第二十四話 選ばせる者を、見返す
帰岸庫の棚に浮かんだ文字は、ゆっくりと黒く脈打っていた。
**観測者、対岸へ到達。**
その下には、名のない黒い輪郭。
役割だけが書かれている。
**選ばせる者。**
アマンテルスは、黒い日傘の柄を強く握った。
フィルブランテは、白い儀礼扇を閉じたまま、棚を見ている。
母がいる、元の世界。
眠ったままの、自分たちの身体。
三日間、同じ時刻を繰り返す部屋。
そこへ、ザハルの黒水が観測者として届いた。
直接、母を傷つけるのではない。
ただ、二人の息子を前にして、どちらかを選べと囁く。
その方が、ずっと危険だった。
「今すぐ通信を開く」
アマンテルスが言う。
「待ってください」
フィルブランテが止めた。
「観測者は、こちらが焦ることを待っています。母さんへ声を届けるなら、まず通信の条件を決めましょう」
「条件なんて、今」
「今だからです」
フィルブランテの声は冷静だった。
けれど、儀礼扇を握る指は白くなっている。
「母さんが一人でいる。だから、僕たちが一人で決めないようにする。対岸通信も、帰岸記録と同じです」
アマンテルスは、弟を見る。
今すぐ走りたい。
黒水の線を追い、元の世界へ飛び込みたい。
でも、飛び込めば、母を守るために何を壊すか分からない。
それを、フィルブランテは知っている。
「……分かった」
アマンテルスは、ゆっくり息を吐いた。
「決めよう。母さんを一人で選ばせないための条件を」
帰岸庫の白い棚に、仲間たちが集まる。
アリスは雲の小瓶を胸に抱く。
ルカは、父の白い貝を両手で持っている。
リゼット、レオンハルト、シリル、ノエル、カイラス、マレア、イオ。
黄昏島のアステリアも、潮記の貝を通して灯を送っている。
皆が、対岸の一人を守るためにここにいる。
「観測者が何をできるのか、先に整理します」
ノエルが、結晶板を浮かべた。
画面には、黒水の履歴が細い線となって表示されている。
「真琴さんの記録片には入れない。彼女が“帰還を一人で決めない”と同意し、対岸通信の範囲を定めたからです」
「なら、観測者は部屋の外側にいるだけ?」
リゼットが問う。
「おそらく、直接には触れられない」
ノエルは頷く。
「でも、観測はできる。時計の繰り返し、ゲーム画面の文字、扉の向こうの音。そういう形で、“選ばなければ何も進まない”と思わせる」
「選ばなければ、時間を止める」
アリスが呟く。
「選ぶまで、ずっと一人にする」
雲守の少女は、小瓶を見る。
自分がかつて、未来を預かる器にされたときも、似た言葉を聞いたのだろう。
誰かが選ばなければ、皆が困る。
今決めなければ、遅すぎる。
そんな言葉で、子どもの未来を一つに閉じ込める。
「観測者は、真琴さんの“選択”だけを必要としているのですか」
レオンハルトが問う。
「それとも、アマンテルスとフィルブランテのどちらかを実際に起こす力を持っている」
「まだ分かりません」
ノエルは答える。
「ただ、黒水の術式は本人の同意を使いたがる。ルカに父の記録を開かせようとしたように。観測者も、真琴さんがどちらかを選ぶことで、帰還の記録を“確定”させるつもりです」
「確定させなければいい」
アマンテルスが言う。
「はい」
フィルブランテが続ける。
「でも、“選ばない”だけでは、母さんは同じ時刻の部屋に閉じ込められたままです。観測者が、選ばないことを孤立と見せるなら、僕たちは母さんが選ばずに進める道を作る必要があります」
「帰岸記録です」
ルカが言った。
皆が、子どもを見る。
「ぼく、父さんの貝を開くとき、“父さんに会うためだけに使わない”って言った。母さんも、部屋を守るために何を書くか、決めればいい」
「部屋の帰岸記録」
アリスが言う。
「真琴さんが、今いる場所を自分の言葉で記して、こちらの皆が証人になる。そうすれば、観測者は“誰も見ていない母親”という形を作れない」
