義理姉
家に帰ってリビングに入ると義理の姉、舞香が麦茶を飲んでいた。暑いのか、もう半袖とショートパンツを着ている。そんなに暑いかなと、不思議だった。舞香が暑がりだということは知っているが、これほどだったっけ。
舞香がこちらに気が付くと、視線を寄越して軽く言った。
「あ、おかえり」
「ただいま。そんなに暑いの?」
「暑い。まだ夏じゃないっていうのに、なんなの、この暑さ。去年よりか暑くない? ていうか毎年毎年暑くなっていない?」
「温暖化が悪いんだよ」
「温暖化め。許すまじ」
若干声を低くして呟く姉に、暑がりのくせに熱中症になっていないのが不思議だな、と思う。姉は在宅ワークなので、そこが救いになっているのかもしれない。だが、今年こそ、熱中症で倒れてしまうだろうか。
「あ、麦茶いる?」
「もらおうかな」
はいよー、と舞香が応える。乾燥機からコップを取り出して、その中に麦茶を入れていく。
注ぎ終わると、コップを差し出してくれた。礼を言ってからそれを受け取って、一口飲む。
「なんかお茶菓子あったっけ?」
「蕗子さんがクッキーを買ってきてくれていたよ。たしか棚にあった」
「やった」
舞香が菓子類が仕舞っている棚へ向かう。蕗子は、久留島家で雇っている家政婦だ。御年五十四歳。今日は有給を取っているので、家にいない。
「あった! さすが蕗子さん。シャンデールのクッキーを買ってきてくれている!」
「姉さん、そこのクッキー好きだね」
「アンタも嫌いじゃないでしょ。あ、久しぶりに一緒におやつタイムする?」
「いいね。お湯を湧かしておくよ」
「ありがとね」
ヤカンに水を溜めて、電気を点ける。昔はガスだったが、蕗子さんのことを考えて、袖に燃え移らないIHにしたのだ。
「姉さんは紅茶にする? コーヒーにする?」
「アンタはコーヒーじゃなくていいの?」
「姉さんこそ、ブラックじゃなくて大丈夫かい?」
いつもは紅茶を飲んでいる舞香だが、徹夜しないと締め切りが間に合わないときは、ブラックコーヒーを飲むのだ。
「締め切り間近じゃないから大丈夫。アンタは?」
「姉さんが紅茶を飲むのなら紅茶にするし、コーヒーにするんならコーヒーにするよ」
「アンタ、コーヒー淹れられないもんね」
久留島家にはコーヒーメーカーはあるが、インスタントコーヒーはない。値段が高いコーヒーメーカーは機能が充実しているが、家族だと姉と父以外、それを使いこなすことが出来ないのだ。ちなみに蕗子さんは使いこなしている。
「今度蕗子さんに頼んで、インスタントを買ってきてもらおうかしら」
「インスタントって美味しい?」
「人によれば、メーカーにもよる。違いの分からない人はいいけれど、違いが分かる人には物足りないかもね」
「僕は違いが分かる人間だからなぁ」
「まず飲んでから言え」
一刀両断され、肩をすくめる。
「紅茶はアタシが淹れるから、座ってなさい」
「はいはい」
紅茶もティーパックではなくて、茶葉だ。以前、淹れてみたら思いのほか渋くなり、姉が顔を顰めたのは記憶に新しい。
素直にソファーに座り、机の上に置いてあったファッション雑誌を捲る。おそらく、リビングで休憩しようとした姉が持ってきたのだろう。
「類ー」
「なに?」
「アンタ、なんか良いことあった?」
雑誌から目を離し、キッチンに立っている姉を見やる。
「いきなりなに?」
「なんとなく、いつもより上機嫌かなと思って」
「上機嫌かぁ……」
考えてみる。確かにいつもよりかは心が軽い。姉から見て、自分が上機嫌なのは間違いないだろう。
なにか良いこと。良いことなのかは分からないが、一つだけ心当たりがあった。
「良いことじゃなくて、悲しいことはあったかな」
「悲しいこと?」
「小学生の頃の同級生のことなんだけど、僕は忘れていなかったのに、相手が僕のことを忘れていたんだ。記憶喪失みたいなんだけど、仕方ないとはいえ面白くないよ」
舞香が目を丸くして、久留島類を凝視する。
「アンタが忘れていなかった? 珍しいこともあるのね」
