第25話:『置いていかれた財布と、怒れるレギュラー』
その日の朝、潜木忠敬は寝坊した。
目覚ましは鳴った。
止めた記憶もある。
問題はその後だった。
気が付けば講義開始まで残り三十分。
大学まではギリギリ間に合う。
ギリギリだが。
「……終わった」
終わってはいない。
だが気分の問題だった。
このまま二度寝しろと脳内の悪魔は囁いた。
二秒もせずに同意し、目を閉じようとした瞬間。
思い出した。
長谷部教授のレポート提出〆切、今日まで。
忠敬は飛び起きた。
顔を洗う。
歯を磨く。
着替える。
なにより大事なレポートを鞄へ突っ込む。
スマホ。
鍵。
イヤホン。
よし。
家を飛び出した。
そして机の上には財布が残された。
*
静寂。
数秒。
財布小人は瞬きをした。
もう一度した。
周囲を見回した。
机。
教科書。
ペン。
財布。
財布。
財布だけ。
『……は?』
再び周囲を見る。
状況は変わらない。
『は?』
理解した。
『置いてかれた』
沈黙。
『置いてかれた』
さらに沈黙。
『置いてかれた』
そして。
『ふざけんな』
財布小人は立ち上がった。
『ふざけんな!!!!』
机の上にいたカード小人たちが飛び上がる。
『起きた』
『再起動』
『怒った』
『怒ったな』
『今日は本気だ』
財布小人はじっと見ていた時計小人を指差した。
『俺なんだと思ってる』
『財布』
『財布だな』
『財布だ』
『そう財布だ』
財布小人はさらに怒った。
『主力だぞ!!!!』
『まあそう』
『レギュラーだぞ!!!!』
『それもそう』
『毎日一緒だぞ!!!!』
『それはそう』
『『『それはそう』』』
財布小人は頭を抱えた。
『なんで置いてく』
誰も答えられない。
それは忠敬にしか分からない。
*
その頃。
大学。
講義開始十分前。
なんとか間に合った忠敬は、のどの渇きに自販機の前にいた。
財布を出そうとして。
止まる。
ポケットを探る。
反対側も探る。
鞄を開ける。
沈黙。
「……あ」
終わった。
今度は少し本当に終わった。
机の上の光景が脳裏に浮かぶ。
財布。
置きっぱなし。
そして。
(怒ってるな)
真っ先に浮かんだ感想がそれだった。
隣にいた学生が振り返る。
「どうした?」
「財布忘れた」
その瞬間。
学生のスマホ小人が吹き出した。
『忘れた』
別の学生の財布小人も呆れる。
『主力を?』
学生証小人が首を振る。
『それは怒られる』
『怒られるな』
『これは怒る』
『絶対怒ってる』
忠敬は遠い目をした。
(怒ってるな)
間違いない。
「あー」
学生も苦笑した。
「マジで?」
「マジで」
「じゃあ昼どうすんの?」
「水で耐える」
「耐えるな」
即座に否定された。
「いや俺出します」
別の学生が割り込んできた。
『おっ』
スマホ小人が身を乗り出す。
「待て俺が出す」
『始まった』
「いや俺」
『始まったな』
『人間って変』
『変だな』
忠敬は眉をひそめた。
「なんで」
「なんでって」
「飯代くらい出しますよ」
「そうそう」
「世話になってるし」
「は?」
忠敬には意味が分からなかった。
だが周囲には周囲の理屈があるらしい。
数十秒後。
なぜか三人でジャンケンが始まった。
『何の勝負?』
『飯代』
『何で?』
『知らん』
『急』
『知らんな』
「「「「最初はグー!」」」」
「いや待て」
「「待たない」」
「なんで」
『盛り上がってる』
『意味分からん』
『本人困惑』
忠敬は本当に困惑していた。
「なんで」
『それな』
『それな』
『それな』
小人たちまで同意した。
結果。
一人の学生が勝利した。
「よし!」
その学生の財布小人が胸を張る。
『勝った』
『おめでとう』
『本日の昼食担当』
『名誉職』
『重い』
『重いな』
忠敬は最後まで意味が分からなかった。
*
家。
財布小人はまだ怒っていた。
『昼だぞ』
『昼だな』
『まだ帰らん』
『帰らんな』
『飯食ったか?』
『知らん』
『知らんな』
『どうだろう』
財布小人はさらに不機嫌になった。
『知らんじゃねぇ』
『心配してる』
『怒ってるんじゃ』
『両方だ』
『両方か』
『両方だな』
財布小人は机を叩いた。
『俺がいないと飯も食えんだろ』
『たぶん』
『たぶんだな』
『たぶんじゃない!』
『食えん』
『食えんな』
『それはそう』
『『『それはそう』』』
*
夕方。
講義を終えた忠敬は真っ直ぐ帰宅した。
ドアを開ける。
その瞬間。
『遅ぇ!!!!』
財布小人の怒号が飛んだ。
忠敬は即座に机を見た。
財布。
いた。
腕を組んでいる。
怒っている。
ものすごく怒っている。
「悪かった」
『謝るな』
「いや謝る」
『簡単に謝るな』
「どうしろと」
『もっと反省しろ』
「してる」
『足りん』
「そうか」
『そうだ』
財布小人は腕を組み直した。
胸をそらして偉そうにしている。
『俺なんだと思ってる』
「財布」
『そうだ』
「主力」
『そうだ』
「レギュラー」
『そうだ』
『分かってるなら忘れるな』
「はい」
『二度とだぞ』
「はい」
『絶対だぞ』
「はい」
『本当にだぞ』
「はい」
忠敬は反論しなかった。
全面的に自分が悪い。
しばらく説教は続いた。
やがて。
財布小人がぽつりと聞く。
『……昼飯食えた?』
忠敬は少し考えた。
「奢ってもらった」
財布小人が固まる。
『誰に』
「ゼミのやつ」
『ほう』
「財布忘れたって言ったら」
忠敬は肩をすくめた。
「三人くらい集まってきた」
『三人』
「飯代くらい出しますって」
『三人』
「なんか揉め始めた」
『何で』
「知らん」
財布小人は嫌な予感がした。
「ジャンケンしてた」
『何を』
「奢る権利」
沈黙。
近くの時計小人が呟く。
『意味分からん』
ポイントカード小人も頷く。
『意味分からん』
ペン小人は首を傾げた。
『人気者?』
財布小人が即答する。
『違うだろ』
忠敬も頷く。
「違うと思う」
『『『違うか』』』
全員の意見が一致した。
財布小人はしばらく考え込む。
そして。
『……変なやつらだな』
「それはそう」
珍しく忠敬と意見が一致した。
*
忠敬は財布を手に取った。
財布小人ももう文句は言わない。
いつもの位置。
いつもの感覚。
それが少しだけ嬉しそうだった。
『次忘れたら許さん』
「はい」
『絶対だぞ』
「はい」
『絶対』
「はい」
『絶対』
「分かったって」
『分かってないから忘れる』
「反論できん」
『よし』
ようやく機嫌が直ったらしい。
その夜。
財布小人は小人持ち物ネットワークへ愚痴を流した。
『置いていかれた』
返事は早かった。
『うわ』
『それはキレる』
『主力なのに』
『レギュラーなのに』
『信じられん』
『それはそう』
『『『それはそう』』』
財布小人は少し満足した。
愚痴は共有されてこそ意味がある。
少なくとも彼の中では。




