第2話 『希望は炎と共に』
どれくらい歩いただろうか。
景色が変わらないせいで、時間感覚も狂って来たみたいだ。
「すいませーん!誰か……い、いませんかー…」
掠れた声で自分以外の誰かに向かって呼び掛ける。
もはや何度目の呼び掛けか分からなくなってきた。
俺はあれから宛も無く、ただひたすら森を歩いていた。
「はぁ……どうなってんだよ」
いきなり大量の化物達による殺人会場に飛ばされて、逃げれたと思えば、お次は見知らぬ森に飛ばされて
「喉、乾いた…」
挙句の果てには喉の乾きに襲われて死にそうになるなんて、俺は前世で一体何をしたというのだろう
建物も、川すら見つからず、人などもちろん見当たらない。携帯も相変わらずの圏外だ。
何の進展も無い状態で途方に暮れる。
そして自販機で飲み物を買えていれば、と。
自らの金銭の管理の杜撰さを恨む。
(こんな事になるって知ってたら、奮発してゲームソフト三本まとめ買いなんてしなかったのに……後悔先に立たずってやつか)
そんな事を考えていた時────、
がさり
と草が揺れる音が後ろからした。
驚き振り返る、が音の主は見当たらない。
木々が乱立しているせいで視界が悪い。
「誰かいるのか?」
問いかけても返事はない。
何かに見られているような、まとわりつく様な視線を感じながら辺りを確認するが、一向に姿は見えない。
だが森の風に乗って、奇妙な匂いが流れて来たのに気が付いた。
何処かで嗅いだような匂いだ、まるで獣の様な。
(いや、まてよこの匂い……さっきの広場の─────、)
再び後ろからパキッと木の枝を踏み割る音が鳴る。
先程とは違いかなり近くから聞こえた。
(後ろに、何かがいる)
唾を飲み込み、ゆっくりと振り返る。
森の樹々が視界に入り左から右に流れてゆく。
だが突然二つの血のような赤が視界を覆った。
(血?違うこれは…)
低い唸り声が眼前の赤がゆらゆらと揺らぐのと同時に森に響き渡る。
その正体に気付き思わず後ろに飛び退く。
「目……ッ?!」
左腕に鈍い痛みが走り、宙に浮く感覚に襲われる。
瞬間、衝撃が背中に伝わり激痛が走った。
そのあまりの勢いに肺が押し潰されたのか、俺は強引に咳き込まされ、樹に激突したというのを薄く理解しながら、その反動で前のめりに地面に落ちた。
「ガハッ……」
肺の中の空気が衝撃で押し出され呼吸が出来ない。その場で蹲り酸素を求め必死に呼吸をしようとする
(息が……)
徐々に口の中に鉄の味が広がる。頭も打ったのか、ぐらぐらと視界が安定しない。
再び低い唸り声が聞こえる。
頭が痛くなるほどの痛みが全身を駆け巡る中、なんとか息を整えながらゆっくりと顔を上げ、それを見た。
人と狼を混同させたような生物。
狼男が実際にいたらこんな感じなのだろう。
だが、コイツは見た事がある。
あの闘技場の様な広場で他の人達の喉元を切り裂き、噛みつき、殺戮を繰り広げていた化物だ
二本の足で立ち、黒い毛に覆われた両手には鋭い爪が備わっていて、左手には血が滴っている。
「俺を追って……来たのか……?」
《グルルルル……》
狼は返事するかの様に低く唸った。
周囲の樹と比べても、全長三メートルはあるように見える体躯に、そして薄暗い森の中でも存在を主張する赤く輝くルビーのような目。
俺が見た二つの赤は、その狼の両目だったようだ。
(何が起きた……?あいつに、吹き飛ばされたのか?)