「証人は、単に名前を並べるだけでは駄目です」
ノエルが言う。
「真琴さんが書いた内容に、本人の同意があること。こちらで聞いたこと。今後、訂正や撤回もできること。すべてを記録する」
「対岸の真琴さんと、もう一度話せますか」
リゼットが問う。
白い貝は、通信が終わったあと、静かだった。
しかし、湯気の立つマグカップの記録片が、かすかに温かい。
「一度だけ、短く」
アリスが言う。
「観測者が近い今、長く開けば黒水の履歴も太くなります。けれど、こちらの目的を先に記してから開けば、通信は“選ぶため”ではなく、“記録を共有するため”のものになります」
「やりましょう」
フィルブランテは、手帳を開いた。
新しい頁の上へ、青い氷晶で見出しを書く。
**対岸・唐傘真琴の帰岸記録:初回共有。**
その下に、皆で条件を書いていく。
真琴本人が書く。
真琴本人が、伝える範囲を選ぶ。
対岸の部屋にいる者を、選別せず記す。
帰還の決定は、記録の目的に含めない。
記録は、いつでも訂正・保留・撤回できる。
最後に、フィルブランテが書いた。
**誰も、一人で答えを出さない。**
◇
白い貝が、ゆっくりと光り始めた。
雲記が、その周囲に薄い輪を作る。
アステリアの灯が、帰岸庫の棚から遠い対岸まで細い橋を伸ばす。
水鏡は直接開かない。
映像を映せば、黒水が帰還の座標を読もうとするからだ。
声だけ。
そして、真琴が自分で書いた文字だけ。
それが今回の通信の範囲だった。
「母さん」
アマンテルスが呼ぶ。
すぐには返事がない。
白い貝の向こうでは、遠くに時計の秒針の音が聞こえる。
同じ時刻を繰り返す部屋。
カチ、カチ、カチ、と鳴る音。
やがて、母の声がした。
――透? 輝?
「聞こえる?」
フィルブランテが言う。
――聞こえる。さっき、画面がまた白くなって。貝の絵が出たから。
「今、黒い文字はありますか」
ノエルが尋ねる。
――画面の端に、あります。“観測を開始します”って。
帰岸庫の空気が、少し冷える。
――でも、触ってはいないわ。あなたたちが言った通り、ノートに書いてる。
「読んでいただけますか」
フィルブランテが言った。
紙をめくる音。
ペンが走る音。
真琴の声は、少し疲れている。
けれど、いつものように、一つずつ確かめている。
――“午後七時十二分。時計はまた同じ時刻。透と輝は、ソファで眠っている。呼吸と脈はある。ゲーム画面に、黒い文字。『観測を開始します』。私は、その文字に返事をしていない”。
雲記の中に、真琴の手書きの文字が現れる。
筆跡の揺れ。
インクが少し濃いところ。
紙の端に、書き直した跡。
完璧ではない。
だからこそ、誰かが整えた黒水の文字とは違う。
「受け取りました」
フィルブランテが言う。
「こちらで、真琴さんが自分の意思で記した記録として保管します。今から、母さんがご自身の帰岸記録を作ることに同意しますか」
――はい。
「記録に書く内容は、母さんが選んでください。伝えたくないことは、書かなくて構いません」
――分かった。
少し長い沈黙がある。
真琴は、部屋を見ているのだろう。
いつもの居間。
ソファで眠っている息子たち。
机の上のゲーム機。
冷めたマグカップ。
窓の外は、同じ夜の色のまま。
――唐傘真琴。今は、自宅の居間にいる。
母の声が、ゆっくりと言葉を選ぶ。
――アマンテルスとフィルブランテの母。二人が眠っている間、呼吸と脈を確認している。二人の帰還を、一人で決めない。
雲が、淡い金色に光る。
――今は一人だけれど、一人で答えを出さない。対岸に、アマンテルスとフィルブランテと、皆さんがいることを知っている。
貝の向こうで、少しだけ息を吸う音。
――部屋には、ソファが一つ。テーブルが一つ。透のゲーム機と、輝のメモ帳がある。冷めた麦茶が二つ。……あと、夕飯の買い物袋が玄関にある。
最後の一言に、アマンテルスが小さく笑う。
