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第1話 始まる初恋

「イリヤくん……また、完璧すぎる」


エメラルド魔導学院のグラウンドで、私は思わず息を飲んだ。


紺色の髪が風に揺れ、深い赤い瞳が剣先を捉える。


 イリヤ・クロウリー


伯爵家の跡取りであり、騎士科首席の彼は、今日も模擬戦で誰も寄せ付けなかった。


剣が風を切り裂く音さえ優雅に聞こえる。

無駄のない動き、乱れない息遣い、一切の隙がない。魔法を使えないはずの騎士科生が、まるで魔法のように相手を翻弄していく。


私はグラウンドの端で、ただそれを見つめていた。


私の名前はルリシア・クリスティーノ。

下町の普通の家庭で育った私が、四大属性を操れるというだけで「天才美少女」などと呼ばれている。そんな私が、学院の頂点に君臨する伯爵家の跡取りに、こんなにも胸を焦がしているなんて……ね。


自分でも、呆れるしかない。

でも、止められない。


初めて彼に興味を持ったのは、図書室の貸出カードだった。


**


その日、私は図書室の奥の棚を探していた。

授業で出た課題——四大属性の共鳴に関する論文を書くために、資料が必要だったから。


背表紙を指でなぞりながら棚を見ていくと、目当ての一冊が見つかった。

古い魔導書で、背表紙の金文字が少し剥げている。『四大属性の共鳴理論と応用』。


手に取って、貸出カードを確認した。

カードの一番上にある名前が、目に入った。


丁寧で、迷いのない字。「イリヤ・クロウリー」。


……騎士科なのに?


魔法は使えないはずなのに、なぜ四大属性の共鳴理論を? その疑問が、頭の片隅に引っかかって離れなかった。


でも、いくら考えても答えは出なかった。


ただ、なんとなく、棚を確認するようになった。

古代魔術史、魔力循環論、属性干渉の実験記録。

どの貸出カードにも、彼の名前が最初に並んでいる。


字はいつも同じ、丁寧で均一な筆跡。


だけど……ただ、ひとつだけ例外があった。


恋愛小説のコーナー。

そこだけは、一冊も彼の名前がなかった。


……ふふっ、なんだか可愛い。


なぜかそれが可笑しくて、口元が緩んだ。

理由は言葉にできないけれど、その棚の前に立つ彼を想像したら、急に遠い人じゃない気がした。


完璧に見えるのに、ここには近づかない。

それが、なんだか人間らしかった。


**


図書室で彼を「見つける」ようになったのは、それから数日後のことだった。

夕方、課題の続きをしようと図書室に入ると、窓際の席に座っている。

夕陽が差し込んで、紺色の髪が淡く赤く染まっていて……思わず、足が止まった。


そこだけは、まるでイリヤくんだけの世界みたい。


ゆっくりとページをめくる。ただ、読んでいる。

隣の席の生徒が立ち上がって棚へ向かっても、向かいで誰かが小声で話していても、彼の視線は本から動かなかった。


彼がペンを走らせると、紺色の髪が少し落ちてくる。無造作にかき上げる仕草が、なんだか大人っぽい。


考え込むときは、ペンの端を軽く指で叩く。

声も出さず、表情もほとんど変えず、それでも確かに、何かと向き合っていた。


……何を調べているんだろう。


その疑問は、声に出すには場所も関係も遠すぎた。だから私はただ、自分の参考書に目を戻した。でも、ペンの進みが普段より遅かったのは、たぶん気のせいじゃない。


(あと一歩、踏み出せる勇気が私にあれば……)


