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双傘の令嬢は破滅を覆す  作者: しょぼんスライム


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第四十五話 錨は、岸をひとつにしない

境界錨は、海の底から浮かぶ古い門のように見えた。


 青い境界航路の先。


 第三の窓の向こう。


 白い救難灯を囲む、黒い円環。


 円環はゆっくり回っている。


 回るたびに、待機域の海が少しだけ引かれた。


 白いリボンの影たちがいる小舟は、灯りのそばで揺れている。


 だが、黒い円環の外側には、二つの岸が映っていた。


 左に、真琴のいる元の世界。


 右に、黄昏島を含む現在の世界。


 黒水は、錨を二つの岸ではなく、三つ目の檻へ変えようとしている。


 双月まで、残り二時間四十五分。


「境界錨は、本来なら何をする装置なんだ」


 アマンテルスが問う。


 黒い日傘を閉じ、第三の窓の白い縁へ立つ。


 その目は、待機域の小舟から離れない。


「避難した船を、その場に留めます」


 ノエルが答えた。


 結晶板には、黒い円環の構造が細い線で映っている。


「嵐や境界の揺れで、どちらかの岸へ勝手に流されないように。移送先が確認できるまで、船と人を、救難灯の周りへ係留する」


「それなら、壊すわけにはいかない」


 リゼットが言った。


「壊せば、あの人たちは……」


「待機域ごと流されます」


 ノエルは頷いた。


「そして、黒水を残せば、待機域を第三の世界として固定する。そうなれば、あの人たちは避難者ではなく、どちらの世界にも属さない“残される者”にされる」


 黒水が、第三の窓の内側に文字を浮かべた。


 **一つの岸を選べ。**


 **待機は、決定ではない。**


「違う」


 フィルブランテが言った。


 白い手帳を開く。


「待機は、まだ決められない者を、勝手に決めないための手順です」


 黒水の文字が、少しだけ滲んだ。


 けれど円環の回転は止まらない。


「錨の構造を見せてください」


 フィルブランテはノエルへ言う。


「黒水が、どこへ繋がっているのかを」


 結晶板が、青い光を広げた。


 境界錨には、三つの環が重なっている。


 外側の大きな環。


 中ほどの細い環。


 そして、中心にある小さな環。


「外環は〈係留環〉。船や人が、嵐で流されないためのものです」


 ノエルが一つ目を指した。


「中環は〈照合環〉。待機域にいる者の所在の印を、二つの岸へ知らせる。名前が言えなくても、灯りや音、手形で、そこにいることを伝えるためのもの」


「中央は」


 シリルが問う。


「〈渡航環〉です。本人が渡れると確認でき、受け入れる岸にも同意がある時だけ、移送の道を開く」


 黒水は、三つの環のあいだへ入り込んでいた。


 外環と中環を、太い黒い鎖で結び。


 中環と渡航環を、黒い針で縫い合わせている。


 係留すること。


 所在を知らせること。


 渡ること。


 本来は別々だった三つの手順が、一つの命令へ押し潰されている。


 **留まる者は、渡る岸を選べ。**


 黒水は、そう言っている。


「やっぱり、選別のやり方だ」


 アマンテルスが言う。


「留まらせるなら、どこへ行くかを今決めろ。助けるなら、今すぐ一つへ寄越せって。全部を一緒にして、急がせてる」


「黒水を、三つの環から外す」


 フィルブランテが言った。


「錨は壊さない。係留と照合と渡航を、元に戻す」


「方法はありますか」


 リゼットが訊く。


「あります」


 ノエルは答えた。


 すぐに、しかし小さな字を加えた。


「ただし、危険です」


 結晶板の上に、三本の線が現れる。


 外環から、黄昏島へ。


 中環から、各地の連記窓へ。


 渡航環から、二つの岸へ。


「黒水は、誰か一人が“錨の管理者”になることを待っています。管理者が三つの環を一度に操作すれば、黒水はその者の判断を使って錨を固定できます」