「母さん、そういうのまで書くの」
――大事でしょう。食べ物を無駄にしないために。
「大事です」
フィルブランテが、少し笑いながら言う。
――この部屋は、帰る途中の人が休む場所。アマンテルスとフィルブランテが眠っていても、私はここから二人を追い出さない。黒い文字に、どちらかを選べと言われても、選ばない。
手書きの記録が、雲記を通して帰岸庫へ届く。
白い貝の横に、もう一つ小さな記録片が生まれた。
ソファ。
二つのマグカップ。
ゲーム機とメモ帳。
その下に、真琴の字が刻まれる。
**唐傘家の居間。帰る途中の二人と、待つ一人の休む場所。**
帰岸庫の棚が、静かに明るくなる。
しかし、次の瞬間。
白い貝の向こうで、玄関のチャイムが鳴った。
ピンポーン。
真琴の呼吸が止まる。
同じ時刻を繰り返す部屋に、今までなかった音。
――誰か、来た。
「開けないで」
アマンテルスが、すぐに言った。
「母さん、相手の名前を聞く前に、絶対開けるな」
――分かってる。
チャイムが、もう一度鳴る。
ピンポーン。
続いて、扉の向こうから男の声がした。
「救急です。ご家族から連絡を受けました。中の方、応答をお願いします」
真琴の息が揺れる。
息子たちは眠ったまま。
三日間、外へ出られない。
救急だと言われれば、開けたいと思う。
誰かに助けを求めたいと思う。
観測者は、ただ選択肢を画面に出すだけではない。
母が一人で判断しなければならない状況を、現実の形で作る。
「本物かもしれない」
真琴が、小さく言う。
「本物かもしれません」
フィルブランテは答えた。
「だから、開けるなとは言いません。ただし、確認の手順を作りましょう」
扉の向こうから、男の声が続く。
「中に意識のない方がいると通報がありました。鍵を開けてください」
「誰が通報したと、確認できますか」
真琴が、扉へ向けて聞く。
声は、少し震えている。
しかし、開けない。
「匿名のご近所の方です」
男が答える。
「お名前と所属を、扉の下から書面で入れてください」
真琴は言う。
「私は中で確認します。あなたが本当に救急なら、書面を置けますよね」
帰岸庫にいる者たちが、息を止める。
扉の向こうで、沈黙がある。
長い沈黙。
やがて、男の声が少し低くなった。
「時間がありません。どちらか一人だけなら、今すぐ助けられます」
アマンテルスの影が、帰岸庫の床を黒く染める。
フィルブランテの氷晶が、白い貝の周囲へ広がる。
「それが、観測者です」
ノエルが言う。
救急の名を借り、緊急を作り、二人のうち一人を選ばせる。
書面を置けない。
名を記せない。
同意を待てない。
だから、本物の救助者ではない。
「母さん」
アマンテルスが言う。
「今の声、聞いたな。俺たちの名前を、二つ別々に言った。でも、自分の名前を言わなかった」
――うん。
「観測者は、誰を助けるかを選ばせたい。でも、自分が誰なのかは、記録されたくない」
――なら、書いておく。
真琴のペンの音がする。
――“午後七時十二分。扉の外に、救急を名乗る声。所属と名を書面で示すよう求めたが、示さなかった。アマンテルスとフィルブランテのどちらか一人だけなら助けられると述べた。私は、扉を開けていない”。
雲記に、手書きの記録が届く。
その瞬間、扉の向こうで黒い何かが擦れる音がした。
観測者は、真琴の手書き記録を嫌っている。
自分の名がないこと。
書面を出せないこと。
選ばせようとしたこと。
それらが、黒水の形を固定してしまうからだ。
「書かれた」
アリスが言った。
「観測者は、見ているだけではありません。“名を記さずに選ばせるもの”として、今、記録になりました」
白い貝の周りに、黒い輪郭が現れる。
顔はない。
ただ、扉の形をした影。
記録片の上に、ノエルが術式を刻む。
**観測者:所属・名・書面を示さず、緊急を理由に選別を迫るもの。**
黒い輪郭が、激しく揺れる。
