急行列車の名は「ちどり」
「うわっ、なんだこれ……」
「おいこら、商品なんだぞ! あっち行けっ」
飼い犬を払うような手つきで甥っ子・羽佐間新司を遠ざけると、真樹啓介は平積みにした古雑誌を手に取り、軽く手帚をかけた。ゴールデンウイークもとうに明け、そろそろ半袖にしても苦にはならない陽気の午後、古書店「真珠堂」の軒先での一幕である。
「兄ぃも兄ぃだよ、こんなところに商売ものを積んどかなくたっていいじゃないか」
「お前みたいな闖入者がいるとはつゆにも思わなかったんだよっ。――あいにく今日は忙しいんだ。小遣いやるからさっさと帰れ」
「ひでえなあ、せっかくお土産持ってきたのにぃ」
「――えっ?」
学校帰りで詰襟姿の新司の背後から、いかにも観光土産というよそおいの紙袋が躍り出す。中から出てきたのは真樹の好物、松前漬けの大きな瓶詰だった。
「連休で旅行に行くって言ってなかったっけ? ちょいちょいお邪魔してるんだから、お土産持ってけ、って父さんに言われてさ」
「ああ、そういえば……」
世間のやかましいのを嫌って寝正月ならぬ寝連休を決め込んでいた真樹は、今さながらその話を思い出した。ひとまず、義兄のはからいの品をうやうやしく受け取ると、真樹は態度を改め、平積みの本を片付けて新司を茶の間へと上げた。
「それより兄ぃ、さっきの本ってみんな鉄道雑誌だよね? いつ頃のやつ?」
「――ざっと、半世紀前のやつだな。鉄道マニアだった身内の遺品整理っていうんで、バンで引き取りに出たんだ。見たところ状態は悪くないが、いちおう虫干しの支度はしようと思ってさ」
朝に作った水出しの緑茶をグラスへ入れて出すと、真樹は戸棚をあさり、菓子器へざらめ煎餅を数枚、袋から乱暴に振り入れた。
「へーえ、食堂車特集……。見たことないや、食堂車って」
しばらく無言で煎餅をかじっていた新司が、手近にあった一冊の表紙を見て呟く。その一言に真樹は、唇からそっとグラスを離す。
「そっか、お前はそもそも、そんなものはないのが当たり前の世代だっけ」
「ってことは兄ぃ、食堂車に入ったことあるんだ」
「二、三度、傘岡から大阪まで行く寝台列車のでな。まあ、あまり金もなかったから、そんなに高いもんは食ってないけど……。今でもたまーにクルーズ列車についてるのがあるけど、ありゃあそもそもの運賃からしてケタが違いすぎる。気楽に入れるもんじゃあないからなあ」
最寄り駅にも出入りがあった往時の寝台特急のことを思い浮かべながら、真樹はくだんの特集号を手にし、ぱらぱらと紙面をめくった。と、
「――へえ、こいつは面白い。わざわざ板前まで集めたのかな、これは」
「なんか載ってるの?」
後ろへ回って覗き込む新司に、真樹はあるページを開いてみせる。そこには「懐かしの急行『ちどり』寿司カウンターの思い出」というレタリングの見出しがざらざらとした質の紙へ刷り込まれている。見れば確かに、モノクロながらも小さな立ち食いのカウンターと、板前帽子をかぶった若い職人の立ち姿が写っている。
「――ビュッフェスタイルの寿司食堂車か。ほんとにあったんだな、これ。えーっと、急行の『ちどり』は……いまの『はくせつ』じゃなかったかな」
すぐそばの在来線を走る特急の前身を思い出しながら、真樹は遠い時代に思いをはせる。
「なるほど、西洋料理よりは庶民的な食べ物だから、っていうんで決めたのか。まあでも、チョイスとしては間違っちゃいないな」
「電車の中で寿司かあ……豪華だなぁ」
写真を眺める新司に、真樹も頷きながらページに目をくれる。見れば紙面には、小さな立ち食いのカウンターと、板前帽子をかぶった若い職人の立ち姿が刷りこまれている。
