幕間「ユキ」
鳥飼をその気にさせた女──ユキ。彼女はろくでもない事を考えていると思う向きもあるかもしれないが、まさにその通りで、相当ろくでもない事を考えている。
ただ、以前はそうでなかったのだ。
むしろ国家人民のために、文字通り身を粉にするほど働いていた。
そう、巫祓千手というブラックな環境で。
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ユキこと白峰雪菜は死にかけていた。
正確には三十秒前まで死にかけていた。今はもう大丈夫である。霊力の回復とともに内臓の裂傷が塞がり始め、折れた肋骨が軋みながら元の位置へ戻ろうとしている。痛みは脳を灼く激痛から鈍い疼痛へと格下げされた。あと一時間もすれば歩けるようになるだろう。
この恐るべき治癒力には、文字通り種も仕掛けもある。
とれはともかく、今回の任務は関東圏でも相当に危険度の高い怨霊の討伐だった。死者四名。重傷者十一名。警察と消防が手を引いた後、巫祓千手に依頼が回ってきたのだ。現場は埼玉県北部の廃工場。かつて労働争議の末に経営者一家が惨殺された因縁の地であり、四十年の歳月が怨念を醸成し、多数の錆びかけた重機が血に飢えた獣と化して周辺住民を殺しまくるというもう滅茶苦茶な状況だった。
雪菜は単独で現場に入った。本来ならば他の祓い手との連携で討伐に当たるべき案件だったが、人手が足りなかった。まあそもそも人手に余裕があるなんて事はまずないのだが。
結果として雪菜は骨はぐしゃぐしゃ、肉もぐちゃぐちゃ、常人なら千回は死んでいる様な有様になってしまったものの、この呪われた廃工場を浄化せしめる事に成功した。
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だが、雪菜の功績に対し座主は頷き──
「ご苦労だった。国家鎮護の任、見事に果たしてくれた」
と、それだけを言うのみだった。
任務は達成して当然、声かけ一つで終了──そんな扱いに、胸に冷たい澱が溜まっていく。
労いの言葉。それ自体は有難い。だがそれだけなのだ。特別手当もない。休暇の配慮もない。せめて怪我の具合を気遣う言葉があってもよいのではないか。巫女の肉体が常人と異なることは事実だが、痛いものは痛いのである。
しかもこんな扱いは一度や二度ではない。
──私は何のために戦っているのか。
国家鎮護。民の安寧。巫女として生まれた者の責務。尊い使命。幼い頃からそう教えられてきた。そしてそれは事実だろう。彼女が祓わなければ、あの廃工場の怨霊は周辺住民を殺し続けていた。
彼女の仕事には意味があるし、価値があるのだ。
だが、と雪菜は思う。
その価値を一体誰が証明してくれるのか。
価値があってもそれを正当に讃えてくれる者がいなければ、そんなものは無価値と同義ではないか。
衣食住は保証されている。医療も教育も与えられている。だがそれは当然のことではないか。命を懸けて働く者に衣食住を与えるのは組織の最低限の義務だ。家畜にだって餌は与えるのだ。
雪菜はそれ以上のものが欲しかった。
誇り。名誉。使命感──座主は常に口にする、そんな空虚なものではなく、もっと実のあるものが欲しかった。
──このままここで私という存在がすり減らされるのであれば。
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三日後、白峰雪菜は巫祓千手から姿を消した。
自宅から私物はすべて持ち出され、痕跡は何一つ残っていなかった。監視の目を掻い潜り、結界を無効化し、追跡術式を欺いて消えたのだ。
当然ながら巫祓千手は激昂した。
座主は直ちに追跡を命じた。東の巫女の離反は組織にとって重大な損失である。彼女の霊力、彼女の技術、彼女の知識。それらが外部に流出すれば、巫祓千手の機密が漏洩しかねない。そして何より、巫女の離反という前例を作ることは許されなかった。一人が逃げて許されるならば、次の一人も逃げる。そしてその次も。組織の規律は一度崩れれば坂道を転がり落ちるように瓦解していくだろう。
追っ手として選ばれたのは、焔邑 緋美子という女だった。
無論ただの女ではない。
西の巫女である。
よく言えば妖艶な、悪く言えばビッチめいた黒髪長髪の女で、霊力を炎に変換する危険な女である。組織に忠実であり、戦闘能力は折り紙付きと来ている。
