偽彼氏
話をしてもらうことを、自分からお願いしたにも関わらず、僕は一刻も早くこの場から立ち去りたかった。
誰がどう見てもこの状況は複雑かつ面倒で、もともと白澤さんと関わりを持たないと決めていた僕にとっては、厄介極まりない展開だった。
この部屋を充満させている重い空気は、肺に入る度にからだ全身から力を奪っていく。
直ぐにでも外の空気を吸いたいが、もしかするとあの男が息を潜めてナイフを楽しそうに持ちながら待ち構えているかもしれないと思うと、迂闊に外には出られない。
嫌々ながらもこの部屋にいるしかない状況で、なるべくあの男から離れたくて玄関からも距離を起きたいが部屋のなかに入るのも億劫だ。
なす術なく、仕方なく玄関にそのまま腰を下ろすことにした。
白澤さんはだまったままだった。
それもそうか。
自分からべらべらと話すような事情ではなさそうだからな。
ここは僕から話を切りだそう。
そうでもしないと、話が進まない。
「それで、あの人は誰なの?」
僕は白澤さんに背中を向けながら言った。
僕の言葉が鉄の扉に反射して彼女に問いを届けた。
「元カレなの」
少しの沈黙の後に回答が来た。
「元カレね」
この僕の言葉は、羨ましいとか白澤さんと付き合えた奴が恨めしいとかではなく、単純にそうなんだと腑に落ちたのだ。
他でもなく、見知らぬストーカーであれば理由が不明だが、元カレという素性がある程度知れた相手と分かって少しほっとしたところがあったのかもしれない。
「元カレと言うことは、別れたことが原因か何っていうこと?」
「…そんな感じなの」
「白澤さんも聞いていた通り、僕は今嘘をついてしまっている。その嘘は白澤さんの命を守るために隠し通さないといけない。もしも嘘がばれたら、それどころじゃない。だから、もう少し悔しく話してもらってもいい?」
「…うん」
「…」
僕は白澤さんが準備できるまで待った。
もう彼女を待つことはしたくなかったが、今は待たざるを得ない。
「彼の名前は、明っていうの。歳は一個上で、元々はサークルの先輩だった」
いつもよりトーンダウンして、彼女は話し始めてくれた。
「元々は?」
「うん。友達とバレーボールのサークルに大学一年生の時に入ったの。そこで出会ったのが明さんなの。私が大学に入って初めてできた彼氏なんだけど、ちょっとうまくいかなくて」
「どのくらい付き合ったの?」
「んーと、一年生の12月かな」
「…そうか」
一年生の12月は、僕と白澤さんが別れてからわずか4か月後のことだった。
彼女にとっては、僕のことなんてどうでもいいのだろう。
僕がすぐに返答しないことで、白澤さんは何かを悟ったのか、はっとした雰囲気を全面に出して「ごめん」と小さく急いで言った。
過ぎたこと、戻らない次元の話はいくら思ったところで変わるわけがないので、僕は無視した。
「付き合った理由は色々あると思うけど、別れた理由は?そこに原因がある?」
「うん…かなぁ。私が一方的に別れたかったの。結構ね、束縛が強くて、バイトの帰りに待ち伏せしたりとか、携帯電話をこっそり覗かれたりとか、手帳で予定確認されたりとか。あとはサークルの他の男の子と話すといけなかったり、あとはお金にもだらしなくてね。明さん、パチンコとかスロットが好きで、私もついていくことがあったんだけど、お金の貸し借りもあって。ある日勝手に私の財布からお金抜いてたこともあって、それでもう別れようって思ったの」
「円満には、いかなかったと?」
「うん、そうだね。一方的に私が別れたと思っているだけなのかもしれない」
「向こうは別れたくないって?」
「…うん。伝わらないと思うけど、私ね、そのバレーボールサークル好きなの。みんな面白いし、楽しいし、居心地もよくて。でも、明さんはそのバレーボールサークルの幹事をやってて、別れたあとにサークル内に元カレがいるとやりずらしい、皆も気を遣うから別れるならサークルをやめてほしいって。辞めたくないなら付き合い続けるしかないって言われてさ」
大学生の恋愛事情は複雑すぎて分からなかった。
「本当に何をしても別れられないの。嘘をついて、“他に好きな人ができた”って言ってもそれでもいいから付き合っててって言われるし。ある日、本当に嫌になって、“もう別れられないならベランダから飛び降りる”っていったら、“俺はそれでも付き合ってたい”って言われるの。結婚する予定も意思もないのに、このまま付き合っても意味がないし、時間ももったいない。それから連絡も無視してたら、最近は毎日この部屋に押し掛けてくるし、なんかナイフとか持ってるし、もうどうしようかって」
「誰か周りの人には相談したの?」
「うん。友達には相談した。色々守ってくれたり、話してくれたりしてもダメだった。むしろエスカレートした気がする」
「何か彼の弱味を握ったりしてるとか?」
「何もないよ。お金も返してもらったし、合鍵も返却した。もう関わりはないはずなの」
ただ、彼がこうなった原因が必ずあるはずだ。
純粋に白澤さんが好きで付き合っていたかっただけかもしれないけれども、真実は本人にしか分からないし、それを聞くタイミングもない。
今僕ができるのは、一旦のところ“元カノを守ること”だけだ。
ことが収まるまで、彼氏の振りをしてやり過ごすしない。
「今は彼のボルテージが上がっているだけかもしれないから、ほとぼりが冷めるまで、時間が過ぎるまでは待とう。もしかすると冷静になったら、我に変えるかもしれない」
後ろからこちらに駆け寄る足音が聞こえる。
「桶谷さん…」
「白澤さん、ダメだよ」
「え…?」
「僕たちは張りぼての関係だ。あくまでも対外的なものだ。僕は白澤さんに気持ちはない。でもこうなったからには、命は守るサポートはする」
「…でも、ありがとう」
僕は振り返らなかった。
でも、白澤さんはきっと僕の背中を見て微笑んでいると思う。
「桶谷さんの荷物、私の部屋に持ってきていいからね。しばらくは自分の家だと思って使って。あと、連絡先交換しておこう。付き合っている振りするのに、連絡先知らないのは違和感でしょう?」
「うん…まぁ」
こうして僕は面倒なことに巻き込まれ、白澤さんの偽彼氏になり、同棲することになった。
家に寝泊まりするのはありがたいが、その代償がでかい。
明日命を奪われてもおかしくない状況になったことには変わらない。
「どうなることやら…」
僕は明日からの自分の身の振りに想いを巡らせるのだった。
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