「つまり、誰か一人が触ったら負けか」


 アマンテルスが言う。


「厳密には、触れる者が一人だけなら危険です」


 ノエルが答える。


「三つの環を、別々の人が別々に扱い、しかも操作の理由が記録されれば、黒水は一つの裁定へまとめられない可能性が高い」


「可能性」


 フィルブランテが復唱した。


「はい。境界錨が、何人の操作を受け入れるかは、まだ分かりません」


「分からないなら、先に聞く」


 アリスが言った。


 雲鍵を持つ手は、少し震えている。


 でも、その声は揺れていなかった。


「待機域にいる人たちに。錨を守るために、今、私たちが何をしていいか」


「名を聞かずに?」


 ザハルが問う。


「名を聞かなくても、聞けることはあります」


 アリスは答えた。


「今、灯りを守ってほしいか。船を留めてほしいか。渡る窓を開いてほしいか。全部は答えられなくても、印なら送れるかもしれない」


 ザハルは、第三の窓を見た。


 白いリボンの影。


 小舟のそばにいる、名を知らない影たち。


 彼はミアの名を呼ばなかった。


「分かりました」


 それだけを言う。


     ◇


 第三の窓の前に、三つの白い板が浮かんだ。


 一枚目には、舟の絵。


 二枚目には、灯りの絵。


 三枚目には、開いた門の絵。


 フィルブランテは、ゆっくり説明する。


「ここにいる者へ。私たちは、皆さんをどこかへ勝手に送るために、窓を開くのではありません」


 言葉は、声だけでは届かない。


 アリスの雲が、絵と一緒にやさしい光の形へ変えていく。


「舟を今の場所へ留めてほしいなら、舟の絵へ印を。灯りの場所を知らせてほしいなら、灯りの絵へ印を。もし、渡る窓を今開いてほしいなら、門の絵へ印を」


 青い境界航路の海は、静かだった。


 白いリボンの影が、最初に動く。


 小さな手が、舟の絵へ伸びる。


 その指先から、淡い白い光が一度、二度、三度。


 舟の絵に触れた。


 次に、別の影が灯りの絵へ光を送る。


 門の絵へは、誰も触れない。


「係留と照合」


 ノエルが言う。


「今は、渡航を求めていない」


 黒水が、激しく揺れた。


 **答えられない者の印は、無効。**


 **移送を求めない者は、残されることを選んだ。**


「違います」


 フィルブランテが、黒い文字へ言った。


「今、渡る窓へ印がないことは、移送を拒んだという意味ではない。今は渡航を確認できない、という意味です」


 彼は手帳へ書く。


 **待機域の者:係留と所在照合を希望。渡航の意思:未確認。未確認を拒否へ読み替えない。**


 白い文字が、第三の窓に残る。


 黒水の文字が、それを飲み込もうとする。


 しかし、待機域の小舟のそばで、白い灯りが大きくなる。


 灯りの中から、細い青い線が外環へ伸びた。


「錨が、答えています」


 アステリアが言った。


 灯鍵が、青い線に反応する。


「係留環が、今の記録を受理しました」


 外環の黒い鎖が、一つだけ軋んだ。


 黒水は、鎖を強く締める。


 第三の窓の海が、急に高く盛り上がった。


 待機域の小舟へ、黒い波が走る。


「シリル!」


「行く」


 シリルが槍を構える。


 しかし、第三の窓の内側へ体を入れようとした彼の前に、黒水の文字が立ち上がった。


 **救助者一名、待機域へ入域。**


 **管理者候補として登録。**


「入るな!」


 ノエルが叫ぶ。


 シリルは、窓の縁で足を止めた。


 黒水は、救助のために入る者を、一人の管理者にしようとしている。


 彼が入れば、係留環と照合環と渡航環を、救助者として一人で背負わされる。


 それは、いままで何度も壊してきた罠と同じだった。


「身体を入れずに、波を止める」


 アマンテルスが言った。


 黒い日傘を大きく開く。


 影が、第三の窓の縁へ広がった。


 海を切る壁ではない。


 波の勢いを分ける、柔らかな堤のような影。


「フィル。波の行き先、読めるか」