ふらつきながらもなんとか状況を整理しようとするが、すぐに思考が痛みに上書きされて、考えが纏まらない。
(考えるのは後だ……早く逃げなきゃ……)
しかし、身体を起こせない。
それでも、狼から視線を外さずに這いずって、なんとか逃げようと試みる。
だが狼は同じように、俺から視線を外すこと無く。
並行に移動しながら慎重にゆっくりと迫ってくる。
(マズい、マズい。なんとか離れなきゃマズい!)
焦燥感に身を焼かれながら、走って逃げようと左手を支えに起き上がろうとする。
しかし────、
鈍い音と共に、俺の身体は地面に吸い込まれるように落下した。衝撃が頭を駆けて意識が明滅する。
「うぐっ…」
何が起きたのか分からなかった。
うつ伏せに倒れたまま顔を動かし左手に目をやる。
「嘘…だろ…」
肘は逆に曲がり、そこからは血によって赤く彩られた白い骨が顔を覗かせている。
変わり果てた左手の姿が、そこにはあった。
肘より下は感覚を感じない。しかも最悪な事に、今身体を起こすための支えにしたせいで、さらに皮膚が千切れ傷口が広がったようだ。
「ん……?」
そして、俺はふと視線を胴体に移す。
腹部からは血が溢れていた。
(あれ?これって……)
─────切り裂かれている。
視界に入れてしまったからなのか。
あるいは急激に分泌された脳内麻薬の効果が切れたからなのかは分からないが、尋常ではない痛みが身体中を襲う。
腹部が、まるで焼け付く鉄を絶え間無く押し付けられているように熱い。
思わず叫び声を上げそうになるが、痛みに呼吸が乱れ、悲鳴すらままならない。何とか落ち着こうとするが、自分の意志とは関係なく呼吸が激しくなるのが分かる。
流れる血が身体から熱を奪っていく、気味の悪い寒さが身体に忍び寄ってくる。
「これ……死ぬんじゃ……」
頭から水が垂れてくる感覚、右目に何かが流れ込む。
─────血だ。
右目の景色は赤く染まり、左目との色彩の差で視界がボヤける。
恐らく木にぶつかった時に頭の皮膚が切れたのだろう。
「ちくしょう……なん、なんだよマジで……俺が何したって……」
赤く染まった涙を流しながら呟く。
恨み言すらままならない、脳裏に浮かんだ言葉は痛みに次々とかき消されてゆく。
「逃げ……なきゃ、そんな簡単に、死ぬ訳……ない」
自分を鼓舞しながら、なんとか無事な右手を使い地面を這うように狼から少しでも離れようとする。
ザリッ
と、草が擦れる音がすぐ側で聞こえた。
恐る恐る、地面から視線を上げる。
黒い針金の様な毛に覆われた足。
気が付けば、狼は俺の目の前に佇んでいた。
「っ………」
息を呑む。
恐怖か多量の出血によるものか分からない。しかし、身体は震え、視界はボヤけ、絶え間ない吐き気が襲いくる。
そんな俺を狼は品定めする様に、身体の足から頭までを一通り見回し─────、
《グルルルル》
と、まるで地の底から響いてくるような唸り声をあげた。動けない俺に俺の血が滴っている左手が、ゆっくりと伸びてくる。
「ひっ」
思わず悲鳴を上げた。
狼は俺の首を掴み、自分の目線まで持ち上げると顔を覗きこんできた。
荒い鼻息を感じる。
目の前の狼の口からは涎が大量に垂れ、隙間から覗くぬらぬらと濡れる牙は、幾つもの命を奪ってきたのか様に血で赤みがかっている。
狼は嬉しそうに舌舐めずりしている。
その端まで裂けた口は笑っているように見えた。
どこかで見たような笑いだった。
その時、身体の痛みが消えた。
─────お前のせいだぜ?
