届いてしまうのではないだろうか、などと考えながら。
その間に対象は傍にしゃがみ込んで、彼女と同じ視線の高さになる。
「一■医■■診■■■■■■、ど■■怪我■な■■■■」
大柄な彼は努めて優しく言葉を発しているようだが、
「恐ら■気■失っ■■■、精神■■ショ■■■原因■■■■言って■■■」
相手は無表情のまま男を見つめて微動だにしない。
(というか……)少女は心の中で思っていた。
そして目を大きく見開くと、
(何を言っているのかサッパリわからない……!)
彼女の表情に男も気づいて、
「も■■■■、私■言っ■い■■■■理解■■■■■か?」
赤紫色の瞳がパチパチと瞬きを繰り返す。
(なんだか、何かを聞かれている気はする……だが何を聞かれているのかわからない……!)
大男は鼻から息を吐くと、
「なん■■■だ……」そう呟いた。
少女は微かに口を開けてみる。
「あ……」
しかしながらその声は当然宙に消えていってしまった。
「参■■な」
冷静だった彼の顔に若干困惑という文字が映る。
そして同じように、いやそれ以上に彼女の表情は困惑を通り越し愕然としていた。相手の言っていることがわからない、声も出ない、だったらどうすれば……!と。
だがここで大柄な男が何かを思い立つ。
「そ■だ」
彼は立ち上がり室内に置かれた小さな机の傍へ行って何かを手にすると、彼女の元へ戻ってきて、
「喋る■■■出来な■■■、これ■何■書い■■■くれ」
大男が両手に持っていたのは小さな四角い薄紙と持ち手の短いペンだった。正確には紙もペンも通常サイズだろうが、彼が持つと余計に小さく短く見えてしまう。
とにかく大男はしゃがみながらその二つを少女に差し出した。
ところが彼女はそれらを凝視したまま固まってしまう。
(これは……紙と、ペン……?)
彼は優し気な声で続ける。
「好き■書い■いい■」
それに反して赤紫色の瞳は困惑しながら紙とペンを見続けていた。これが、紙とペンだということは、わかる……だが、どうやって使うんだ……?
彼女の様子に気づいた男はまさかと思いつつ、
「もし■、使い■■わから■■、とか……?」
「あ……」
少女は今自分に出来る精一杯の言葉で返した。
相手は内心驚きながらも、
「これ■■」
紙にぐちゃっと明らかに上手いとは言えない何らかの文字を書き始める。
「こう■■■使う■■よ」
彼の筆遣いを彼女は真剣に見ている。まるで全てを吸収するかのように。
「はい」大男は紙とペンを再度差し出す。
すると今度は両手を伸ばしそれらを受け取って、紙を膝の上に置いた少女はぐっと右手でペンを握ると、
(ええっと……)紙に書かれた彼の字を真似て文字を書いてみる。
小さな紙には男の文字と同じ不器用な、しかも到底読めるものではないそれが並び出した。
「そう、そ■調子」
ほっとした声が応援する中、いくつもの同じ文字が所狭しと紙を埋め尽くす。
(なるほど、こうやって使うのか。面白い)
彼女が書くという行為に集中していると、隣にしゃがんだ大柄な彼が真っ直ぐにその顔を見つめ、
「私の名■クリムスン」
少女ははたと手を止めて男に目を向ける。
「クリ、ムスン……?」
瞬間、二人は同時に驚く。
(声が、出た……⁈)
彼は安堵したように微笑んで、「そう、クリムスン■」
赤紫色の少女は顔には出さないながらも嬉しさのあまりもう一度、
「クリムスン……」その言葉を口に出してみる。
口角を上げるでもなく、涙を流すでもなく、でも確実に喜んでいるであろう彼女の姿を目にした大男は、この調子ならばと次の質問を投げかける。
「おまえ■名はなん■言う」
そう問われた彼女は、
「名?」と、呟くように反芻する。
「そう、名前■」
「名前……」
赤紫色の虹彩が彼から視線を外し、何やら熟考し始めた。
(名前……名前とは、名前のことだろう?この男の名前は、クリムスン。私の名前は……私の、名前は……)
突然、少女は自分の中身が空っぽになったような感覚を覚える。
(私は……誰だ?)




