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双傘の令嬢は破滅を覆す  作者: しょぼんスライム


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第四十四話 第三の窓は、帰る場所を急がせない

第三の窓は、どこにも開いていなかった。


 黄昏島の外でもない。


 王国の海の上でもない。


 魔侯領の空でもない。


 対岸世界の、真琴の部屋のゲーム画面の向こうでもない。


 どの窓にも映っているのに、どの窓の向こう側にもない。


 青い境界航路の先に浮かぶ、小さな白い灯り。


 その灯りの近くに、白いリボンの影が立っている。


 双月まで、残り三時間。


 黒い祭壇の上空で、第三の窓はゆっくりと縁を広げていた。


 窓枠は白い。


 しかし、内側の海は青でも黒でもない。


 夜明けの前の空のような、名をつけにくい色をしている。


 波は高くない。


 それでも、見ている者の足元だけをさらっていくような静かな怖さがあった。


「開かないで」


 影が、もう一度唇を動かした。


 声は届かない。


 それでも、意味だけは連記窓の内側へ落ちてくる。


 **待って。**


「ミア……」


 ザハルが、かすれた声で呼んだ。


 彼の足が、一歩だけ前へ出る。


 第三の窓の白い縁が、彼へ近づく。


 黒水はすぐに、その動きを見逃さない。


 祭壇の床から黒い文字が浮かんだ。


 **再会を望む者、境界外へ進め。**


 **到達の代価として、残る世界を一つ定めよ。**


「止まってください」


 フィルブランテが言った。


 ザハルの前へ、氷晶の細い線を引く。


 黒水の文字は、線へ触れた途端、黒い霧になる。


「また、同じことをしています」


「しかし、あれがミアなら」


 ザハルの声が震えた。


 彼は第三の窓から目を離せない。


「二十年以上、私はあの子を探してきた。青い航路の先にいるなら。今、手を伸ばせるなら」


「手を伸ばすことと、境界を開け放つことは違います」


 フィルブランテは言った。


「影が、誰なのかはまだ確認できていない。ミアさんだと決めることも、違うと決めることも、今はできません」


「分かっています」


 ザハルは答えた。


 けれど、言葉とは違っていた。


 分かっている。


 でも、待ちたくない。


 その二つが、彼の胸の中でぶつかっている。


 黒水は、そこに細い楔を打ち込む。


 **待てば、また失う。**


 **確認すれば、救える時を逃す。**


「兄貴」


 フィルブランテが、小さく呼んだ。


 アマンテルスは、黒水の文字を見ている。


 その目に、少しだけ遠い記憶が浮かんでいた。


 元の世界で、危ない橋を先に渡ろうとした時。


 弟が止めても、先に行けば何とかなると思った時。


 今のザハルを、笑えない。


「待つのは、何もしないことじゃない」


 アマンテルスが言った。


 黒い日傘を開く。


 影が、ザハルと第三の窓の間に薄い幕を作る。


 遮るためではない。


 足を踏み出す前に、一度立ち止まれる距離を作るために。


「今、あっちが“待って”って言ってるなら。俺たちが、会いたいからって勝手に渡るのは救助じゃない」


 ザハルは、影の幕の向こうの白いリボンを見る。


「声は届いていません」


「届いていないから、勝手に意味を足さない」


 アマンテルスは答えた。


「“待って”が、俺たちを待ってるのか。誰かが来るのを待ってるのか。今、窓を開くなって意味なのか。それすら、まだ分からない」


 第三の窓の海が、わずかに揺れた。


 白いリボンの影は、こちらを見ている。


 だが、近づいてはこない。


 小さな白い灯りの傍から離れない。


「ノエル」


 フィルブランテが呼ぶ。


「第三の窓は、何ですか」


 ノエルは、結晶板を何度も見直していた。


 板の上の地図には、二つの世界を結ぶ線がある。


 黄昏島。


 水鏡。


 雲鍵。


 連記窓。


 それらの線の外側に、今までなかった細い円が描かれている。


