彼女を忘れることが僕にとっての今一番やること
シイナと別れた後、僕は当てもなくとりあえず地下鉄に乗り込んだ。
改札に入る前に、バックパックからだて眼鏡を取り出して、黒淵のだて眼鏡を顔にかけた。
なんとなくだが、このだて眼鏡があることで、心が落ち着くようだった。
東京の地下鉄は数分置きに来てくれるので、そこまで待たなくても次の電車がすぐにホームに到着した。
ホームはサウナのようなうだる熱気に満ちていて、電車が目の前を過ぎるときには熱風が肌を焼くようだったが、車内に入った瞬間に別世界のようにひんやりと心地よい空気が体を包んだ。
体が暑さから解放されると、幾分か気持ちが落ち着いて、シイナと喧嘩したことも少しずつ無かったことのようにできて
僕は空いている席の中で一番人目につかなそうな奥の席を見つけて、バックパックを抱くように小さく丸まって座った。
車内は学生らしい若い人や主婦、デート中のカップルや会社員など様々な人が点在していた。
しばらく曜日を意識した生活をしていなかったが、今日は土曜だと携帯電話の画面が後から教えくれた。
当てもないままさまようのもありだが、このままだと何処かに辺境の終点に着いて途方に暮れるのは嫌なので、ここはひとつ現実的に考えてとにかくお金を稼ぐことにした。
東京に住む家はないが漫画喫茶を転々をするとしばらくは食いつないでいけるし、溜まったお金が出来たら安いアパートを借りよう。
最悪公園での野宿も覚悟はできているから、とにかく今はシイナと使ったお金を取り戻すことにした。
(調子に乗って、パチンコで5000円も使わなければよかったな…)
後悔先に立たずという言葉を僕はここ数年で一番心の中で呟いた教訓だった。
僕は何でも良いのでこのモヤモヤした気持ちを仕事ぶつけて晴らすべく、携帯電話で求人を探し始めた。
僕が次に東京のコンクリートの上に立ったのは、新宿駅だった。
携帯電話で探した求人は選びたい放題なくらいたくさんあって、僕はその中でもあまり人と関わらないものがいいと思い、倉庫内での仕分け作業の仕事に応募した。
どうやらその倉庫は喉から手が出るほどに人が足りていないらしく、サイトから仕事にエントリーしたところ、五分と経たずに電話がかかってきて、次の駅で降りて折り返したところ、すぐにでも面接に来てほしいとのことだった。
電話口の担当者は男性だったが、物腰が柔らかくて言葉遣いも丁寧で印象がすごくよかったので、単発の仕事を探しているが条件が合えば長期でも働きたい胸を伝えたら、こちらも長く働いてくれる人を探しているので良かったらお願いしたいと、感触は好印象だった。
早速面接にということで、この後すぐでも構わないと担当者が言うので、その足で新宿のオフィスに向かった。
担当者は「モリグチ」という名前で、恐らく30代くらいの声だった。
幸先がいいなと僕はもうこのときすっかりシイナのことも半分忘れて、これからの自分の人生のことを考え出していた。
まだ僕も21歳だ。
人生やり直せる。
明るい未来が待っていることを祈って、雑居ビルの一角にあるオフィスにいるモリグチさんを尋ねた。
訪れたオフィスは五階建てビルの三階にあった。
エレベーターを降りるとフロアには3つの会社が入っているようで、僕がこれから行くのは派遣会社のスマイルスタッフというところだ。
受付のベルを押すと、奥の部屋から女性が出てきた。
「モリグチさんとお約束をいただいてる桶谷と申します」
待ち合わせ時間は13時であったが、それより前でもいいとのことだったので、12時45分にベルを鳴らしたが、受付の女性は営業スマイルで応接室に通してくれた。
「こちらの登録カードに必要事項を記入ください。本日は身分証明書をお持ちですか?」
「あ、はい。健康保険証があります」
「分かりました。お給与のお支払は日払いも月払いもできます。日払いの場合は、現金手渡しになりますが、ご希望はございますか」
「日払いができるのであれば、そちらでお願いしたいです」
「分かりました。それでは5分後くらいにモリグチが来ますので、それまでこちらの登録カードの記入を進めておいください」
40代くらいのそのパートらしい女性は慣れた口調で、若干機械的に説明をして静かに応接室から出ていった。
おそらく毎日何十人とこうした説明をしているのだろう。
作業的な説明で心は籠っているようには感じなかったが、それでも僕に職を紹介してくれるなら問題はない。
僕は目の間に置かれた登録カード呼ばれる紙に自分の名前や住所、過去の職歴を始めた。
心の中に時おりよぎるシイナの表情をなんとか忘れるために、必死になって意識を集中させた。
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