有象無象を追っ手に差し向けても返り討ちにあうだけで、能力的な相性も鑑みて、この人選は正しい。
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緋美子は任務を受けた時、僅かに眉を顰めた。雪菜とは同期だった。同じ時期に巫女としての修行を始め、同じ苦しみを分かち合い、時には愚痴を言い合う仲だった。だが任務は任務である。
緋美子は個人的な感情を押し殺し、追跡を開始し──あっさりと雪菜の居場所を捕捉した。まあこの辺は霊能云々の話ではなく、全国に配置されている監視カメラだとかドローンだとか、そういう科学技術の力である。
而して栃木県北部の山中で二人は相対し──。
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「あなたを殺すか、連れ戻せと言われているわ」
「私はもう戻らない。戻りたくない。見逃して──くれないわよね」
「ええ、そうね」
「私を殺すの? 私たちは親友だったはずだけど」
「そうね、親友よ。だから私が来たの」
緋美子の声は平坦だった。友人を殺すという事実を彼女は既に受け入れていた。
任務だから。
組織のためだから。
国家鎮護のためだから。
雪菜はその姿を見て、深く息を吐いた。
「あなたは幸せなのね、緋美子。何も疑わずに生きていられるのだから」
「幸せよ。巫女として生まれ、巫女として死ぬ。それが私の人生の意味。あなたにはそれが分からなかったのね」
「分からなかったわ。最後まで」
雪菜は冷気を纏った。彼女の霊力は大気中の熱を奪い、周囲の温度を急激に下げる。草木が凍り付き、地面に霜が降りた。
緋美子は炎を呼んだ。彼女の霊力は熱を生み出し、周囲を灼熱に変える。凍り付いた草木が蒸発し、白い蒸気が立ち上った。
この夜、火と氷──相反する力を持つ二人の巫女が殺し合った。
そして、それから一週間後。
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野獣組という、まあ言ってみれば霊能ヤクザのような連中がいた。
悪霊地上げ、呪殺、霊的恐喝、霊的詐欺。彼らは霊能を犯罪に利用し、金を稼いでいた。巫祓千手が「霊的指定暴力団」として監視対象に指定している組織の一つであり、構成員は左道密教の修行者、中国系の呪術師、巫祓千手からの離反者など多様だった。
雪菜はその野獣組に接触していた。
彼女の目的は単純だった。自身の霊能を金に換えられる、そして“社会”から隠れられる場所が必要だったのだ。
野獣組はといえば嬉々として彼女を受け入れた。元巫祓千手の巫女という肩書きは、組織にとって大きな価値があった。彼女の知識、彼女の技術、彼女の人脈。それらは組織の力を大きく増強するものだったからだ。
雪菜は野獣組の中で頭角を現し──三年後、雪菜は野獣組の組長になっていた。
前組長は病死した。
まあ、表向きは。
これは言うまでもなく地位の簒奪である。しかし組員たちは意外にも反発しなかった。というのも──。
「力には対価を」
それが雪菜の掲げた旗印だったからだ。
霊能を持つ者たちは搾取されてきた。巫祓千手のような組織に使い潰されてきた。国家鎮護だの民の安寧だのという美辞麗句で飾り立てられた無償労働を強いられてきた。雪菜はその構造を憎んでいた。だからこそ、野獣組を違う形に変えた。
構成員には相応の報酬を与えた。居場所を与えた。承認を与えた。巫祓千手が決して与えなかったものを、雪菜は惜しみなく分配した。
構成員たちは雪菜のために働き、雪菜のために戦い、雪菜のために死ぬことを厭わなかった。
かくして組織は拡大した。
収益も増加した。巫祓千手の監視網を掻い潜り、警察の捜査を躱し、野獣組は日本最大の霊的犯罪組織へと成長していった。
それから十年。
白峰雪菜は今も野獣組の組長として君臨している。
だが彼女はこのまま一暴力団のトップで終わるつもりはなかった。
より多くの金を、そして力を集めれば、あるいは国政へ打って出るという選択肢も出るだろうと考えている。真心の泉もその集金ツールの一つに過ぎない。
──例えば、この国を合法的に乗っ取る事ができれば
雪菜は、いや、ユキはそんなことをたびたび夢想する。
まあ、見果てぬ夢といえばそうかもしれないが。




