第13話 リリーの疑い
牡蠣の漁業権をめぐって、二つのギルドが激しく争っていた。
その仲裁役として呼ばれたのが、ディアーヌだった。
「俺は何十年とここで牡蠣を育ててきたんだ! 今さら、よそから来た奴に口出しされる筋合いはねえ!」
「何十年やってきたかは知らないが、法外な値段で売っているそうじゃないか。私なら、もっと適正な価格で流通させられる」
「なんだと!」
「まあまあ……」
二人とも、相当頭に血が上っている。
ディアーヌは静かに二人を見比べた。
古くからこの土地で牡蠣を育ててきた者と、新しい流通網を持つ者、どちらにも言い分がある。
しかし、このままでは話が進まない。
「お二人とも、少しよろしいでしょうか」
ディアーヌが口を開いた、そのときだった。
「だから俺は――!」
男が勢いよくテーブルを叩いた。
ガシャン!
「……あ」
テーブルの上に置かれていた紅茶が大きく揺れ、カップが倒れる。
次の瞬間、熱い紅茶がディアーヌのドレスへと降り注いだ。
「……」
場が凍りついた。
「……ディ、ディアーヌ嬢……これは、その……」
「お気になさらないで」
ディアーヌは何事もなかったかのように微笑んだ。
「それより、漁業権についてですが」
「は、はい……」
「共同の組合を作るというのはいかがでしょう」
二人が顔を見合わせる。
「牡蠣の販売価格については、組合で共通の基準を設ける。その一方で、実際に採った牡蠣については、それぞれの取り分として利益を得る」
ディアーヌは淡々と続けた。
「長年この土地を守ってきた方には、その経験を生かしていただく。流通に長けた方には、その力を生かしていただく。互いの得意分野を奪うのではなく、共通のルールの中で、それぞれの働きが利益になるようにするのです」
しばしの沈黙。
やがて、古参の男が腕を組んだ。
「……それなら、俺にも損はない」
もう一人も頷く。
「私も異論はない」
「では、決まりですね」
ディアーヌが微笑む。
「これにて一件落着です」
誰もが息を呑んだ。
たった一言で、あれほど険悪だった二人をまとめてしまった。
まさに、鶴の一声である。
「さすがディアーヌ様だわ」
少し離れたところで、夫人たちが囁き合っていた。
「見た? たった一言で場の流れを変えてしまったわ」
「しかも紅茶をかけられても、動揺ひとつ見せなかったでしょう?」
「まあ……私なら泣いてしまうわ」
「でも、あの人って愛想ばかり振りまいて、実際は何を考えているかわからないのよね」
「そうそう。なんだか完璧すぎて、不気味なくらい」
「完璧な人間なんているわけないでしょう」
そこで別の夫人が、得意げに声を潜めた。
「休日なんて、ずっと家に引きこもっているらしいわよ」
「まあ!」
「あんなに華やかな方が?」
「意外ねえ」
そのとき、噂の中心人物がこちらへ歩いてきた。
「ディアーヌ様」
「ごきげんよう」
「相変わらず華美なドレスをお召しで」
「お褒めいただき、光栄ですわ。レディング夫人もご機嫌麗しゅう存じます」
にこやかな挨拶。
完璧な微笑み。
その姿を見て、夫人は少し意地悪く笑った。
「それにしても、唯一の癒やしが引きこもりだなんて、ずいぶんおしとやかなのですね」
「……」
「私なんて、主人が休みになるたび、クルージングだの南国だのと連れ回されて、もう参っちゃいますもの」
明らかな嫌味だった。
しかしディアーヌは気にした様子もない。
「ええ。お察しの通り、内気なもので」
そう言って、微笑む。
(引きこもり……。またそんな噂が流れているのね)
別に構わない。
実際、休日に外へ出ることは少ないのだから。
ただし――
(『アレ』があるから、頑張れる)
ディアーヌの脳裏に、ひとつの予定が浮かぶ。
(真衣との小旅行……!)
それを思うだけで、頬が緩みそうになる。
(初めての、トウキョウ以外の場所……!)
ああ。早く休日にならないだろうか。
そう思っている間にも、彼女の周囲には人が集まってくる。
「ディアーヌ嬢、聞いたよ。今日は休日だそうじゃないか。どうだね、私と食事でも――」
「申し訳ありません。野暮用がございまして」
「そうか。では、また今度」
少し歩くと、今度は別の侯爵が声をかけてきた。
「やあ。あんなおじさんに誘われて、君も大変だね。どうだい、気晴らしにドライブでも」
「お誘いいただき光栄です。またいつか」
「つれないなあ。一度くらい、いいじゃないか」
「まあ。困りましたわ」
優雅に微笑みながら、その場を離れる。
また一人。
また一人。
どんな身分の男から声をかけられても、ディアーヌは華麗にかわしていく。
彼女にとって、色恋などどうでもよかった。
今はただ――
(真衣はどこへ連れて行ってくれるのかしら)
それだけが楽しみだった。
そんなわけで、洒落た服を着こなす若い紳士も、お金と時間を持て余している侯爵も、ディアーヌの休日を狙う求婚者たちは、ことごとく撃沈していった。
そして、その様子をじっと観察している令嬢が一人。
リリー嬢である。
お茶会では愛らしく振る舞い、誰にでも甘えるような口調で話す彼女だったが、ディアーヌに対しては、以前から妙な対抗心を抱いていた。
(おかしい……)
リリーは思った。
(あんな美人が、色恋のひとつもないなんて、おかしいわ!)
男たちから引く手あまた。
それなのに、誰にも靡かない。
休日の予定を聞けば、いつも「野暮用」の一言。
(絶対に何かある……!)
そして、ある休日。
リリーはついにディアーヌの後をつけることにした。
(秘密の恋人がいるのかしら? それとも、どこかの殿方と密会を……?)
慎重に後を追う。
廊下を曲がる。階段を下りる。
そして――
「あら?」
一瞬、リリーは目を疑った。
ディアーヌが入っていったはずの部屋から、一人の人物が出てきた。
みすぼらしいズボン姿。
上着も簡素で、とても貴族には見えない。
(……誰?)
リリーが目を凝らした、その瞬間。
その人物はさっと角を曲がって姿を消した。
「待って!」
慌てて追いかける。
しかし――
いない。
「え……?」
廊下の先は行き止まりだった。おかしい。
確かに、ずっと追っていたはずなのに!
リリーは近くにいた女官を呼び止めた。
「ねえ。ディアーヌ様は?」
「ディアーヌ様ですか?」
「ええ。今、このあたりにいらしたでしょう?」
女官は首を傾げた。
「いいえ。ディアーヌ様でしたら、もうとっくにお出かけになっていますが……」
「……え?」
そんなはずはない。ずっと後を追っていたのに。
では、あのズボン姿の人物は一体誰だったのか。
リリーは呆然と立ち尽くした。
(いや。まさか……)
謎は、ますます深まるばかりだった。