「読んでいます」


 フィルブランテの晶析眼が、黒水の流れを見抜く。


 波は小舟を沈めるためだけに来ているのではない。


 白い救難灯を消し、待機域の所在を見失わせるために来ている。


「灯りが先です。船を引く前に、灯りを守る」


「リゼット」


「はい」


 リゼットが両手を重ねる。


 白い花の光が、第三の窓の海へ落ちる。


 火ではない。


 熱でもない。


 暗闇の中で、互いの位置だけを知らせる小さな花びらの灯り。


 黒い波は、花びらを飲み込もうとする。


 しかし花びらは、消えない。


 波に流されながら、白い救難灯の周りで輪になった。


「灯りの数が、増えました」


 アリスが息を呑む。


 待機域の小舟のそば。


 白い灯りが一つ。


 二つ。


 三つ。


 そして、雲から落ちた花びらの灯りが、周りの舟影を照らしていく。


 先ほど見えなかった小さな舟が、二艘。


 少し離れた岩陰に、救難帆のような白い布。


「七人以上ではありません」


 ノエルが言う。


「少なくとも、十四の所在の印があります」


 黒水が、すぐに数を文字にする。


 **十四名。救助優先順位を定めよ。**


「優先順位を、人数だけで決めない」


 フィルブランテが答える。


「いま必要な情報を聞きます」


 第三の窓へ、また三つの絵が送られる。


 水。


 布。


 灯り。


 今度は、さらに二つ。


 傷の手当て。


 舟を繋ぐ綱。


 待機域の影たちが、次々に印を送る。


 水。


 水。


 綱。


 布。


 傷の手当て。


 灯り。


 門の絵へは、まだ誰も触れない。


 誰も、今すぐどちらの世界へ渡りたいかを選ばない。


 でも、皆が何も言っていないわけではない。


 今、必要なものを伝えている。


 今、留まりたいと伝えている。


 今、誰か一人のために他の者を置いていかないと伝えている。


「受け取った」


 マレアの声が、アウローラの窓から響いた。


『水と綱は、こっちから送れる。船の応急手当てもだ。薬草の使い方は、薬園へ聞く』


「夜嶺からは、係留用の影糸を送る」


 カイラスの声が続く。


『船を引くためじゃない。潮に流されないよう、結ぶための糸だ』


「学院は、応急処置の絵と記号を作ります」


 リゼットが言う。


「言葉が届かなくても、どうすれば傷口を守れるか、分かるように」


「帰岸庫は、待機域の灯りと、照合できる古い救難船の記録を探す」


 ルカの声が届く。


『名前がなくても、舟の形や帆の印で分かるかもしれない』


 それぞれが、できることを言う。


 そして、できないことも言う。


 誰も、全員を今すぐ救うと約束しない。


 だからこそ、約束したことは届く。


 第三の窓の海へ、白い蒸気の水が流れた。


 救難帆の繊維が、長い綱になって落ちる。


 薬園の印が、傷の手当ての絵として届く。


 夜嶺の影糸が、小舟と白い救難灯の根元を結ぶ。


 待機域の影たちが、それを受け取る。


 白いリボンの影も、綱の端を持った。


 小さな手。


 だが、隣の影と一緒に。


 誰か一人が、全てを支えてはいない。


     ◇


 係留環の黒い鎖が、二つ目の音を立てた。


 黒水が、外環から引き剥がされかけている。


 しかし中環――照合環の黒い針は、より深く刺さっていた。


 その針の先は、各地の連記窓へ伸びている。


 黒水は、待機域の所在情報を使って、また役割ごとの混線を始めようとしている。


 白いリボンの影の手。


 真琴の手。


 ミアの古い記録の手。


 似た傷。


 似た小ささ。


 似た待つ者の願い。


 黒水は、それらを一つへまとめようとする。


 **待つ母。**


 **待つ兄。**


 **待たれる子。**


 文字が、照合環を黒く覆った。


「役割の照合を、所在の照合に混ぜている」


 ノエルが言う。


「誰がどこにいるかを知らせる環へ、“誰が誰であるべきか”を押し込んでいる」


「なら、所在だけを記す」


