第19話:『喋りすぎる万年筆と、“単位の救世主”』
六月中旬。大学キャンパスは、じっとりとした湿気に包まれていた。四限。経済学部三年の学生たちは、重苦しい空気の中で教室へ向かっていた。
理由は単純。
「今日、長谷部ゼミの中間発表だっけ……」
「終わった……」
「絶対詰められる……」
鬼教授――長谷部のゼミだった。
発表中に論理の穴を見つけると、容赦なく追及してくることで有名であり、毎年大量の犠牲者を出している。そんな空気のなか、潜木忠敬は教室後方の席で机に突っ伏していた。
死んだ目である。
昨夜。
レン卓でシャンパン祭り。
酔った姫の恋愛相談。
営業終了後、午前三時の歌舞伎町迷子センター開設。
寝たのは朝五時だった。
「潜木、生きてる?」
同じゼミの男子学生が恐る恐る声をかける。
「……死んでる」
「お前今日発表班だよな?」
「そうだった気がする」
「なんでそんな他人事なんだよ……」
その時机の上のシャーペン小人が、忠敬の袖を引っ張った。
『お兄ちゃんお兄ちゃん』
『前の席の人、“体調不良で休みます”ってLINE送ってる』
(あ?)
スマホ小人も追撃する。
『しかも発表データ、その人しか持ってない』
(終わったな)
案の定、数分後。班の女子学生が青ざめた顔で振り返る。
「えっ、ちょ、待って……村上くん来てない!?」
「発表データ持ってるの村上だけなんだけど!?」
教室の空気が凍る。
さらに最悪なことに、長谷部教授が入ってきた。
「では始めるぞ」
低く響く声。周囲の学生たちが一斉に背筋を伸ばす。
その胸ポケットの万年筆小人が、忠敬を見るなりため息を吐いた。
『今日も機嫌悪いよこの人』
『朝会議で揉めた』
(知らん情報寄越すな)
さらに万年筆小人は続ける。
『あとこの教授、“ちゃんと質問してくる学生”好き』
『逆に黙る奴嫌い』
(面倒臭ぇ……)
発表班の空気は完全に崩壊していた。
「どうする!?」
「終わったって!」
「潜木なんか言って!」
「……」
なぜ俺に振る。
忠敬は小さくため息を吐くと、ゆっくり起き上がった。
「とりあえず残ってるデータ集めろ」
「え?」
「グループLINEに途中資料あるだろ。繋げれば最低限形にはなる」
「いやでも、発表順今日一番目――」
「十分ある」
忠敬の声は妙に落ち着いていた。
ホストクラブで毎日修羅場を浴び続けた男である。大学のグループ発表程度、相対的にはかなり平和だった。
「お前は参考文献まとめろ」
「お前はパワポ修正」
「俺、発表構成やる」
明確な指示に、班員たちは反射的に動き始める。
その様子を、シャーペン小人たちが感心したように見上げていた。
『お兄ちゃん仕切り慣れてる』
『なんか店長みたい』
(やめろ)
十分後。どうにか最低限の発表資料が完成した。
だが問題はここからだった。
長谷部教授は、発表内容以上に“質疑応答”で学生を潰す。しかも今日の機嫌は悪い。前の班は既に半壊していた。
「論理構成が甘い」
「データ分析が浅い」
「君たち、自分で読んだか?」
公開処刑である。
班員たちの顔色がどんどん悪くなる。女子学生など、今にも泣きそうだった。
その時、万年筆小人がまた忠敬へ小声で囁く。
『この教授、“自分の専門分野ちゃんと読んでる学生”には甘い』
『あとコーヒー飲めてないからイライラしてる』
(知るか)
そして、ついに忠敬たちの番が来た。発表自体は、なんとか乗り切れた。
問題は質疑応答。
長谷部教授が鋭い目を向ける。
「潜木」
「はい」
「この分析結果、統計の偏りについてはどう考える?」
班員たちが凍る。
終わった、という顔だった。だが忠敬は、少し考えてから静かに答える。
「偏りはあります。ただ、今回は“消費傾向の変化”を見るのが目的なんで、厳密性より流れを優先しました」
長谷部教授の眉が僅かに動き、教室が静まり返った。
「……続けろ」
班員たちが驚愕した。
長谷部教授が“話を続けさせた”。
しかも忠敬は、その後も自然に会話を続ける。質問を正面から受け止め、否定せず、一度整理して返す。
それは完全に、酔客対応だった。
「なるほど」
「確かにそこは不足してます」
「補足すると――」
レン卓の姫より理性的である分、むしろ楽だった。
十分後、発表終了。
長谷部教授は腕を組みながら、短く言った。
「……荒削りだが、視点は悪くない」
教室がざわついた。
褒めた。あの長谷部が。
班員たちは呆然としていた。
ゼミ終了後。
「潜木、お前何者?」
班員の男子学生が真顔で聞いてくる。
「なんで長谷部先生と普通に会話できんの?」
「俺あの人と話すと寿命縮むんだけど」
忠敬は鞄を肩に掛けた。
その鞄の小人が、得意げに胸を張る。
『お兄ちゃん毎晩もっと怖い客さばいてるから!』
(黙れ)
すると後ろから、長谷部教授が声をかけてきた。
「潜木」
「はい」
「お前、接客業向いてるな」
忠敬の動きが一瞬止まる。
「……まぁ、一応」
「飲食か?」
少しだけ間が空いた。
「……居酒屋みたいなもんです」
嘘ではない。だが確実に違った。
ポケットのスマホが震える。
画面表示【No.1 レン】
忠敬は無言で画面を伏せた。
だがスマホ小人は腹を抱えて笑っていた。
『今日も出勤前倒しだってー!!』
「……帰りてぇ」
梅雨空のキャンパスに、忠敬の疲れ切った声が静かに消えていった。