自分が見られる側になる。
それは、観測者にとって都合が悪い。
「でも、記録しただけでは部屋から消えません」
リゼットが言う。
――扉の向こうの声が、また言ってる。
真琴の声が、少しだけ急ぐ。
――“二人とも助からない”って。
「母さん、時計を見て」
フィルブランテが言った。
――七時十二分。
「窓の外は」
――暗いまま。
「台所の冷蔵庫は」
――ちゃんと動いてる。
「玄関の買い物袋は」
――ある。
「なら、今ある事実は変わっていません」
フィルブランテの声は、静かだった。
「扉の向こうの声は、“助からない”という未来を言っています。でも、母さんが今、確認できる事実ではありません」
黒水は、未来を断言する。
今すぐ選ばなければ、失う。
でも、未来はまだ記録されていない。
アリスの雲が、それを示すように白く光る。
「真琴さん」
アリスが、白い貝へ話しかける。
「扉を開けるかどうかを、今、決めなくていいです。扉の向こうの声も、今は入れない。今いる部屋で、休むことを選んでください」
――休む。
真琴が小さく繰り返す。
「はい。冷めた麦茶を飲んで、息子さんたちの呼吸を確認して、ノートに今のことを書いてください。次の一分まで、選ばないでください」
――一分。
「一分後も、また選ばなくていいです」
アリスの声は、穏やかだった。
「誰かを選ぶために急がせるものは、あなたの時間を奪おうとしています。時間を、小さく取り戻してください」
扉の向こうの声が、強く扉を叩く。
ドン、ドン、ドン。
真琴が息を呑む。
でも、鍵を開けない。
麦茶のグラスを取る音がする。
一口、飲む。
ノートへペンを走らせる。
――“扉の外の声が、扉を叩いている。私は今、麦茶を飲んだ。アマンテルスとフィルブランテの呼吸を確認した。二人とも生きている。私は次の一分、選ばない”。
その一文が、帰岸庫へ届いた。
白い棚の上に、雲の小さな時計が生まれる。
針は七時十二分を指している。
しかし、秒針だけがゆっくり進む。
カチ。
カチ。
カチ。
帰岸庫にいる皆が、その音を聞く。
対岸の時計が、初めて七時十三分へ進んだ。
――時計が。
真琴の声が、震える。
――動いた。
扉の向こうの叩く音が止まる。
黒い観測者の輪郭が、白い貝の周囲で大きく揺れた。
観測者は、選ばせることで時間を止めていた。
真琴が、選ばず、事実を記し、次の一分を自分で使ったことで、同じ時刻の檻にひびが入った。
「観測者の条件が、一つ分かりました」
ノエルが、結晶板に浮かぶ黒い術式を読む。
「選別の術式は、“急がなければ失う”と信じる観測者を必要としている。真琴さんが事実を確認し、保留を選んだことで、時間の固定が崩れた」
「でも、まだ黒い影はある」
リゼットが言う。
「はい」
ノエルの表情は、硬い。
「次の条件も必要です。観測者は、真琴さんが一人で判断するよう仕向けている。今は、こちらが声を届けているから揺らいだ。でも、通信が切れたあとも、彼女の部屋で一人になれば、また形を取り直す」
「なら、対岸に証人を増やす」
アマンテルスが言う。
「でも、母さんは部屋から出られない」
そのとき、白い貝の向こうで、真琴が小さく息を呑んだ。
――窓の外に、誰かいる。
全員が固まる。
「見ないでください」
シリルが、反射的に言う。
――見えちゃったの。向かいの家のベランダに、女の子がいる。
真琴の声には、戸惑いが混じっていた。
――傘を持って、こっちを見ている。……でも、向かいの家には、あんな子いなかったはず。
黒水の新しい形かもしれない。
観測者が、別の証人を装っているのかもしれない。
「母さん、その子に窓を開けないで」
アマンテルスが言った。
「でも、声は聞いていい。名前と、今いる場所を聞け」
――分かった。
少し間がある。
窓ガラス越しに、真琴が声をかけているのだろう。
――あなた、お名前は?