「――ははあ、板前不足でなくなったのか。そりゃそうだ、今みたいに器用なロボットが握る回転ずしもないんだから……。今なんかもっと貴重だもんな、寿司を握れる職人は」
廃止の原因になった、板前の定数不足に関する記事を読み終えると、真樹はそっとページを閉じて、ふたたび本を虫干しの行列へと戻した。
――時代のなせる業だったんだろうなあ。きっと、普通の店の方が条件もよかったんだろうな。
今と違ってどの町内にも小さな寿司屋があった時代なら、技術を持った板前は引く手あまただったのだろう。そんな時代がかつてはあった――そんな遠い昔に思いをはせながら、真樹啓介はそっと、紙面の埃を手帚で払うのだった。
ひとまとまりで状態も良かったことからか、例の記事が載った鉄道雑誌の山は、ほどなく買い手がついて真樹の手を離れていった。商売柄、そうしたことが日常茶飯事の真樹は、いつしかその本のことも、食堂車のこともすっかり忘れてしまっていた。
そんな真樹の元へ思いがけず、例の板前のいる食堂車の話が舞い戻ったのは、そろそろ梅雨の足音も聞こえてきそうな、ある金曜日の晩だった。
年上の友人、開業医の坂東医師と時々集まっては大いに飲み明かすのが楽しみの真樹は、その日も行き付けの個室居酒屋で、刺身の盛り合わせを前にあれやこれやと雑多な会話を繰り広げていた。
日替わりで魚が変わる盛り合わせのネタを見て、これならお寿司にしてもいいでしょうね、と呟いた坂東医師の言葉に、真樹はふと、いつかの記事のことを思い出したのである。
「たしかにこいつは寿司にした方がいいでしょうねえ。どうせなら、昔の食堂車みたいに、列車の窓を見ながら食うのがいいかもしれない……」
そこまで言ってから、真樹は無意識に連想したことを口走っていたのに気づき顔を赤らめた。思っていることがつい、そのまま口へ出てしまうのが真樹の悪い癖であった。
だが、坂東医師はそんな真樹を咎めるでもなく、そんなものがあったのですか、とロイド眼鏡を直しながら尋ねてきた。自分の悪癖を詫びながら、せんに記事で読んだ話をしてみせると、坂東医師は真樹の雑多な知識にすっかり感心しきっていた。
「むかし、学会で九州に行ったことがあるんですがね。向こうにあったお寿司屋さんの大将が、東海道の食堂車で板前をしてたとか言ってましたね。何か特別なサービスだと思っていたんですが、まさか一般向けでそんなことをしていたとは思わなかったなあ」
灰皿に置きっぱなしになっていた外国煙草のキャメルを引き上げると、坂東医師はライターの火をあてがい、二、三度穂先から紫煙をふきあげる。その向こう側で真樹は、手の熱ですっかり温くなった冷や酒をグイと飲み干す。
「いやあ、僕もたまたま読んだだけで、あまり偉そうなことは言えません。――たしか、東海道線でそれをやってたのは『なにわ』とかいう急行だったはずです。新幹線が出来てからも、しばらくはゆっくり行く在来線に需要があったそうですから、いいサービスにはなったんでしょう」
「まったく、その姿勢を今のJRも見習ってほしいものですね。ほら、今は車内販売もないでしょう。この前久々に『はくせつ』に乗ったら、駅弁も飲み物も売りに来なくて驚きましたよ。おかげで渟足につくまで、のどがカラカラで困りました」
「みんな事前に、コンビニで買えば事足りる時代ですもんね。土地ごとの小さな店屋が、この数年でずいぶん減りましたからね……」
客商売は大変だろうなあ、と呟きながら、真樹は坂東医師の手元へそっと冷酒を注ぎ入れる。側面に穴のある、氷を入れるスペースのついたガラス徳利は、結露もとれてすっかり温くなっている。口直しにもう一合頼むことにすると、それを待つ間に二人はまた、他愛もない世間話へと花を咲かせるのだった。




