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第25話:『置いていかれた財布と、怒れるレギュラー』


その日の朝、潜木忠敬は寝坊した。




目覚ましは鳴った。

止めた記憶もある。


問題はその後だった。


気が付けば講義開始まで残り三十分。

大学まではギリギリ間に合う。



ギリギリだが。



「……終わった」


終わってはいない。

だが気分の問題だった。





このまま二度寝しろと脳内の悪魔は囁いた。

二秒もせずに同意し、目を閉じようとした瞬間。


思い出した。





長谷部教授のレポート提出〆切、今日まで。



忠敬は飛び起きた。


顔を洗う。

歯を磨く。

着替える。


なにより大事なレポートを鞄へ突っ込む。


スマホ。

鍵。

イヤホン。


よし。


家を飛び出した。


そして机の上には財布が残された。







静寂。


数秒。


財布小人は瞬きをした。


もう一度した。


周囲を見回した。



机。

教科書。

ペン。

財布。





財布。


財布だけ。






『……は?』


再び周囲を見る。


状況は変わらない。






『は?』


理解した。





『置いてかれた』






沈黙。


『置いてかれた』





さらに沈黙。


『置いてかれた』





そして。





『ふざけんな』


財布小人は立ち上がった。







『ふざけんな!!!!』


机の上にいたカード小人たちが飛び上がる。


『起きた』

『再起動』

『怒った』

『怒ったな』

『今日は本気だ』




財布小人はじっと見ていた時計小人を指差した。

『俺なんだと思ってる』



『財布』


『財布だな』

『財布だ』




『そう財布だ』



財布小人はさらに怒った。




『主力だぞ!!!!』

『まあそう』


『レギュラーだぞ!!!!』

『それもそう』


『毎日一緒だぞ!!!!』

『それはそう』


『『『それはそう』』』




財布小人は頭を抱えた。

『なんで置いてく』


誰も答えられない。




それは忠敬にしか分からない。






その頃。


大学。

講義開始十分前。


なんとか間に合った忠敬は、のどの渇きに自販機の前にいた。




財布を出そうとして。


止まる。


ポケットを探る。


反対側も探る。


鞄を開ける。





沈黙。




「……あ」

終わった。


今度は少し本当に終わった。



机の上の光景が脳裏に浮かぶ。


財布。

置きっぱなし。




そして。


(怒ってるな)

真っ先に浮かんだ感想がそれだった。






隣にいた学生が振り返る。

「どうした?」



「財布忘れた」




その瞬間。


学生のスマホ小人が吹き出した。

『忘れた』


別の学生の財布小人も呆れる。

『主力を?』


学生証小人が首を振る。

『それは怒られる』


『怒られるな』

『これは怒る』

『絶対怒ってる』


忠敬は遠い目をした。




(怒ってるな)

間違いない。





「あー」

学生も苦笑した。



「マジで?」

「マジで」

「じゃあ昼どうすんの?」

「水で耐える」


「耐えるな」

即座に否定された。


「いや俺出します」

別の学生が割り込んできた。


『おっ』

スマホ小人が身を乗り出す。


「待て俺が出す」


『始まった』


「いや俺」


『始まったな』


『人間って変』

『変だな』



忠敬は眉をひそめた。

「なんで」


「なんでって」

「飯代くらい出しますよ」

「そうそう」

「世話になってるし」




「は?」

忠敬には意味が分からなかった。





だが周囲には周囲の理屈があるらしい。






数十秒後。

なぜか三人でジャンケンが始まった。



『何の勝負?』

『飯代』

『何で?』

『知らん』

『急』

『知らんな』



「「「「最初はグー!」」」」

「いや待て」


「「待たない」」

「なんで」



『盛り上がってる』

『意味分からん』

『本人困惑』


忠敬は本当に困惑していた。


「なんで」


『それな』

『それな』

『それな』


小人たちまで同意した。




結果。


一人の学生が勝利した。

「よし!」


その学生の財布小人が胸を張る。

『勝った』



『おめでとう』

『本日の昼食担当』

『名誉職』

『重い』

『重いな』




忠敬は最後まで意味が分からなかった。









家。

財布小人はまだ怒っていた。





『昼だぞ』


『昼だな』

『まだ帰らん』

『帰らんな』



『飯食ったか?』


『知らん』

『知らんな』

『どうだろう』





財布小人はさらに不機嫌になった。


『知らんじゃねぇ』


『心配してる』

『怒ってるんじゃ』

『両方だ』

『両方か』

『両方だな』




財布小人は机を叩いた。


『俺がいないと飯も食えんだろ』


『たぶん』

『たぶんだな』


『たぶんじゃない!』



『食えん』

『食えんな』

『それはそう』


『『『それはそう』』』







夕方。

講義を終えた忠敬は真っ直ぐ帰宅した。



ドアを開ける。

その瞬間。



『遅ぇ!!!!』


財布小人の怒号が飛んだ。

忠敬は即座に机を見た。


財布。


いた。



腕を組んでいる。


怒っている。

ものすごく怒っている。




「悪かった」

『謝るな』

「いや謝る」

『簡単に謝るな』

「どうしろと」

『もっと反省しろ』

「してる」

『足りん』

「そうか」

『そうだ』





財布小人は腕を組み直した。

胸をそらして偉そうにしている。



『俺なんだと思ってる』


「財布」


『そうだ』


「主力」


『そうだ』


「レギュラー」


『そうだ』


『分かってるなら忘れるな』


「はい」


『二度とだぞ』


「はい」


『絶対だぞ』


「はい」


『本当にだぞ』


「はい」




忠敬は反論しなかった。

全面的に自分が悪い。






しばらく説教は続いた。



やがて。




財布小人がぽつりと聞く。


『……昼飯食えた?』



忠敬は少し考えた。



「奢ってもらった」





財布小人が固まる。



『誰に』


「ゼミのやつ」


『ほう』


「財布忘れたって言ったら」



忠敬は肩をすくめた。



「三人くらい集まってきた」

『三人』

「飯代くらい出しますって」

『三人』


「なんか揉め始めた」


『何で』

「知らん」




財布小人は嫌な予感がした。


「ジャンケンしてた」


『何を』


「奢る権利」




沈黙。



近くの時計小人が呟く。

『意味分からん』



ポイントカード小人も頷く。

『意味分からん』



ペン小人は首を傾げた。

『人気者?』



財布小人が即答する。

『違うだろ』



忠敬も頷く。

「違うと思う」



『『『違うか』』』


全員の意見が一致した。





財布小人はしばらく考え込む。





そして。



『……変なやつらだな』

「それはそう」



珍しく忠敬と意見が一致した。





忠敬は財布を手に取った。



財布小人ももう文句は言わない。


いつもの位置。

いつもの感覚。


それが少しだけ嬉しそうだった。




『次忘れたら許さん』

「はい」

『絶対だぞ』

「はい」

『絶対』

「はい」

『絶対』

「分かったって」

『分かってないから忘れる』

「反論できん」

『よし』


ようやく機嫌が直ったらしい。






その夜。



財布小人は小人持ち物ネットワークへ愚痴を流した。


『置いていかれた』


返事は早かった。


『うわ』

『それはキレる』

『主力なのに』

『レギュラーなのに』

『信じられん』

『それはそう』


『『『それはそう』』』


財布小人は少し満足した。





愚痴は共有されてこそ意味がある。


少なくとも彼の中では。



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