Prologue
それは、人生最大の過ちだった。
淡々と流れる日常の、自分が今は起きていると明確に認識している数十時間の内の二、三分。今日も満遍なく平凡に過ごし、将来役に立つのか不安な学業を終え帰路に着いたときのことだった。
日もすっかり影を落とした冬の午後六時。小さな駅のホームには自分と同じく帰路に着いた名前も知らぬ人達が、白線の内側にくたびれた様子の両足を収め、今か今かと下り線の電車を待ち呆けいてた。
自分も随分と前からそれを待っている。錆の浮いた柱に背中を預け、かれこれ十分以上もの間、目の前にデカデカと広告された"中野クリニック"の看板をボーッと眺めていることに気付く。
田舎の駅は電車一本毎のスパンが長い。
来た時には誰もいなかったホームにはすっかり人が溢れ返っている。誰もかれも、音楽を聞いたり本を読んだりして自分の世界に入り込んでいる。
『次は〜下り、東町行きです。 白線の内側でお待ちください』
当たり障りのない業務的なアナウンスが流れる。左手の方を見ると、遠くの方にボディの赤い三両編成の電車が二つの黄色いランプを点灯させホームに流れ込もうと、カンカンと鳴り響くサイレンの音と共に速度を緩めようとしている。
やっと来る。早く車内の暖かい空気に触れたい。
それまで列のなかったホームの先頭に立つ。それにつられ、眼鏡を掛けた七三分けの初老の男性が自分の横で先頭を作ろうと移動してきたのが横目に見えた。
『ガガ……白線の内側に内側にてお待ちくく……だ……』
アナウンスが壊れたラジオのように流れる。
なんだ?故障か?
君の悪い故障の仕方だと感じた。その後も、スピーカーからは不気味なアナウンスが止まらない。白線、白線と何度も注意を呼びかけている。
胸騒ぎがする。腰の辺りから寒気が登ってくるのを感じた。気温のせいでは無い。何かがおかしくなっていくのが辺りの雰囲気から伝わってくる。背中までよじ登ってきた悪寒は、じんわりとした暖かさを残し首筋の部分で消える。
「あの電車、何かおかしくないか?」
どこからか一人の男性がポツリと言葉を漏らした。
先頭に立っていたので電車の様子が良く確認できた。確かにおかしい、電車のライトが一定の感覚で点滅している。レールの上を通り過ぎる音が近付いてきたが、その音はいつになってもうるさいままだ。
「暴走してるんじゃないか!?」
「駅員さーん! あのままだと通り過ぎちゃうわよー!」
周囲がざわつき始めた。
『内側で内側で内側で、白線の内側で……』
異様な雰囲気を感じ、横一線に並んでいた人達は次第に白線から遠のき始めた。それを見て自分も足を一歩後ろへと下げる。未だに狂ったように流れるスピーカーからのあれが、心臓の鼓動を速めようと掻き立てる。
後ろに人の足が無いのを確認し、二歩目を後ろに下げようとした。その時だった。
「う、うわああ!」
「お、おい! 人が落ちたぞ!」
悲鳴がホーム内に反響した。
誰が?辺りを見渡す。
自分の目に見えたのは先程、隣に立っていた眼鏡の男性の引きつったシワだらけの顔と、もたれ掛かっていた錆の浮いたペンキの剥げた柱だった。数秒後、頭に鈍い音と間隔の長い痛みが駆け巡った。
「あぁっ……一体……はぁはぁ……」
体中に痺れと細かな振動が駆け巡る。
足元で何かを蹴った。視界が白く霞みそれが何かは分からない。ただ痛みと耳障りな鉄を引っ掻いたような甲高い音が頭の中を駆け巡った。
「君! 早く上がるんだ!」
遠くの方で誰かに呼ばれた気がした。
その声を聞き、視界が元に戻る。
「……線路?」
状況をやっと、頭の中にドロドロの液体が溶け込んでくるような感覚と一緒に分かり始めた。一拍置いてハッキリと分かった。僕は落ちたんだ。今、目の前には電車の眩いライトが数秒前の時速を保ちながら突進してくるのが見える。
女性が大口を開けて悲鳴を上げる。中学生ぐらいの男の子がマジマジと僕を見つめている。眼鏡の男性は目を逸らしていた。その隣ではさっきまで僕のいた場所に若いサラリーマンが立ち白線を大きく乗り出し右手を差し伸べ叫んでいる。
僕は立ち上がろうとしたが、足に力が入らない。
終わりだ。あの君の悪いアナウンスがレクイエムのように流れ続けている。これ現実なのか分からなくなる程、僕の頭の中は冷静に、しかし混乱していた。
『白線の内側に……白線の内側で……こちらに……』
走馬灯が流れる暇も与えず、その衝撃は轟音と共にほんの一瞬だけやってきた。
電車の赤いボディが頬に触れた。
本当に一瞬だが、そう感じたように思えた。
暗転し、無の光景と、一閃の耳鳴りがした。
冷たい。寒い。じんわりと暖かい。気分が悪い。薄れ行く意識の中で僕は失意と絶望に胸を苛まれた。




