図書館で彼と③
「はぁ?」
彼が怪訝そうに声を上げた。そして、やや上目遣いで自分を見る。
「……あのさ、訊きたいことがあるんだけど」
心の中でムッとする。
「訊いているの僕なんだけど」
「必要だから訊いているんだよ。同じ小学校に通っていたって言っていたけど、その小学校って明森小学校か?」
彼の眉がぴくっと動いた。
「そうだよ。もしかして、転校した小学校のことだと思っていた?」
「うん」
即答だった。
すると、彼が難しそうな顔をして視線を逸らした。悩んでいるのか、小さく唸っている。どうして悩んでいるのだろうか。
彼は視線を泳がせながら、罰が悪そうに告げた。
「だったら、ごめん。オレ、明森に通っていた頃の記憶がないんだ」
その言葉に愕然とした。
「記憶が、ない……?」
あまりにも信じられない言葉に、思わず口に出した。
きっと声色で判断したのだろう。彼がさらに言い続けた。
「車に撥ねられて頭を打ったんだ。そのせいで、三年生の途中までの記憶がない。だから、お前のことは覚えていない。医者の診断書もある。疑うんなら見せてやるけど」
「ああ、うん。そこまでしなくてもいいよ」
困惑している頭を抑えて、なんとかそう返した。
記憶喪失。たしかにそれが本当だったら、彼の態度にも辻褄が合う。医者の診断書があるのなら、納得するしかない。
(ほんとうに、覚えていなかったんだ)
あの日のことも、あの言葉も、全部。
箸で古傷を抉られたような、鈍い痛みが襲った。
「……?」
なんで、心が痛むのだろう。忘れてくれたほうが面倒がなくていいはずなのに。
(あの時と、同じだ)
彼が転校したと聞かされた時の喪失感とは違うが、彼がもたらした不可解な感情と同じであることは変わりない。漠然と、同じ感情から感じ取っているような気がした。
(もしかして……悲しいのかな?)
彼に忘れられて、悲しい。でも、どうして、なんで。
疑問を振り払い、気を取り直して彼に訊ねてみた。
「もしかして、転校したのって事故のせい?」
「ああ。明森にそのまま通って、記憶を取り戻していく話はあったけど、明森を見ると頭痛が酷くなって倒れるから、転校することになったんだ。ていうか、説明なかったのか?」
「同じクラスじゃなかったから、先生がどんな説明をしたのか具体的には知らないよ。僕も君と同じクラスの子に、咲夜くんなら引っ越ししたよ、としか教えてもらえなかったし。事故のことは知らなかったなぁ」
あの時は、親の離婚、はたまた親の転勤かな、と思っていた。まさか記憶喪失になったから、という理由だったとは予想外だった。
「なんだ。同じクラスじゃなかったのか。なんで、オレのことを知っていたんだ?」
口を噤む。
言うべきか言わざるべきか。答えは圧倒的に後者だろう。
言わないほうが平和なのだから。
笑顔の仮面を張り付けて、当たり障りのない返答をした。
「とくに接点はなかったよ。咲夜くんが引っ越す前に、少しだけ二人でお話したくらいかな」
「……それだけか?」
「うん、それだけ」
案の定、彼は疑わしい目で自分を見据えた。
だが、それは本当のことだ。あの時、二人で話すまでは彼のことを知らなかったのだから。ああ、Ωの子がいるなぁ、と思った程度だ。
接点はあの時だけだ。嘘はついていない。
彼が興味を無くしたのか、小さく溜息をついた。
「じゃ、友達じゃなかったんだな」
「そうだね。むしろ君に友達はいなかったんじゃないかな。今と変わらずね」
彼に軽く睨まれる。
「なんか嫌な言い方だな」
「勘違いしないでおくれよ。転校したあとの空気を察するに、少なくてもクラスの中心ではなかったってことだよ」
彼は眉間に皺を寄せる。
「ならそう言えよ。ま、友達がいなかったらそれで良かったけど」
「いいんだ」
「仲良かった奴に自分のことを忘れられたら、ショックだろ」
「僕、けっこうショックを受けたんだけど」
「そうは見えない」
「ひどいなぁ」
たしかにとても驚いたが、ショックはそれほど受けていない。ただ、悲しいだけだ。どうして悲しいのか、分からないけれど。
彼の顔が苦痛に歪む。そういえば、さっきから片手でこめかみを押さえているな、と気付いた。
「さっきからこめかみを押さえているけど、もしかして頭が痛いの?」
「ああ……論文の読み過ぎみたいだ」
彼の前に置かれた論文雑誌を一瞥する。たしかにこの量を英和辞書片手で読むのは、無理していると思う。
(論文の読み過ぎ、ね。はたして本当にそれだけかな)
心の中でほくそ笑んだ。
「ごめん、休みたいからそろそろ」
「じゃあ、この辺りで切り上げようか。僕もそろそろ出ようと思っていたし」
本は読まなかったが、それ以上の収穫があった。満足したから、本はいい。
席から立ち上がって、彼に向かって微笑んでみせた。今までの中で一番自然に近い笑みだった。
「じゃあ、また月曜日ね」
そう言い残し、本を戻すため哲学書の本棚へ戻った。
笑みは消えないままだった。




