彼女が叶えたい願い
僕は彼女の申し出にイエスともノーとも言わないままだったが、気がつくと再びあの民宿へ戻っており、さらに言えば、近づくことが許されなかった二階の寝室で正座をしていた。
彼女の旅路の準備をただ眺めていた。
準備と言っても、化粧をして、髪を溶かして、あのボロボロの大学ノートの紙切れを眺めて完了するという質素なものだった。
まじまじと彼女を見るのはこれが始めてで、恐らくだが年齢は僕よりも下で、高校生になったばかりか、中学生の後半くらいの年に見えた。
まだ幼さが残る表情は、これからの明るい未来を感じさせて仕方がなかった。
僕はまだ慣れない坊主頭を掻いて、彼女の次の行動を見守った。
「じゃあ、行きましょう」
「あのー、いくってどこへ?」
「あー、そうですよね、まぁ細かいところは後で説明するので、まずは出ましょう」
彼女は僕が呆気にとられているところをまるで気がつかないかのように、斜めがけの大きく膨らんだクリーム色のショルダーバッグを持ち上げて階段を降りていった。
「やれやれ…」
時刻は間もなく6時となる。
すっかり明るくなった外は、徐々に気温が上がっていくそんな雰囲気をすでに醸し出していた。
「早くきてくださいー」
階段の下から彼女の声がする。
「あ、はいはい、今行きます」
僕は慌ててバックパックを掴んで階段をなるべく早く降りていった。
階段の下ではなぜか得意気な表情を見せる彼女がとても誇らしげに見えた。
これから楽しいことしか待っていないというような、夏休みを待つ小学生のように目をキラキラさせながら僕を見つめる。
どうせ、旅行と行っても、何日かついていくだけだ。
嫌われた人から好かれるのは、嫌な気持ちはしない。
すっかり仲が良さそうに見える、まるで兄弟でちょっとした小旅行に行くように見えるこの光景を、民宿の店主はとても不思議そうに見ていた。
「気をつけてのう。また遊びにおいで」
店主は嬉しそうに僕らを見送った。
「おじいさん、ありがとう」
彼女は元気に答えて、眩しい外の光のなかに飛び込んでいった。
「それで、僕らはこれからどこに行くんだ?」
すでに民宿から電車を乗り継いで一時間ほど経っている。
彼女は気前良く僕の分まで電車賃を出すと言ったが、幸い僕はお金には困っていないので、自分の分は自分で出すよと答えると、なんだな猫のような微笑みを返してくれた。
しかし、彼女は電車に乗ってからは、一言も口を利かなかった。
始発の電車はがらがらで、僕たち以外の乗客はいない。
彼女はボックス席の窓側に座り、僕は対角線の廊下側に座った。
終始窓の外を眺めるばかりで、なにも言わない彼女だったが、僕も特に質問攻めにしたい性分ではないので、彼女が口を開いてくれるまで待つことにした。
彼女と同じように、窓の外を眺める。
旅は道連れとは、昔の人はよく言ったものだ。
僕は意外にもこれから起こる彼女との旅を楽しみにしている自分がいることに気がついた。
ここ数年はワクワクすることも、楽しさを覚えることも全くなかったが、今だけは少しドキドキしている。
心地よい高揚感を感じながら、彼女の一言目を待った。
しかし、一時間経っても、彼女は何も言わなかったので、僕も少々不安を覚え、思い切って聞いてみることにした。
「それで、僕らはこれからどこに行くんだ?」
僕の声を揺れる電車の音と共に聞こえた彼女は、「なに?それも知らないの?」と言った表情でこちらに振り向いた。
「坊主頭なんですね」
「え?」
「なんでもありません」
触れられたのは、なんと僕の坊主頭だった。
まだ慣れないこの髪型は、自分でも恥ずかしいと感じていたので、人から直接言われると余計に気になってしまう。
「今から、海に行きます」
「え、海?ここからだと結構遠いと思うよ」
「いいんです。行かなければならないんです」
「そうか。それは止めないよ。ちなみに、なんで僕なんかを君の旅に誘ってくれたの?」
電車が揺れる度に彼女の黒髪のボブも緩やかに揺れた。
「それは」
そこまで言うと、彼女は口ごもった。
そして、
「後で言います」
と言って話を遮った。
まぁ、特段なにか理由があるわけではないのだろう。
しかし、こんな少女が僕のような社会人の男を相手に誘うとは、なかなか度胸があると感心してしまった。
「海かぁ。久々だなぁ」
いつぶりだろうか。
僕は自分の過去を振り替えってみた。
そうだ、あの日以来だ。
あの日も、みんなで海に行こうとしていたんだ。
娯楽も何もない故郷から、みんなで海に上る朝日を見ようと車を走らせたのだ。
しかし、誰一人として、海どころか朝日なんて拝めやしなかったんだけどな。
僕はあの日のことを思いだして、心が沈んでいくのを感じた。
彼女が僕の方を見てくれている気がしたが、今はこの沈んだ気持ちをなんとかしたかった。
そして自分の気を晴らすために、闇雲に何かを彼女に聞いてみた。
「そういえば、名前は何て言うの?」
「人に訪ねるときは自分から名乗るものですよ」
「あぁ、失敬失敬。僕は桶谷だよ。オケとみんなに呼ばれてる」
「私はジェミニです」
「え?ジェミニ?海外の方だったんだ」
「違いますよ。ただ、まだあなたには本名を言いたくないだけです」
「困ったなぁ。分かったよ。じゃあジェミニと呼ばせてもらうね」
「はい、好きなように」
彼女は本当に掴み所がない性格をしている。
「そういえば、初めてあったとき、なにか数字を呟いていなかった?」
僕たちの最悪の出会い。
あの暑い日のこと、昨日のことを思い出していた。
「はい、確かに言っていました。63でしたからね。では、私からも聞いていいですか」
「うん、何でも」
彼女は白地のワンピースの裾をこちらに向けて、黒目がちの大きな目を僕に合わせた。
「誰のお墓参りだったんですか」
「あぁ、そうだね」
僕はなんて答えたらいいか分からなかった。
恋人でもない家族でもない。
でもどうでもいい人ではない。
僕にとってあの人は、何て言えばいいのだろうか。
「そうだなぁ、大切な人、かな」
僕はぼんやりと昨日手を合わせたお墓の姿を思い出していた。
「大切な人」
彼女は僕の言葉を反芻して、そして頭で何かを考えているようだった。
「わかりました」
窓際の離れた席に座っていた彼女が、いきなり僕の隣の席に座った。
「何がわかったの」
「それは今は言いません。でも」
「でも?」
「あなたに権利を与えます」
「ほう?どんな権利なの?」
ふわりと女性らしい甘い香りが鼻孔をかすめた。
「私の夢を一緒に叶える権利です」
「おー、なんだか素敵な権利だね」
「あなたはいまから私と100個の夢を叶えます。途中退場は許しません、以上!」
彼女は意気揚々と宣言した。
100個の夢?どういうことだ?
僕はどこまでも続く長い長い面倒ごとにどうやら巻き込まれたようだった。