「境界外縁の……待機域です」


 ノエルが言った。


「水鏡が二つの世界を映す前、その間で、まだどちらへも到着していない記録を一時的に保つ場所」


「第三の世界じゃないのか」


 シリルが問う。


「違います。少なくとも、誰かが住むために作られた場所ではない」


 ノエルは、慎重に続けた。


「本来は、救難の航路です。二つの岸のどちらへ渡るかが未確定な者が、嵐の中でいきなり押し戻されたり、どちらかに固定されたりしないための……避難帯のようなものです」


 アリスの雲が、第三の窓の白い縁へそっと伸びる。


「帰る場所を、まだ決めない人たちがいる場所」


「はい」


 ノエルが頷く。


「ただし、そこは長く留まる場所ではありません。記録が適切な手順を経ずに開かれれば、待機域は二つの世界の引力に引き裂かれる」


 黒水が、すぐに文字を重ねる。


 **待機域に留まる者を救うため、ただちに一つの岸を選べ。**


 文字は、もっともらしかった。


 誰かを救うためには、早く決めなければならない。


 待機域は危険だ。


 だから、今すぐ片方へ渡すべきだ。


 だが、フィルブランテは、その文字の下を読む。


 書かれていないものを見る。


「どの岸へ渡りたいかを、本人に聞く手順がない」


 彼が言った。


「渡る時に、誰と何を持っていくのかも。今すぐ渡れない場合に、どう守るかもない」


「待機域にいる者は、答えられないかもしれません」


 ザハルが言った。


 彼の声には、まだ切実さがある。


「幼い子どもなら。記憶が壊れているなら。声が届かないなら。聞けないまま、何もしないのですか」


「何もしないとは言っていません」


 フィルブランテは、第三の窓を見た。


 白いリボンの影。


 小さな灯り。


 海の上に浮かぶ、見知らぬ小舟の輪郭。


 近くには、影が一人だけではない。


 よく目を凝らすと、灯りの反対側に小さな影が二つ、三つ見える。


 座っている。


 横になっている。


 誰かの肩へ寄りかかっている。


 そこにいる者は、ミアかもしれない一人だけではない。


「救援の窓を作ります」


 フィルブランテが言った。


「第三の窓を、移送の門じゃなく、確認と救援の窓として開く」


「できるのですか」


 リゼットが問う。


 彼女の白い花が、第三の窓の海風に揺れている。


「分かりません」


 フィルブランテは、正直に答えた。


「でも、今までの窓には手順がある。呼ぶ者。聞く者。渡す範囲。次の確認時刻。その手順を、待機域へも使う」


「待機域は、二つの世界の外です」


 ノエルが言う。


「どちらの連記窓の規則にも、完全には属していない」


「なら、第三の窓の手順を作る」


 アリスが言った。


 彼女は、雲鍵の中にある未記載の石を一つ取り出した。


 名前のない、小さな白い石。


「まだ、どこの人か分からない。どこへ帰りたいかも聞けない。だから、今は“ここにいる”だけを受け取る窓にする」


 ザハルが、第三の窓へ目を向ける。


 白いリボン。


 妹かもしれない影。


 何も決めない手順は、彼にとって、遠回りに見えるかもしれない。


 それでも、彼は今度は一歩を踏み出さなかった。


「手順を、聞かせてください」


 彼が言った。


 フィルブランテは、一度だけ頷いた。


 白い手帳の新しい頁を開く。


「一つ目。第三の窓から救援を呼ぶ者は、自分の名を言えなくてもいい。灯り、手形、色、音でもいい。今、そこにいると分かる印を残す」


 手帳に書く。


 **所在の印。**


「二つ目。こちらから聞く者は、誰かを一人に固定しない。待機域にいる全員を救うと約束して、誰かを置いていかない代わりに、今できることを範囲で書く」


 **受け取れる範囲。**


「三つ目。移送は、本人が今、渡れると確認できた場合だけ行う。確認できない時は、移送しない。その代わり、灯りと食料と、次に聞く時刻を渡す」


 **渡らない救援。**


 そして、最後の行。


「四つ目。誰か一人の再会を、他の人の帰る場所を決める根拠にしない」