 フィルブランテが言った。


「関係や役割は、今、照合に使わない」


 彼は、白い手帳を開く。


 これまでの記録には、名前がある。


 家族がある。


 関係がある。


 それらは大切だ。


 だが、今この瞬間に、似た者を一つにしてしまう黒水に対しては、まず「そこにいる」という事実だけを守らなければならない。


「待機域の照合記録を、四つに分けます」


 フィルブランテが言う。


「灯りの位置。舟の形。人数の印。今必要な救援。名前、年齢、血縁、帰還先は、本人が自分で示すまで書かない」


「ミアの可能性も?」


 ザハルが訊く。


 その声は、苦しそうだった。


「はい」


 フィルブランテは答えた。


「今は、書きません。似た傷は、本人確認ではない。あなたが待っていることも、本人の帰還先を決める理由にはならない」


 ザハルは目を閉じた。


 その言葉は痛い。


 だが、彼は拒まなかった。


「記してください」


 彼は言う。


「私の願いは、所在照合の根拠にしないと」


 白い文字が、中環の上へ浮かんだ。


 **照合は、所在と救援を確認する。関係と期待を本人確認の根拠にしない。**


 ザハル自身の名の横にも、小さな補記が加わる。


 **ミア・クローディスへの親族的願いを有する。照合者ではなく、証人の一人として参加。**


 黒水が、文字を飲み込もうとする。


 だが、アリスの雲鍵が、その文字の上へ薄い雲をかけた。


「願いを消すんじゃない」


 アリスが言った。


「願いを、鍵にしないだけ」


 中環の黒い針が、一本抜けた。


 黒水が、甲高い音を立てた。


 その音の中に、数えきれない声が混じる。


 助けて。


 帰りたい。


 待っている。


 早く選んで。


 声の多くは、本物かもしれない。


 だから、一斉に消すことはできない。


 でも、黒水はその声を、誰かへ向けた命令に変えようとしている。


「皆、聞こえた声を、すぐ答えにしないで」


 リゼットが、連記窓へ言った。


 白い花びらが、各地の窓へ飛ぶ。


「今、聞こえたこと。分からないこと。次に聞くことを、分けてください」


 王都から、レオンハルトの声が届く。


『王都は、救援を求める複数の声を聞いた。出所は未確認。今、王都から渡せるのは、物資と照合役一名の応答のみ』


 夜嶺から、カイラスが続ける。


『夜嶺は、戦士たちの声へ混じる子どもの声を聞いた。敵対の根拠とは扱わない。聞ける者を二名増やし、三十分後に再照合する』


 アウローラのマレア。


『港は、第三の窓へ水と綱を送った。今は、新しい移送者を受け入れる準備まではできない。受け入れ可能になったら、こちらから記す』


 真琴。


『私は、アマンテルスとフィルブランテの声を聞いています。ほかの声を聞く余裕は、今はありません。でも、次に確認する時間は書いておきます』


 誰も、全てを引き受けない。


 誰も、聞こえた声を嘘とも本当とも急いで決めない。


 その一つ一つの行が、照合環の白い線になる。


 黒水の針は、二本、三本と抜けていった。


     ◇


 残ったのは、中央の渡航環だった。


 黒水は、そこを最も強く掴んでいる。


 中央の環には、二つの岸を結ぶ細い道がある。


 元の世界へ。


 現在の世界へ。


 そして、待機域からどちらへ渡るかを決めるための道。


 黒水は、二つの道を太い鎖で縛っていた。


 **どちらかを選ばなければ、誰も渡れない。**


「これが、一番危ない」


 ノエルが言う。


「渡航環は、実際に人を移す可能性のある環です。黒水を外すには、二つの岸が“受け入れる条件”を記す必要がある」


「条件」


 アマンテルスが、少し険しい顔になる。


「受け入れる側が、選別するってことか」


「違います」


 ノエルは首を振った。


「条件は、誰を受け入れるかではありません。どのように受け入れるかです。どの岸も、無制限に人を受け取れるわけではない。だからこそ、今受け入れられる範囲と、できない範囲を隠さず書く必要があります」