返事は、すぐには聞こえない。
やがて、幼い少女の声が、白い貝へかすかに届いた。
――……ミナ。
帰岸庫にいるルカが、目を見開く。
黒水の舟にいた、名を思い出している途中の少女。
アウローラ港で、休む場所を記録したミナ。
同じ名の別人かもしれない。
でも、アリスの雲が、淡く光る。
「雲記に、ミナさんの応答があります」
アリスが言う。
「アウローラ港で保護された子。今は、第二倉庫の休憩所にいるはずです」
「対岸の窓にいる子は」
ノエルが結晶板を見た。
「黒水の模倣ではない。ミナさんの記録が、観測者に引かれて対岸の窓へ“映っている”」
記録が、別の世界へ映されている。
観測者は、真琴を一人にするため、帰岸記録に残った子どもの姿を利用しようとしている。
だが、今度は逆にできる。
ミナの名は、既にアウローラで複数の人が記している。
彼女は、黒水が勝手に作った名ではない。
「真琴さん」
アリスが言う。
「窓の向こうのミナさんへ、聞いてください。今、どこで休んでいるかを」
――ミナちゃん。今、どこにいるの?
少女は、傘を握ったまま、窓越しに答える。
――……分からない。
「好きなものは」
ルカが、白い貝へ近づく。
「ミナ。温かい飲み物、飲みたいって言ってたよね」
対岸の少女が、顔を上げる。
――うん。
「アウローラの第二倉庫で、今、誰かが温かい飲み物を用意してる。覚えてる?」
雲記が、港の休憩所を映す。
ネレアが、湯気の立つカップを配っている。
ガルドが、毛布を運んでいる。
水鱗族のセラが、子どもたちのそばにいる。
対岸の窓に映るミナの輪郭が、少し白くなる。
――ここ、じゃない。
少女は言った。
――わたし、あっちにいる。
真琴が、窓の向こうへ頷く。
――そうね。あなたは、あちらで休んでいるのね。
少女の傘が、白い雲へほどけていく。
黒い観測者が、彼女を「対岸で孤立する子」の姿に変えようとした。
しかし、ミナには既に休む場所がある。
今いる場所を記録した人がいる。
だから、偽の孤立へ固定できない。
少女の姿は、港の雲記へ戻っていく。
帰岸庫の外で、黒い影が一度だけ大きく揺れた。
「これが、対岸の証人を増やす方法です」
フィルブランテが言った。
「真琴さんの部屋へ、誰かを無理に引き込むのではない。既に各地にいる人の記録が、観測者の作る偽の孤立を拒む」
「一人の部屋でも、一人きりではない」
リゼットが言う。
「誰かの記録を勝手に連れてくるのではなく、本人が残した“今いる場所”を、皆で忘れない」
真琴の声が、少し落ち着いた。
――ミナちゃん、無事なのね。
「はい」
ルカが答える。
「帰る途中の人です」
――そう。
真琴は、小さく笑った。
――じゃあ、私も、帰る途中の人なのね。
「そうです」
アリスが言う。
「部屋から出られなくても、今、自分の時間を進めている。真琴さんも、帰る途中です」
◇
観測者は、扉の影と、窓の影を失った。
しかし、完全に消えたわけではない。
帰岸庫の結晶板に、黒い術式の断片が残っている。
ノエルは、そこへ顔を近づけた。
「これは、選別の式ではない」
彼は言った。
「選別の式を動かすための、観測の式です」
「違いは」
カイラスが問う。
「選別そのものは、まだ別の場所で行われている。観測者は、誰が“急いで一人を選ぶか”を記録しているだけ」
ノエルは、黒い断片を一つずつ分解する。
そこには、三つの項目が書かれていた。
**一、守る者が一人であること。**
**二、守られる者が複数であること。**
**三、失う未来を、今すぐ確定させること。**
「母さんは、一人だった」
アマンテルスが言う。
「俺たち二人を守っていて。失うかもしれないって言われて」
「だから、観測者は母さんを標的にした」
フィルブランテが続ける。
黒水は、家族を愛する者の気持ちを利用する。
守る人が一人で、守る相手が複数なら。
どうしても選ばなければならない状況を作る。
そして、選んだ瞬間に、残されなかった者の記録を切る。
「ザハルの本命は、帰還の選択ではありません」
フィルブランテは、黒い術式を見る。
