人の本性は、月の裏側に上手に隠れている
それから四日連続で、僕は物流倉庫の仕事についた。
そして、守口さんと正式に話をして、ここの軽作業を長期の派遣で続けていくことにした。
あまり必要性は感じなかったが、健康保険証も付与され、ようやく社会の一部として認められた気分だったこともあり、悪い気はしなかった。
順調に進み始めた僕の人生。
好き好んで人生のレールを自分からは踏み外したくはなかったので、慎重に石橋を叩いて渡りたい。
僕に再起のチャンスをくれた守口さんは神のような存在だった。
彼のようになりたいとは思わないが、心ではしっかりと感謝をしていた。
僕ができるのは、会社と守口さんに迷惑をかけないように就業をすることだった。
給与は引き続き手渡しの日払いにしていたので、まとまった額が手元にある安心感を覚えた。
口座を開設して、貯金を始めるのもいいかもしれない。
現金を持ち歩く必要性はないし、万が一のために東京では最低限のキャッシュを持っていたい。
働いているときだけは、かつてシイナという女性と学生の延長戦のような夢ごっこをしていることも忘れられたし、そういうこともあったと今となっては思い出話として片付けられている。
僕はシイナのいない人生を完全にスタートさせ、充実させていた。
顔見知り程度だが、たまに職場で軽く挨拶する仲間もできたし、チームリーダーとも非常に性格的に馬が合って、僕の仕事ぶりを評価してくれる。
意地悪なひともたまにはいるが、それは許容範囲内で想定内だ。
奇跡にも近い、ようやく見つけた貴重な居場所だった。
一ヶ月パチンコやギャンブルなど無駄なことに一切お金を使わず、最低限の衣食住にお金を費やして節約をしながら過ごしたら、具体的にアパートを借りる見込みも見えてきたところだった。
足立区辺りに木造のアパートを借りようと物件情報を探す楽しみもできた段階まで来た。
しかしやっぱり、神様は僕に安定を授けてくれない。
それは、倉庫で働きはじめて一ヶ月が経ったときに起こった。
忘れもしない。
人の本性が暴かれる瞬間目の当たりにしたのだ。
それは、僕が仕事に行くことを日常のルーティンとして受け入れ始めた時期だった。
いつものようにスーパーで安く仕入れたカップラーメンや水をバックパックに詰めて豊洲の駅に降り立った。
夜の21時になるとまとわりつくような暑さも大分和らいできて、活動を始めるには悪くない気温になる。
物流倉庫がある海側の方に歩いているときだった。
向こうから誰かが歩いてくるのが見える。
こんな時間にこんな人気がない場所を歩くのは、倉庫で就労するスタッフか犬の散歩か不審者くらいのものだ。
僕はいつものように伊達眼鏡が落ちない程度に下を向いて、なるべく顔を見られないように歩いた。
向こうから来る人影がどんなの容姿なのか全く見ないまま過ぎ去っていった。
今日は月末でオンラインショップでセールをやると聞いていたので、物量は単純に予想着地で五倍になり、とても忙しくなる。
最近では残業も好きなだけさせてくれるので、25割り増しの給与はとても財布に嬉かった。
僕は潤っていく財布の中身をイメージしながら、豊洲の風を切って物流倉庫に足を進めた。
そんなときに、僕の歩を止める声が後ろから聞こえた。
「…桶谷さん?」
周りには僕のその人以外見当たらない。
間違いなく僕に話しかけられたのが直感で分かる。
僕の名前を呼ぶその声に聞き覚えがあった。
その声は女性で、優しくて甘い紅茶のように僕の心を癒してくれるような魅力があった。
「…もしかして、白澤さん…?」
自分でも驚いたが、その人の名前を何年も口にしておらず、ほんの数秒前まですっかり頭から消えていたはずなのに、昨日まで遊んでいた友達のようにすりると唇からこぼれ落ちた。
間違いなく声に反応したのだ、僕の本能が。
「やっぱり!桶谷さんだよね?久しぶり!東京にいたんだ!元気だった?」
「あ、あぁ、…うん」
距離として20メートル。
暗闇を照らす唯一の街灯がその女性の姿を浮き上がらせる。
「白澤さんも東京にいたんだね。青森にいると思ってたよ」
「大学がこっちだから、さ」
言葉を選ぶようにゆっくりと話した彼女は、一歩一歩僕に近づいてくる。
「桶谷さんはどうしてここに?散歩か何か?」
「実は、僕は、この近くで働いていて、今から仕事に行くんだ」
「ああ、そうなんだ。夜遅くまで大変だね」
「そんなことないよ」
それじゃあ、とこの出会いを無かったことにするために、話が広がる前に別れを告げようとした瞬間だった。
「今度、良かったらご飯にいかない?桶谷さんの仕事のお休みとかにどうかな。この近くに美味しくて、良い店があるの」
「…うん、ちょっと考えてみる。ありがとう」
もちろん行きたい気持ちはあったが、行くつもりは全くなかった。
歯切れの悪さが彼女にも伝わっているにちがいない。
「ねぇ、連絡先交換しよう?」
「ごめん、携帯持ってなくて」
「そうなんだぁ、残念。昔から古風だよね、桶谷さんって。じゃあさ、明日、ごはんどう?仕事かな?」
「ごめん、明日はちょっと用事があって」
「うーん残念。せっかく会えたから色々話したいんだ。地元の友達こっちにいないからさ。それに、色々と謝りたいことも、あって」
なぜこんなにも白澤さんが僕を誘ってくれるのかは分からなかったが、もう僕には構わないでほしかった。
20メートルもあったあの距離は今や1メートルを切っている。
街灯の明かりで白澤さんの顔がはっきりも浮かび上がる。
「もう、大丈夫だよ。気使わないで。昔の話だし」
「だからなの。私、しっかり話せてない。桶谷さんに謝れていない」
「その話はもう僕の中で区切りをつけたんだ。もう大丈夫だから」
僕は白澤さんを振り切って、職場に向かって歩き始めた。
もう振り返らない。
最低な男だと自分でも思う。
僕に誠実性が少しでもあるのであれば、誠意を持って白澤さんの気持ちを丁寧に断り、白澤さんに嫌な思いをさせないようにこの場を締めくくるべきなのだ。
でも、今の僕にはその余裕がない。
ドクンドクンと心臓が強く打っているのが分かる。
痛いくらいに、白澤さんにも聞こえているじゃないかと思うくらいに、鼓動が体を駆け抜けている。
僕は白澤さんの顔もまともに見ることもなく、自分の足元に視線を戻して歩き出した。
ドッ
僕の体が急に前に傾いた。
思わずバランスを崩しそうになるが、何とか耐えた。
後ろから僕の体をしっかりと支える白い腕が僕のお腹のあたりに回されているのが見える。
「私たち、まだ終わってない。少なくとも、私はまだ終われていない。私、まだ桶谷さんのこと…」
その先は、言って欲しくなかった。
「分かったよ」
僕は白澤さんの言葉を遮るように返答をした。
そして、食事の約束をすることにした。
「じゃあ、明日、夜18時に駅で待ち合わせね」
「うん。分かった。明日18時に豊洲駅で。じゃあ、僕は仕事に行くから、これで」
そうして僕たちはまた暗闇の中にそれぞれ姿を消した。
白澤美並。
かつて僕たちは一瞬だけ恋人だった。
そして、すべての僕のはじめての人。
そして、僕の人生が狂ったきっかけを生んだ人。