 **再会を、裁定に使わない。**


 黒水が、手帳の頁へ跳ね上がる。


 **不十分。**


 **待機域の者は、今すぐ岸を得なければ消える。**


「それは、本当ですか」


 フィルブランテが問う。


 黒水は答えない。


 代わりに、第三の窓の海が少し荒れた。


 白い灯りが揺れる。


 小舟の影が、波の間で沈みかける。


 ザハルの顔が強張る。


「今すぐ渡らなければ」


「待って」


 今度は、リゼットが言った。


 彼女は、第三の窓の揺れをよく見る。


 波が小舟へ向かっているように見える。


 けれど、海の流れは逆だった。


 小舟は、灯りへ近づいている。


 荒れているのは、窓のこちら側の水面。


 黒水が、窓の見え方を歪めている。


「小舟は沈んでいません」


 リゼットが言う。


「黒水が、私たちにそう見せている」


 ノエルが結晶板を掲げる。


 青い光が、第三の窓を薄く照らす。


 波の方向が、はっきりする。


 小舟は、白い灯りのある小さな浮島へ係留されていた。


 灯りのそばには、布と水筒のようなものがある。


 誰かが、あの場所を守っている。


「待機域には、旧い救難設備が残っている」


 ノエルが言った。


「灯りは、漂流者の所在を示す灯台。小舟は、そこへ避難した船です」


 黒水の文字が、ひび割れる。


 **救難設備は、いつ壊れるか分からない。**


「壊れるかもしれない」


 アマンテルスが言う。


「だから、今、確認を始める。壊れるかもしれないからって、勝手に全員を引っ張るんじゃない」


     ◇


 第三の窓を開くため、七つの連記窓と黄昏島の枠が円を作った。


 中央には、まだ誰も座らない空席がある。


 空席の後ろに、第三の窓。


 それは裁定台の外にある。


 誰も座らない席の奥にあるからこそ、黒水はそこを“答えの外側”と呼んだ。


 けれどアステリアは、首を振った。


「外側ではありません」


 灯守は言った。


「まだ、こちらが届く手順を知らなかっただけです」


 灯鍵が、第三の窓の縁へ触れる。


 白い灯りが一つ増える。


 アリスの雲鍵が、未記載の石を窓の前へ置いた。


 石は、白い小さな泡になって、海の上へ飛ぶ。


 フィルブランテが、手帳を開いた。


「第三の窓を開きます」


 彼は言った。


「呼ぶ者は、黄昏島の連記者。目的は、青い境界航路の待機域にいる者の所在を確かめ、今必要な救援を尋ねること」


 第三の窓の海が、少し静かになる。


 白いリボンの影が、灯りのそばで動く。


「聞く者は」


 フィルブランテは、皆を見る。


 アマンテルス。


 リゼット。


 シリル。


 ノエル。


 アリス。


 アステリア。


 そして、ザハル。


 各地の窓の向こうには、レオンハルト、カイラス、マレア、真琴たちがいる。


「聞く者は、ここにいる全員と、各地の連記者。ただし、待機域にいる者の名と帰還先を、本人の確認なしに決めない」


 白い枠が、第三の窓へ重なる。


 黒水が、その外側から押し入ろうとする。


 **確認不能。移送不能。よって、裁定者を選出せよ。**


「まだ、続きがあります」


 フィルブランテは言った。


「開く範囲は、灯りの数、小舟の数、今必要な物資の印。記憶と名前と、過去の記録は求めない」


 第三の窓の水面に、小さな白い光が浮かんだ。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 四つ。


 五つ。


 小舟の周りに、五つの灯り。


 灯りの一つが、少し弱い。


 別の一つは、青い。


 白いリボンの影が、その青い灯りのそばへ座る。


「五人」


 リゼットが小さく言った。


「少なくとも、五つの所在の印があります」


「小舟は一艘だけじゃない」


 シリルが言う。


 窓の奥には、霧の向こうにもう一つ、小さな舟影がある。


 その舟は、灯りへ向かわず、少し離れたところで止まっている。


 そこにも、白い点が二つ。


「七人以上」


 ノエルが修正した。


 黒水は、すぐに数字へ飛びつく。