 真琴の窓の向こうで、彼女がゆっくり頷いた。


『元の世界には、今、私は一人でいます』


 彼女の声は、少し震えている。


 でも、逃げない。


『私は、ここへ誰かを迎える準備があるか、まだ分かりません。家の外へ出る方法も、警察や救急の人に何を説明すればいいかも、今は決められません』


 黒水が、すぐに文字を重ねる。


 **受け入れ不能。元の世界は、帰還先から除外。**


「勝手に決めるな」


 アマンテルスの声が、低く響いた。


 アマンテルスの瞳に、紫の火が灯る。


「母さんが今すぐ全員を受け入れられないって言ったことと、元の世界へ誰も帰れないことは違う」


『そうよ』


 真琴が言った。


 ノートに、ゆっくり文字を書く。


 **今、私ができるのは、窓の向こうの二人の声を受け取ること。**


 その下に。


 **それ以上の受け入れについては、対岸の助けを求め、確認を続ける。今は不明。拒否ではない。**


 黒水の文字が、半分ほど消えた。


 レオンハルトも、王都の窓から書く。


『王国は、待機域の全員を今すぐ受け入れられるとは約束できない。しかし、医療、船、住居、通訳を準備する。渡航の前に、本人の意思と安全の確認を行う』


 カイラスが続ける。


『魔侯領も、同じだ。夜嶺は、境界を越える者を敵と決めない。ただし、受け入れる際には双方の記録と希望を確認する』


 マレアは、港の窓で笑った。


『船乗りとして言っとく。港は、船が来る前から全員の寝床を決められない。でも、入港させないって意味じゃない。係留場所を作って、水と毛布を用意して、船が来たら聞く』


 第三の窓の待機域へ、これらの言葉が、文字ではなく灯りとして届く。


 二つの岸。


 どちらも、「来るな」とは言わない。


 どちらも、「今すぐ来い」とも言わない。


 渡るなら、本人に聞く。


 受け入れるなら、何ができるかを先に整える。


 今すぐ決められない者は、待機域で救援を受ける。


 それは不完全だ。


 だから、黒水はそれを嫌う。


 不完全で、時間がかかり、誰も一人で結論を出せない。


 でも、それは、誰かを捨てることではない。


「渡航環に、書きます」


 フィルブランテが言った。


 白い手帳の頁へ、最後の行を刻む。


 **渡航は、本人の意思と、受け入れ側が今できる準備を照合して行う。未確認の者は、救援を継続する待機域へ留まる。待機は、放棄ではない。**


 白い文字が、渡航環へ沈む。


 黒水の太い鎖が、軋んだ。


 鎖は、強く、強く締まる。


 待機域の小舟が、黒い円環へ引かれそうになる。


「アマンテルス!」


「分かってる!」


 アマンテルスが、日傘を突き出す。


 黒い影が、渡航環の鎖だけを絡め取る。


 力で引きちぎれば、渡航の道まで壊れる。


 だから、影は鎖の間に薄い隙間を作る。


 フィルブランテの晶析眼が、その隙間へ白い氷晶の線を通す。


 アリスの雲が、その線を包む。


 リゼットの白い花びらが、待機域の小舟と灯りを照らす。


 シリルの槍が、黒水の波を祭壇側へ押し戻す。


 ノエルが、三つの環の記録を結晶板へ写す。


 アステリアの灯鍵が、係留・照合・渡航の三つの印を順に灯す。


 ザハルは、祭壇の前に立つ。


 黒水が、彼の耳元で囁く。


 **ミアを渡せ。**


 **お前だけが、あの影を知っている。**


 ザハルは、第三の窓の白いリボンを見る。


 似た傷。


 幼い影。


 待っているかもしれない妹。


 彼は、黒水の言葉を聞く。


 そして、手帳へ自分で書く。


 **私は、あの影をミアと確認していない。**


 次の行。


 **私は、確認したいと願う。だが、願いを渡航の根拠にしない。**


 黒水の囁きが、止まった。


 ザハルは続ける。


 **私は、待機域にいる全員が、本人の意思を聞かれるまで係留されることを支持する。**


 黒水が、大きく弾けた。


 渡航環の鎖に、白い亀裂が入る。


「今です」


 ノエルが叫ぶ。


「三つの環を、別々に!」


 アマンテルスが、係留環の黒い鎖を影で持ち上げる。


 フィルブランテが、照合環の黒い針を晶析眼で一本ずつ特定する。


 アリスとアステリアが、渡航環へ雲と灯りの線を結ぶ。


 リゼットが、待機域の救難灯を白い花で守る。


 シリルは、黒水がこちら側へ溢れないよう祭壇の縁を守る。


 ザハルは、誰の代わりにも決めず、ただ記録を読み上げる。


 王都。


 夜嶺。


 アウローラ。


 学院。


 慈善薬園。


 帰岸庫。


 対岸世界。


 黄昏島。


 第三の窓。


 九つの窓の声が、三つの環へ届く。


 係留は、今いる者を流さないために。


 照合は、そこにいることを忘れないために。


 渡航は、本人の意思と準備が整った時に開くために。


 黒水は、その三つを一つの判決にできない。


 黒い鎖が、最初に外環から剥がれた。


 次に、黒い針が中環から抜けた。


 最後に、渡航環へ巻きついていた太い鎖が、白い光の中でほどける。