「僕だって同級生のことくらい覚えているよ」
「今の同級生のことでしょう、それ。昔の同級生のことを覚えているなんて、人に興味がなくて、しばらく接してこなかったら忘れているアンタが珍しい」
言われてみれば確かに、小学生の同級生で覚えているのは彼くらいだ。何年か同じクラスになった子だっている。その子の仕出かしたことは覚えているのに、名前は覚えていない。
そういえば、姉のことを覚えるのもまあまあ時間掛かっていたような気がする。
「それは最後が最後だから、ね」
小さく呟く。
最後がああでなければ、覚えてはなかっただろう。あんな顔を見なければ。
呟きを聞き取れなかった舞香が、疑問を投げつける。
「悲しいのに、なんで上機嫌なのよ。ていうか記憶喪失ってなに?」
「記憶喪失が後なんだ」
「当然でしょ。アンタが小学生の頃の同級生を覚えているなんて、驚きだわ」
「そんなに?」
「そんなによ」
強い口調で言い張る舞香に、そんなにかぁ、と口の中で呟く。たしかに珍しいかもしれないが、それほどとは失礼である。
「記憶喪失っていうのはね、記憶を失うことで」
「おい」
「冗談だよ」
舞香が怒気を孕んだ声で、叱咤した。肩をすくめながら、答える。
「車に撥ねられて頭を打ったんだって。そのせいでそれまでの記憶がなくなったって言っていたよ」
「へぇ。大変だったのね」
「大変?」
「だって、親すら知らない人になっちゃったってことでしょう? それって本当の独りぼっちじゃない。かわいそうに」
舞香が嘆息する。本当に同情をしているらしい。
(本当の独りぼっち、か)
舞香の言うとおりかもしれない。彼は人見知りする性格なのは、見ていて分かる。きっと、当初は親と名乗る人物ですら人見知りを発揮していたのだろう。
(僕なら平気そうだけど、咲夜くんはそうでもなかったんだろうな)
そんなことを気にしても、もう昔のことだし、彼の過去はどうでもいいことだ。
「それで? 忘れられて悲しいのに、どうして上機嫌なの?」
「そうだなぁ」
少し思案して、口の端を吊り上げた。
「彼、頭痛持ちみたいでね」
「へぇ。それが?」
「その頭痛の原因が僕みたいなんだ」
舞香が目を点にした。
「…………ん? なんで?」
「彼の失った記憶を僕が刺激しているようで、僕と話しているとすごい頭痛がするみたいなんだ」
思えば、再会した頃から彼はよくこめかみを押さえている仕草をしていた。あれが記憶に関する頭痛によるものだとしたら。
胸をすくものがあるというものだ。
「だから、それが気分良いなって」
「えぇ……なんでそれが気分が良いわけ?」
「えー。だって、僕を完全に忘れていないうえに、頭痛のせいで原因である僕を意識ざるをおえないんだよ? 愉快じゃないか」
恍惚に笑む弟に、姉は冷たいのやら呆れているのやら引いているのやら、それらを混ざり合ったような視線を送った。
「アンタってほんと性格悪っ」
「今更じゃないか」
久留島類は肩をすくめる。性格がよろしくないのは、自他共に認められているので今更だ。この性格の悪さは姉もよく分かっているはずだ。
「ていうか、アンタ、それって……………………うん。いいわ」
「すごい間。むしろ気になる」
「いや、これは自分で気付くべきものよ。多分」
盛大に溜息をつく姉に、久留島類は首を傾げる。疲れるのは分かるが、どうして呆れたような顔をしているのだろう。
そのとき、お湯が沸いた音がした。
「あーもう。この話題は置いといて。アイスがいい? ホットがいい?」
「ホットで」
「はいはい」
姉が紅茶の茶葉を用意している最中、久留島類はニヤニヤしながら考える。
月曜日、どんな風に彼に話しかけよう。朝一番に話しかけたら、きっとすごく嫌な顔をするはずだ。頭痛とか関係なく、皆の前で話しかけるのは嫌のようだ。自分の取り巻きのことを気にしているのだろう。
そんな顔を見たいと思う自分は、本当に捻くれている。
(楽しみだなぁ。月曜日)
いつもなら面倒くさい月曜日が、とても待ち遠しかった。