閉館の少し前、彼は本を閉じて立ち上がった。

本を棚に戻して、荷物を持って、まっすぐ出口へ歩いていく。


「イリヤくん」


彼を呼び止める声が、静かな図書室に小さく響く。私は思わずドキッとした。呼んだのは私じゃない。


イリヤくんは足を止めて振り返る。

私は気になって、その場面から目が離せなくなった。


可愛らしい女の子が、頬を染めながら手紙を差し出している。


「ずっと前からイリヤくんのこと、見ていたの。これ読んでください」


少しの間がどこか気まずい。


「悪いが……君のことを、よく知らない」


そう言うとイリヤくんは図書室を出て行った。

女の子は肩を落として落ち込んでいる。その様子を、物陰から見ていた友達が、彼女に駆け寄り慰めた。


「イリヤくんって、噂通り、冷たい人だったね。手紙も受け取ってくれないなんて酷いよ」


それを聞いて、私の心の中にモヤっとしたものが広がった。

「冷たい人」——本当にそうだろうか。

確かに噂では、どんなに綺麗で可愛い子でも、氷みたいな視線でそっと遠ざけて、「君のことを、よく知らない」と同じ言葉で返すって聞いた。


みんな、そんな彼を「冷たい」って言うけど、私は違うと思う。ただ……他人に心を開かないだけ。

本当の意味で、誰も寄せ付けない人なんだと思う。そう思えるようになってから、私はますます彼から視線を離せなくなった。


**


「全員、配置について。今日は魔法と剣の連携授業だ!」


先生の号令で、騎士科と魔法科が混在する合同訓練が始まった。

魔導士四人が中央に立ち、騎士科の生徒たちがその周囲に散らばる。私はその輪の外縁で待機しながら、課題の記録用紙を手に持っていた。


今日の授業のテーマは「四大属性の共鳴と、剣技による補助制御」。


魔法科の生徒たちが四大魔法を同時に展開し、騎士科がその余波を制して連携する——という、上級生でも難しいとされる応用演習だ。


中央に立つ四人の魔導士たちが、それぞれの属性を展開し始めた。


火が渦を巻き、水が弧を描き、風が唸り、地が隆起する。四つの属性が近づくにつれて、空気が重くなる。そして微かに、歪み始めた。


あ、と思った瞬間だった。


「っ……制御が——!」


誰かの声が掠れた。

火と風が引き合い、膨れ上がる。水と地が反発し、激しくぶつかり合う。

調和が崩れた瞬間、四属性は「共鳴」ではなく「暴走」へと転じた。


渦が——生まれる。


火・水・風・地、すべてが絡まり合い、制御を失った巨大なエネルギーの塊が、グラウンドの中心で膨張していく。熱と冷気が同時に肌を刺し、地面がびりびりと振動する。

暴風が吹き荒れて、木々が大きくしなった。

そしてその渦が——グラウンドの端へ向かって、弾けた。


「っ——!」


渦の進行方向に、人影があった。

以前、図書室でイリヤくんに手紙を渡していた女の子と、その友達。


二人は咄嗟に身を竦めたが、足が動かない。


「危ない——!」


私は咄嗟に駆け出していた。

四大属性の暴走に、どの魔法で対処できるか頭がフル回転する。

風で軌道を変える? 水で抑える?

ううん、今は——


私は両手を突き出し、四色の光を同時に解放した。


私の周囲に、四色の光が渦を巻く。

火の熱を、水の冷気を、風の流れを、地の安定を。すべてを同時に放ち、暴走する渦に向かって叩きつけた。


相殺させるつもりだった。だけど——


私の魔法は、暴走の渦に飲み込まれた。

まるで貪欲な怪物のように吸収され、逆に力を増幅させる。


「っ……!」


体が熱くなり、魔力が引きずり出される感覚に襲われる。視界が揺れ、膝が折れそうになった。


それでも——


私の四大魔力が暴走の中に混ざったことで、何かが変わった。

共鳴した私の魔力が、わずかに暴走の勢いを削ぎ、渦の「芯」に小さな乱れを生む。


隙が見えたとき、影が横切った。


——速い。


イリヤくんだ。


彼は剣を抜きながら滑り込むように二人の前に立ち、足を大きく開いて重心を落とす。

赤い瞳が、渦の中心を冷ややかに見据える。


剣を振り翳すと──縦一閃。


その軌跡に、目に見えない精密な力が走った。

私の魔力が作ったわずかな隙を、完璧に突く一撃。


火と風の共鳴が引き裂かれ、水と地の連鎖が断ち切られる。分離した属性たちは勢いを失い、バラバラに霧散した。


静寂が、グラウンドに落ち、土煙がゆっくりと晴れていく。


イリヤくんは剣を下ろし、乱れた紺色の髪を一度だけかき上げた。息はほとんど乱れていない。


「……大丈夫か」


短く、穏やかな声で二人の女の子に声をかける。

女の子たちは震えながら頷き、涙目で頭を下げた。


「ありがとうございます、イリヤくん……! 本当に、助かりました……」


イリヤくんは軽く頷くと、視線を少し横にずらした。そこに、息を荒げて立ち尽くす私がいた。


「礼なら、彼女に言え。俺はただ、隙を突いただけだ」


赤い瞳が、確かに私を捉えた瞬間、世界が止まった気がした。


イリヤくんはそれ以上何も言わず、剣を鞘に納めて踵を返した。夕陽の残光が、彼の紺色の髪を淡く赤く染めていく。


私はその背中を、ただ見つめていた。

胸の奥が、熱くて、甘くて、苦しい。


自分の魔法が、ほんの少しでも役に立ったこと。

そして、彼が私の存在を——初めて、ちゃんと見てくれたこと。


(イリヤくん……)


どうして、こんなにも胸が疼くのだろう。


知りたい。

あなたが何を考えているのか。

あなたが、どんな人なのか。


まずは剣の勉強から始めよう。

ほんの少しでも、あなたの世界に小さな一歩を。

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