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板前の居る急行  作者: ウチダ勝晃


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伝播する噂

 不幸なことに、真樹の心配は見事に的中してしまった。だが、ひとつだけ間違っていたのは、噂の拡散に一役買ったのは個人の発信――SNSではなく、昔ながらのマスメディアであった。

 どこかの誰かが自身の体験を、地元のFM局へ投稿したものが思いがけず読まれ、それが呼び水になって大量の投稿がハガキ、メール、FAXとなって殺到したのである。傘岡の街は数日のうちにすっかり恐慌状態に陥っていた。

「――弱ったことになりましたね、これは」

「新司の口からも例の話が出たのには参りました。ほら、中学生は技術家庭科でやるでしょう、電子工作……。あれで作ったラジオ、案外使う子が多いらしいんです。下手すりゃそのうち、通学で電車に乗る中高生からも体験談が出るかもしれませんよ」

 坂東医院の二階で相談を受けてから、すでに二週間が経とうとしていた。夕方、往診の帰りに「真珠堂」を訪ねた坂東医師は、真樹啓介ともども、恐怖の広まり具合の早さにすっかり参ってしまっていた。

「ネタ切れだからって、何もこんなものを扱うことはないだろうっ。FMかさおかに文句を言ってやらなきゃあ……」

「およしなさい真樹さん、さすがにそれは見当違いですよ。やるべきは、Sのような被害者を出さないことです。とうとう、参ってしまって療養に入りましたからね」

「……いったい、あと何人そういう人が出るんだろうなあ」

 真樹のつぶやきへの良い返事も見当たらず、坂東医師はキャメルを手に持ったまま、じっと虚空を睨んでいる。と、

「兄ぃ、いるー?」

 にっちもさっちもいかない、煮詰まった空気を破るように現れたのは、真樹の甥の新司だった。一人きりと思っていたところに見知った坂東医師の姿を認めると、新司はちょっと照れくさそうにこんにちは……と頭を下げた。

「いま、帰り道かい?」

「はい、そんなとこです。――それより坂東先生、ご存じですか、例の噂……」

 タイムリーすぎる話題にいささか辟易しながらも、坂東医師はもちろん、と答える。

「ちょうど今、その話をしていたところなんだよ。そうでしょ、真樹さん」

 流しのほうへ向かい、人数分の麦茶を用意していた真樹へ坂東医師が声をかける。

「――夢そのものより、心理的恐慌状態が街全体に与える影響の方が気がかりだよ、オレは」

 気の早い蒸し暑さに負けて作った、安物の水出し麦茶を用意してやりながら、真樹は背中越しに甥の話へ応じる。

「まあたしかに、たまったもんじゃないよなあ。いくら夢でもおっかないよ、白髪頭のじいさんが寿司握ってるのに遭遇したら――」

「――えっ?」

 新司の言葉に、離れていた二人がそろって驚愕の声を上げる。たしか問題の夢に出てくる板前は、若い男だったはずではないか――。

「新司くん、それ、本当かい? 僕たちが聞いた話じゃ、出てくるのは若い板前だっていうんだがね……」

「ええっ、そんな馬鹿な。学校で聞いた時から、ずっとじいさんで通ってますよ」

 訳も分からずきょとんとした表情で坂東医師を見つめる新司に、舞い戻った真樹はコップを置きながら、あふれ出る好奇心を隠せぬ、といった目をのぞかせていた。

「どうやら問題の板前は、都市伝説として本格的に進化を始めたらしい。民間伝承ってやつは元来、こうやってどんどん形が変わってゆくもんなんです。もっとも、ちょっとばかりその速度が速すぎるような気もしますが……」

「新司くん、板前がおじいさんだ、って言いだしたのは誰なんだい?」

 灰皿の中でキャメルをもみ消しながら、坂東医師は新司へ事情を尋ねる。

「言い出しっぺは三年にいる鉄オタの先輩らしいんですけどね。休みに乗った、渟足からこっちへの『はくせつ』の中で見たのが、今話題になってる夢だったっていうんで驚いたらしくて。今じゃすっかり、校内の注目の的ですよ」

「――真樹さん、どう思います。乗った人の実体験でこれだとすれば、ちょっと事情が変わってきませんか。夢が進化している……僕にはそういう風にしか見えないのですがね」

「僕も同じことを考えていました。やっぱりこれは、ちょっと込み入っているらしい……」

 麦茶で喉を潤す坂東医師を横目に、真樹啓介は腕を組んでしばらく考え込んでいた。不気味な沈黙が、「真珠堂」の店内に横たわる。

「ええい、しょうがないっ! それしかないっ!」

 いきなり、前触れなく真樹が大きな声を上げたので、麦茶を含んでいた二人はひどくむせかえってしまった。

「なんです真樹さん、藪から棒に……」

「すいません、つい……」

 ハンカチで口元を拭う坂東医師へ、真樹は襟足を掻いて非礼を詫びる。

「で、いったい何なのさ、それしかないっていうのは……なんか思いついたんでしょ?」

「さすが新司、お前近頃オレのことがよくわかって来たらしいな」

 軽い目くばせを返すと、真樹はある作戦を二人へと打ち明けた。真樹の思いついた作戦というのは、渟足から出る「はくせつ」へ乗り込んで、実際に夢を見てしまおう、という実に単純明快なものだった。

「こいつは盲点でしたね真樹さん。僕もついつい、経験した人の方にばかり目が行って忘れていましたよ。この目できちんと、確かめてやればよかったんだ」

 だが、眼鏡を拭きながら真樹の妙案をほめたたえる坂東医師に対し、新司の反応は鈍かった。

「でもさあ、それで肝心の夢を見なかったらどうしようもないじゃない。切符だって安かないんだし……」

 甥の不信に、お前の分を出すぐらいのゼニはあるよ、と真樹は皮肉交じりに応じる。

「まあ、空ぶったら空ぶったで、終点の金沢で観光をして帰りゃいいんだよ。いつまでも机上の空論であれこれやってるより、この方がよっぽどいい。保険をかけて、睡眠導入剤でも飲んでおけばイチコロさ」

「い、イチコロって……」

 乱暴な口ぶりに新司はのけぞり、坂東医師も、医者としては聞き捨てなりませんな、と目を光らせる。

「まあしかし、そうでもしなければ難しいのは事実です。出発はいつにしましょう? 及ばずながら、僕も協力しますよ」

 そこから先は、出発の日程、滞在先の旅館選びでゆっくり、有意義に時間が流れていった。三人分の切符と宿が取れ、出発の日取りや滞在日数が決まったのは、その翌日のことであった――。


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