 **七人。救える人数を選べ。**


「人数を、選別の材料にしない」


 フィルブランテが言う。


「今、分かったのは、七人以上がいること。誰がどの船にいるか、どんな状態かは、まだ分からない」


「物資を聞きます」


 アリスが、雲鍵の雲を海へ伸ばす。


「名前じゃなくて。今、必要なものの印を」


 雲が、第三の窓の海へ小さな白い紙片を落とす。


 紙片には、三つの絵がある。


 水。


 布。


 灯り。


 待機域の小舟の近くで、白い影の一つが手を上げた。


 水の絵へ、青い光が集まる。


 次に、布。


 白いリボンの影が、布の絵へ触れた。


 灯り。


 小舟の端にいる影が、灯りの絵を指す。


 言葉はない。


 それでも、今必要なものは少し分かる。


「水、保温用の布、灯りの補助」


 アリスが言う。


 マレアの声が、アウローラの窓から響く。


『水なら、潮記の貝の蒸気を送れる。布も、船の救難帆の繊維なら渡せる。ただし、向こうが受け取れるかは確認が必要だ』


「受け取れる範囲を聞きます」


 フィルブランテが言う。


 第三の窓へ、新しい三つの絵を送る。


 水滴。


 布。


 小さな火。


 白いリボンの影は、火の絵へ手を伸ばしかけた。


 だが、途中で止める。


 そして、青い灯りを見た。


 青い灯りが、一度だけ点滅する。


 水滴。


 布。


 火は、まだいらない。


「灯りは、今あるもので足りている」


 ノエルが言った。


「あるいは、火が危険な場所にいる」


「分からないまま、火は送らない」


 フィルブランテが言う。


 黒水が、すぐに怒鳴るように波を上げた。


 **足りなければ死ぬ。**


 **今すぐ全てを送れ。**


「足りないかもしれない」


 フィルブランテは、黒水の言葉を否定しなかった。


「でも、足りないかもしれないからといって、危険かもしれないものを勝手に渡さない」


 アマンテルスが、黒い日傘を第三の窓へ向ける。


 影が、細い樋のような形になる。


 マレアの潮記の貝から、白い蒸気が流れた。


 蒸気は水の粒になり、窓の向こうへ落ちる。


 救難帆の繊維が、柔らかな白い布になって続く。


 第三の窓の向こうで、白いリボンの影が布を受け取った。


 その手は、小さい。


 けれど、影のままではない。


 指先に、小さな傷がある。


 その傷を見て、ザハルが息を止めた。


「ミアは」


 彼が言いかける。


 そして、言葉を止めた。


 影の手の傷が、妹のものと同じだと言いたかったのだろう。


 だが、それだけで本人だと決めることはできない。


 彼は、拳を握る。


「……あの子に似た傷がありました」


 ザハルは言い直した。


 それだけを書く。


 **白いリボンの影の手に、小さな傷を確認。ミアの記憶にある傷と類似。本人確認は未了。**


 フィルブランテが、手帳へ記す。


 ザハルの声は震えていた。


 でも、黒水に“ミアだ”と書かせなかった。


     ◇


 水と布が、待機域へ届いた。


 小舟の灯りは、少しだけ安定する。


 第三の窓の白い縁には、新しい文字が浮かんだ。


 **渡らない救援、成立。**


 それは、誰も移送しないことを選んだという意味ではない。


 移送を、救援の唯一の形にしないという意味だった。


 しかし黒水は、そこで別の罠を開く。


 待機域の海の端に、二つの岸を映した。


 左に、元の世界。


 真琴の部屋の灯り。


 右に、現在の世界。


 黄昏島の灯鍵。


 白いリボンの影の前へ、黒い文字が落ちる。


 **帰還先を選べ。**


 **母の待つ岸か。**


 **兄の待つ岸か。**


 ザハルが、息を呑んだ。


 真琴の顔が、対岸の窓に映る。


 彼女も、黒い文字を見る。


 第三の窓の影は、二つの岸を見ている。


 黒水は、真琴とザハルを同じ“待つ者”へ押し込めようとしている。


 息子を待つ母。


 妹を待つ兄。


 どちらが先に、影を呼ぶのか。


 どちらの待つ声を、影は選ぶのか。


「やめろ」


 ザハルが言った。