忌々しい男の声が脳内に響き渡った。
腹部が怒りで更に熱くなるのを感じる。
「知らない場所に飛ばされて、こんな奴に遊ばれるように殺されて終わりとか……そんなの、ありえねぇだろ……」
「?」
口から零れる怒りの言葉。
言葉の持つ意味が分からないのか化物は、ニヤニヤと口元を歪めながら首を傾げる。
「笑ってんじゃ……ねぇよ!」
俺は口の中に溢れる血を、自分を見つめる忌々しい目玉に吐きかけた。
《ッ?!ギャァァア!!》
つんざくような悲声を上げながら、狼は俺を投げ飛ばし、目を抑え、よろめきながら飛び退いた。
「ぐっ!」
投げられた勢いで最初にぶつかった樹に再び激突する。
ズルズルと背中が樹に擦れ、まるで座り込むように地面に落ちる。
背中の骨にヒビでも入ったのかと思う程の激痛が走り、俺は顔を苦痛に歪めさせられる。
一方狼はそんな俺の苦しむ姿を見ることなく、目を抑えながら未だに後ずさりしている。
俺からの反撃を恐れているのか、周囲の空中を手で切りつける様に振り回している。
「……あ、はっは!」
俺は、笑いながら醜態を晒す捕食者に声をかけた。
「美味しく食べる……はずだったのになぁ……ッ!とんだ災難だな……!」
気を失いそうな痛みを我慢しながら、言葉を紡ぐ。
口から溢れる血で言葉が所々詰まる。
頭から流れる血も相まって、俺は真っ赤に染まった顔で、アドレナリンに後押しされ、ヘラヘラと笑みを浮かべ、そう言った。
狼はガシガシと黒い毛で覆われた腕で目を擦り、目に入り込んだ血を取り除いた。
奴は恐らく、俺の発言の意味など一ミリも理解できなかっただろう。
しかし、その笑みのもつ悪意と侮辱の意志は十分に理解したようで─────、
《ガァルルァァァァァァ!!!》
獣は咆哮した。
食料だと思っていた相手からの小さな反撃。捕食者としての尊厳を傷付けられたのだろうか。
怒り狂う狼は近くの樹を二、三度殴った。
すると樹は衝撃で、内側から外側に弾ける様に容易く砕け折れた
「ま、まじかよ……俺、よく一撃で死ななかったな」
その狼の怪力を見て、俺は自分の耐久性の評価をC-からCくらいに改める。
そして、なんとか身を捩り再びその場から逃げようとするが、相も変わらず全く身体は動かない。
狼は樹を薙ぎ倒すとこちらに向き直り、俺を正面に見据え、両手を地面に着けた。
四肢を地面に置く姿は、まさに俺が知る狼であった。
血が入り込んだ事により、先程よりさらに赤みがかった目玉には獲物─────、
すなわち、俺しか映っていない。
それを見て次は本当に殺される事を悟る。
激痛に何度も意識を飛ばされそうになるが、狼の余裕な顔を一瞬でも崩せた事に不思議な満足感を得ながら呟く。
「結局……新作ゲーム、箱から出してないんだよな……」
こんな時に考えるのは、くだらない事だった。
しかし、どんな心残りを口にしたとしてもすでに遅い。痛みは酷くなる一方で、なんで自分がショック死しないのかが不思議な程だ。
腹部の血は止まらず、立ち上がろうと腹筋に力をいれて身体を支えようとしても、入れた先から力は抜けて微塵も動けない。
俺はそんな自分の有様を
「最悪だ」
と嘲りながら呟いた。
思えば色々と至らない事が多い人生だった、生まれて来て良かったなどと感じたのは片手で数えられるくらいだろう。
「次に生まれ変わるなら……猫とかがイイな」
俺は死んだ後の転生希望を、まるで遺言の様に告げた。
それに反応する様に狼の足は一瞬大きく膨れ上がると地面を深く踏み砕き、跳躍した。
《ガアアアァァァ!!》
再び咆哮が響く。
先程とは違い、形振り構わずとてつもない勢いで人狼は飛びかかってきた。
俺は惨たらしく訪れるであろう死を覚悟し、
そして─────、
「我が炎は光りて爆ぜる……『豪炎球』!!」
鈴の音の様な美しい声が響いたと同時に、飛びかかる狼は炎に包まれた。