 黒水は、境界錨から押し出された。


 黒い波が、祭壇の中央へ逃げようとする。


 だが、中央の空席は、すでに八つの枠と第三の窓の印で囲まれている。


 黒水は、そこへ座れない。


 波は、行き場を失い。


 小さな黒い滴へ縮んだ。


 滴は、第三の窓の外へ落ちようとする。


「待って」


 白いリボンの影が、初めてはっきり手を伸ばした。


 声は聞こえない。


 でも、その指は、黒い滴を指している。


 次に、影は小さな手で布を広げた。


 先ほど送った救難帆の繊維。


 それを、滴の下へ差し出す。


「黒水を、待機域へ落とすな」


 フィルブランテが言った。


 アマンテルスが、すぐに影を伸ばす。


 黒い滴を掴む。


 しかし、握り潰さない。


 黒水の中には、まだ聞けていない声がある。


 未回答のまま、次の確認を待っている声が。


「未記載の井戸へ戻す」


 アリスが言う。


「答えにしないで、次に聞けるまで置く」


 アステリアが、灯鍵を振る。


 黒い滴は、白い紙片ほどの大きさになり、黄昏島の未記載の井戸へ通じる小さな窓へ移された。


 井戸の水面に落ちる。


 黒水は、また一つの答えになることを拒まれた。


 今度は、待つべき声の一部として、次の確認時刻を与えられる。


     ◇


 境界錨の黒い円環は、ゆっくりと回転を止めた。


 完全には止まらない。


 救難灯の周りで、穏やかに回る。


 舟を流さないために。


 誰かを一つの岸へ押し出さないために。


 外環には、白い文字が浮かんだ。


 **係留:救難継続。**


 中環。


 **照合:所在と必要物資を確認。本人の関係・期待を代用しない。**


 中央の渡航環。


 **渡航:本人の意思と受け入れ準備を、各岸と照合して実施。未確認は放棄ではない。**


 そして、三つの環の外側に、小さな文字が加わる。


 **待機域は、第三の世界ではない。帰る場所を決めるまで、救援を受ける一時係留地である。**


 第三の窓の小舟では、白いリボンの影が、送られた布を隣の影の肩へかけている。


 青い灯りが、一度、二度、三度と瞬く。


 十五分後の確認時刻まで、待機域は守られる。


 ザハルは、窓の前に立っている。


 彼は、影をミアと呼ばない。


 でも、目を逸らさない。


「次に聞く時、私もここにいます」


 彼が言った。


 白いリボンの影が、少しだけ頷いたように見えた。


 それがミアの答えなのか。


 待機域にいる誰かの答えなのか。


 まだ、分からない。


 分からないまま、記録は続く。


 ノエルの結晶板が、静かに鳴った。


「境界錨は、安定しました」


 彼が言う。


「少なくとも、待機域を第三の世界として固定することはできません」


「少なくとも、か」


 アマンテルスが言う。


「まだ何かある?」


 ノエルは、結晶板の中心を見た。


 境界錨から外された黒水は、未記載の井戸へ移されたはずだ。


 だが、二つの世界を結ぶ地図の端に、細い黒い線が残っている。


 線は、黒い祭壇の最奥へ伸びていた。


 祭壇の背後。


 これまで扉だと思っていた、黒い壁の向こう。


「黒水は、錨を固定するための力を失いました」


 ノエルが言う。


「ですが、境界を“開く”ための力までは失っていない」


 結晶板に、新しい文字が浮かんだ。


 **双月境界連記窓:裁定者未選出。**


 **黒水:境界外縁への固定、失敗。**


 その下。


 黒い文字が、一行ずつ現れる。


 **最終手段を開始する。**


 **裁定者を置かない窓を、裁定なきまま開け放つ。**


「それは」


 リゼットが息を呑む。


「窓を壊すのではない」


 ノエルは言った。


「連記窓の手順を残したまま、開く・閉じる権限だけを失わせる。誰も窓を閉じられなくなれば、黒水はまた全ての声を混線させられる」


 先ほど防いだはずの混線。


 しかし今度は、窓枠ごと壊すのではなく。


 窓を管理する者を消そうとしている。


 誰も裁定しないことと。


 誰も責任を持って窓を閉じられないことは、違う。


 黒水は、その違いを利用しようとしている。


 祭壇の最奥で、重い音がした。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 黒い壁が、内側から開いていく。


 壁の向こうには、無数の窓があった。


 王都の窓。


 魔侯領の窓。


 港の窓。


 学院の窓。


 薬園の窓。


 帰岸庫の窓。


 対岸世界の窓。


 黄昏島の窓。


 第三の窓。


 その全てを繋ぐ、さらに大きな円形の窓。


 窓の中央には、椅子がない。


 空席もない。


 ただ、取っ手のない黒い扉だけがある。


 双月まで、残り二時間。


 境界錨は守れた。


 しかし黒水は、今度こそ、全ての窓を閉じられないまま開け放とうとしていた。

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