 声は大きくなかった。


 けれど、今度は迷いがなかった。


「その子に、私を選ばせるな」


 黒水が、彼を振り向く。


 **お前は、望んだ。**


「望んだ」


 ザハルは認めた。


「でも、それを妹の願いにするな」


 黒水が、大きく揺れる。


 彼は、第三の窓の前に立つ。


 影へ手を伸ばす。


 しかし、窓へ触れない。


「もし、あれがミアなら」


 ザハルは言った。


 影へ向けて。


「私は、お前に会いたい」


 白いリボンの影が、こちらを見た。


 ザハルの声は、震えている。


「でも、お前がどこへ行くかを、私が今決めることはしない。お前が、まだ決められないなら。待っていい」


 黒水が、すぐに文字を被せる。


 **待てば、二度と会えない。**


 ザハルは、目を閉じた。


 そして、続ける。


「それでも、待つ」


 その言葉は、今までのザハルには言えなかった言葉だ。


 待てないことを、誰かの判決にしてきた。


 待てない不安を、世界を閉じる理由にしてきた。


 今、彼は待つと言う。


 待つことが、必ず再会を保証しないと知りながら。


 黒水の文字が、少しずつ崩れていく。


 しかし、真琴の窓の前にも黒い文字が落ちた。


 **母として、息子たちを呼べ。**


 真琴は、その文字を見る。


 第三の窓の白いリボンの影を見る。


 アマンテルスとフィルブランテを見る。


 彼女は、ゆっくりノートを開いた。


「私は、アマンテルスとフィルブランテに帰ってきてほしい」


 真琴は言う。


「でも、あなたに、私を選んでほしいとは言いません」


 影は、少しだけ首を傾けた。


 真琴は続ける。


「あなたが誰かは、まだ分かりません。でも、寒いなら布を。喉が渇いているなら水を。怖いなら、次に声を聞く時間を。私にできることがあるなら、そこから始めたいです」


 黒水の“母の待つ岸”という文字が、消える。


 真琴は、影を息子たちの代わりにしない。


 影にも、誰かの代わりをさせない。


 第三の窓の海に、白い線が一本引かれる。


 **待機域の者は、待つ者の所有ではない。**


 フィルブランテは、その文字を見て、手帳へ写した。


 アマンテルスが、小さく息を吐く。


「母さん、格好いいな」


『アマンテルスも、ちゃんと待って』


「努力します」


『努力じゃなくて、約束』


 アマンテルスは少し黙った。


 それから、真剣に答える。


「約束する」


 そのやりとりを、第三の窓の影が見ていた。


 白いリボンが、風のない海で少し揺れる。


 影は、布を胸元へ抱いた。


 そして、小さな手を上げる。


 指が、空に文字を描く。


 読めない。


 でも、アリスの雲鍵が、その軌跡を白い雲として受け取った。


 雲は、ゆっくり形になる。


 ひらがなのような。


 この世界の文字のような。


 どちらにも完全には属さない、細い線。


「……“みず”」


 アリスが言った。


 次の線。


「“ぬの”」


 そして、最後の線。


「“みんな、いる”」


 待機域の影は、一人ではなかった。


 白いリボンの影は、そばにいる者たちのことを伝えようとしている。


 黒水が、その文字を奪おうとする。


 **全員を一つの移送先へ送れ。**


「違う」


 アリスが、雲鍵を抱きしめる。


「“みんな、いる”は、今すぐ全員を同じ岸へ送れって意味じゃない。みんながいるから、一人だけを理由にしないでってこと」


 白いリボンの影の周りに、小さな影が集まる。


 一人が水を受け取る。


 一人が布を広げる。


 一人が白い灯りを抱える。


 皆、まだ名前を言わない。


 言えないのかもしれない。


 言いたくないのかもしれない。


 でも、そこにいる。


 第三の窓は、その事実だけを今、受け取る。


「次の確認時刻を決めましょう」


 フィルブランテが言った。


 黒水が、すぐに反応する。


 **今すぐ移送しないなら、次はない。**


「それは、黒水の予測です」


 ノエルが言う。


 結晶板の青い線を見つめる。


