気がつくと、彼女の部屋にいて、二人きりだった
残業は定時の6時から二時間だけ行った。
それだけでも、僕の心は白澤さんから解放されて、つかの間の休息を得た。
しかし、大変なのはそのあとだった。
自分ひとりだけの自由な時間になると、どうしても白澤さんのことが浮かんでは消えないのだ。
浮かんで、浮かんで、浮かび続けて、頭の中がいっぱいになってしまう。
僕はどうしたいのだろう。
白澤さんがまだ僕に対して好意を抱いてるなら?またあの時の関係に戻りたいのか?
元サヤに戻って、また昔のように楽しい時間を過ごせるのか。
それとも、白澤さんが過去のことを謝りたいだけなら、それはそれで一件落着だ。
白澤さんが妙に僕を後ろから抱き締めたがゆえに、僕の体はまだあの生々しい感覚をまとわりつかせていた。
守口さんから日給を手渡しでもらうときも心ここにあらずで、腑抜けになって電車に乗った。
いつもなら、毎日泊まる漫画喫茶に直行して仮眠を取るのだが、今日は方向を変えた。
さすがに昔の彼女に会うのだ。
いや、違う。
僕はなんとか自分の気持ちを忘れるために必死だっただけだ。
それでも、身なりくらいはしっかりしたい。
髭はだらしなく僕の顎の周りに生え、髪もボサボサだ。
近くの安めに仕立てができる理髪店に足を運び、そしてそれなりに身だしなみを正した。
その後、1ヶ月労働を頑張った自分へのご褒美として綺麗目なTシャツを1枚買うことにした。
こういうタイミングさえなければ、僕は自分に服なんて買わない。
何か神様が与えてくれた前向きなきっかけだと思いたい。
2000円くらいの安いものが目当てだが、なんだかうかれている自分に気づいて嬉しい気持ちと後ろめたい気持ちが混ざって、もやもやしながら新宿に向かった。
そして、気がつくと、僕は白澤さんの家にいた。
気がつくとというのは少々語弊があるが、あれよあれよという間に僕は白澤さんの部屋に来て、ベッドに座って、今では二人で手を繋いでいた。
朝日がカーテンの隙間から零れ、白澤さんの整った顔が照らされる。
僕が最後に見たときよりも大人っぽくなっていて、肌もぐんと白くて、ますます綺麗になっている。
これから僕たちはどうなるのか?
僕は冷静になるために、ここまでに至る経緯を振り替えることにした。
新宿に着いた後、どこの店もまだ空いておらず、二時間ほど時間を過ごすことにした。
ハンバーガーショップ店でモーニングセットをいただき、しばらく携帯電話をいじりながら時間を来るのを待った。
それでもいても立ってもいられなくなったので、新宿の町をただただあるいて散歩をした。
体を動かすと幾分か心のモヤモヤは晴れた。
不思議と眠気は無かった。
そして10時開店に合わせて目標の店に行き、服を吟味する時間をたくさん取ろうとしたが、それでも30分もかからずにTシャツが決まった。
無難に黒字で白いロゴが胸元に入っているシンプルなデザインにした。
このデザインであれば、仕事中にも着ることができる。
今日は不幸にも仕事がないので、否が応でも時間を過ごさなければいけない。
何をするにもそわそわしていて、落ち着かなかったので、バッティングセンターにでも行って汗を流そうかとも考えた。
だが、女性と会うのに汗の臭いをまとわりつかせているのもカッコよくないので、図書館に行って書籍を漁ることにした。
無料で利用できるのに、エアコンも完備、トイレも綺麗、場所によって水まで無料で飲める図書館は、定住がない僕にとっての最高の娯楽だった。
昔から読書は大好きで、本の虫だったので、図書館には何時間だって、それこそ何十年だっていることができる。
そうして夕方6時半の待ち合わせまで、僕は活字の世界に埋もれることにした。
書籍の文字だけが、僕の心を唯一落ち着かせてくれた。
待ち合わせは豊洲駅を出たところにある白澤さんと会った改札口だった。
仕事じゃない日に職場の近くに来るのは何だか不思議な気がした。
しかし、よく使う漫画喫茶と最寄り駅までは定期券も購入していたので、交通費的には財布に痛くなかった。
痛いのは、僕の心だった。
今さら白澤さんと話すことなんてない。
過去の僕の傷に塩を塗ってほしくない。
癒えたはずの心の痛みがじんじんとお腹を伝わって体全身に響いているようだった。
それでも心のどこかで、昔の彼女に会うことを楽しみにしている自分も認識していて複雑な心境で行き交う人々の中から彼女の姿を探した。
白澤さんが現れたのは待ち合わせの10分前だった。
僕が待ち合わせの20分から居たことは言わないでいた。
僕の姿に気づくと白澤さんは遠くから軽く手を振って小走りでかけてきた。
昔と変わらない待ち合わせスタイルだった。
「ごめん、お待たせ。待ったかな?」
「ううん。今来たところ」
「今日は時間を作ってくれてありがとう」
「ううん。こちらこそ」
白澤さんは黒のタートルネックノースリーブに水色の膝丈のスカートを合わせた爽やかなスタイルだった。
付き合っていた頃は高校生だったこともあったので黒髪だったが、今は大学生で少しあか抜けた栗色の髪色をしている。
当時よりも髪が伸びて、胸下まで広がる髪は軽くウェーブがかかっていて上品なイメージを道行く人に与えるだろう。
メイクも濃いめではなくどちらかというと薄目だが、元々の顔立ちがはっきりしていることもあり、メイクしなくても良いくらいだ。
テレビのアナウンサーのような清潔感を覚えるくらいに、白澤さんは見ていて気持ちがいい。
昔と変わらず人の目を引く美しさだった。
「じゃあ、行こうか。お店、ここから歩いて5分くらいだから」
「分かった」
僕は白澤さんの後をついて歩き始めた。
お店は思ったよりも近くて、あっという間に着いた。
道中は特に何も話さなかった。
白澤さんが気を使って「仕事はどう?」とか「今日は暑いね」とか「桶谷さんの連絡先分からないから会えなかったらどうしようかと思った」など場繋ぎ的な会話をしてくれた。
僕は「うん」とか「そうだね」とか相槌しか出来ずに、特に話も広がらずに時間が過ぎた。
そんな冷たい僕の返答でも、白澤さんは嫌な顔をせずに僕の歩幅に合わせて歩いてくれた。
それは、3年前の夏の日と同じだった。
初めて白澤さんと二人で歩いた高校の坂道と同じように、お互いの視線を交差せずに、ただ横並びで歩いた。
僕はあの日と同じように今日も暑い日だったなと当時を思い出すのだった。
あの日の気持ちもあの日の関係も、二度と元に戻らないということが分かっていながら、思い出を懐かしみながら歩を進めた。
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