「待機域の灯りは、今のところ安定している。水と布も届いた。次の確認は、十五分後にできます」


「十五分」


 ザハルが繰り返す。


 彼にとって、それは短くて長い時間だった。


 ずっと待てなかった者にとって。


 でも彼は、首を縦に振る。


「十五分後に、もう一度聞きます」


「誰が」


 黒水が問う。


 その声は、初めて少し焦っていた。


 聞く者を一人にできなければ、黒水はまた答えを奪えない。


「皆で」


 フィルブランテが答える。


 王都の窓。


 魔侯領の窓。


 港。


 学院。


 薬園。


 帰岸庫。


 対岸世界。


 黄昏島。


 八つの枠に、順に印がつく。


 第三の窓にも、九つ目の小さな白い印が灯る。


 それは、待機域が誰かの背景ではないことを示す印だった。


 **第三の窓:所在確認済み。救援継続。次の確認:十五分後。**


 白い文字が、海の上へ浮かぶ。


 黒水の“帰還先を選べ”という文字が、消えた。


 けれど、黒水はすぐに別の場所へ集まっていく。


 第三の窓の奥。


 青い境界航路のさらに先。


 そこに、巨大な影がある。


 海の底から、ゆっくり浮かび上がるもの。


 船ではない。


 島でもない。


 古い門のような輪郭。


 白い灯りを囲む、黒い円環。


 ノエルの結晶板が、警告のように鳴った。


「待機域の外縁に、境界錨があります」


 彼が言った。


「第三の窓を支える古い装置です。黒水がそこへ入り込めば、待機域そのものを一つの世界として固定できる」


「固定されたら」


 シリルが問う。


「二つの世界の外へ、新しい“選ばれるべき世界”が生まれる」


 ノエルの声は、硬い。


「黒水は、二つの世界を選べなかった。だから三つ目を作り、今度は“誰を第三の世界へ捨てるか”を選ばせるつもりです」


 第三の窓の海が、少し暗くなる。


 白い灯りのそばにいる影たちが、黒い円環を見ている。


 白いリボンの影が、もう一度こちらを見る。


 今度は、“待って”とは言わない。


 小さな手で、黒い円環を指している。


 次に、手を胸へ置く。


 そして、指を隣の影たちへ向ける。


 自分だけではない。


 皆が、危ない。


 ザハルが、第三の窓の前で静かに言った。


「境界錨を壊せば、待機域は消える」


「はい」


 ノエルが答える。


「救うために錨を残せば、黒水に固定される危険がある。壊せば、今いる人々の所在が失われる」


 また、二択。


 守るか。


 消すか。


 救出を急ぐか。


 待機域ごと閉じるか。


 黒水は、第三の窓を新しい裁定台にしようとしている。


 だが、フィルブランテは白い手帳を閉じなかった。


 頁の一番下に、まだ空いている行がある。


 彼は、そこへ書く。


 **境界錨の破壊・維持を、待機域の者を含む一人の裁定にしない。**


「次の十五分で、錨が何を支えているのかを聞きます」


 フィルブランテが言った。


「それから、壊すか残すかの二択ではなく、黒水だけを錨から外す方法を探す」


「時間がない」


 アマンテルスが言う。


 けれど、その声は反対ではない。


 今まで何度も、時間がないと知りながら、別の道を探した者の声だ。


「分かってる」


 フィルブランテは頷く。


「でも、時間がないからって、第三の窓の皆を世界の外へ置く方を選ばない」


 アマンテルスは、少し笑った。


「よし」


 黒い日傘を開く。


「十五分で、錨を調べる。二人だけじゃない。九つの窓で」


 第三の窓の白い灯りが、少し強くなる。


 待機域の影たちは、まだどこへも渡らない。


 誰が誰かも、まだ全ては分からない。


 白いリボンの影がミアかどうかも、決まっていない。


 それでも、水は届いた。


 布も届いた。


 次に聞く時刻が、記された。


 だから、今は待てる。


 双月まで、残り二時間四十五分。


 第三の窓の先で、境界錨の黒い円環が、ゆっくり回り始めた。

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