「誰かが一人で、ほかの誰かの未来を決める瞬間を集めることです」
「運命式の燃料」
ノエルが頷く。
「王国と魔侯領の戦争も。学院の断罪も。各地の黒水の雨も。すべて、“一人が皆の未来を決める”状態を作るための前段だった」
水鏡を割るには、兄弟が互いを手放す言葉が必要だと、セラフィナの記録は示していた。
だが、兄弟だけではない。
世界のあちこちで、誰かが誰かを選ぶ。
その記録を集めれば、ザハルは一つの大きな選別を完成させられる。
「では、どう止める」
シリルが問う。
フィルブランテは、真琴の帰岸記録を見る。
母は一人だった。
けれど、自分が一人で決めないと書いた。
今いる事実を記し、次の一分を取り戻した。
各地の記録が、その声を支えた。
「選ばなければならない状況にいる人を、先に一人にしないことです」
フィルブランテは言った。
「帰岸記録を、避難者や帰還者のためだけのものにしない。誰かが“大切な人を選べ”と迫られたとき、今いる事実を共有し、保留できるようにするための網へ広げます」
「世界中に」
レオンハルトが言う。
「簡単ではありません」
「簡単ではないです」
フィルブランテは頷く。
「でも、黒水の雨は既に各地へ触れています。帰岸記録も、各地にあります。今度は、そこへ“選別の罠を見分ける記録”を加えます」
ノエルが結晶板に書く。
**選ばせる者の記録。**
名を示さない。
書面を示さない。
今すぐ選べと急がせる。
誰か一人が決めなければ、皆を失うと断言する。
その言葉に従う前に、今の事実を確認する。
証人を呼ぶ。
選択を保留する。
「これは、戦うための術ではありません」
リゼットが言う。
「でも、誰かが追い詰められたときに、一人で戦わないための言葉になります」
アリスの雲が、白く広がる。
港。
薬園。
夜嶺。
学院。
帰岸記録のある場所へ、新しい短い文章が届く。
**急がされる前に、今を記す。**
**一人で決める前に、証人を呼ぶ。**
**誰かを選ばせる声にも、名と理由を求める。**
これは、誰かを疑うための規則ではない。
本当に助けが必要なときも、手順を作るための言葉だ。
助けを求める者も。
助ける者も。
誰かを置いていく選択を、孤立の中でしないために。
◇
白い貝の向こうで、真琴がノートを閉じる音がした。
――時計が、七時十四分になった。
アマンテルスとフィルブランテは、少し笑う。
二分。
たった二分。
でも、三日間動かなかった時計が、二分進んだ。
――玄関の向こうは、静か。窓の外も、普通の夜に見える。
「普通の夜に見えるなら、今は休んで」
フィルブランテが言う。
――眠れないと思う。
「眠らなくてもいいです」
リゼットが、優しく言った。
「目を閉じて、椅子に座って、少しだけ息を休ませてください」
――ありがとう、リゼットさん。
「どういたしまして」
真琴は、少し間を置いてから言った。
――透、輝。皆さん。私、今、自分の名前を書いて、今いる部屋を書いて、次の一分を待てた。
「うん」
アマンテルスが答える。
――だから、次の一分もできると思う。
黒水は、急がせる。
だから、次の一分を自分で選ぶことが、抵抗になる。
真琴は、ただ息子を待つ母ではない。
自分の名と居場所を記録し、黒水の選別を拒んだ、対岸の最初の証人になった。
「母さん」
フィルブランテが言う。
「また、話そう」
――うん。また話しましょう。
通信は、少しずつ細くなっていく。
しかし、今度は不安だけではない。
帰岸庫の棚には、唐傘家の居間の記録片がある。
二つのマグカップ。
ソファ。
ゲーム機とメモ帳。
帰る途中の二人と、待つ一人の休む場所。
それは、黒水が勝手に選別の舞台へ変えられない記録になった。
白い貝の光が消えた後、結晶板に新しい線が現れた。
黒水の線ではない。
各地の帰岸記録から、細い白い線が一つずつ伸びている。
港。
薬園。
夜嶺。
学院。
黄昏島。
帰岸庫。
そして、対岸の唐傘家の居間。
それらは中心に集まらない。
互いを照らし合うように、輪を作っている。
「選別式の第一条件が、崩れました」
ノエルが言う。
「守る者を一人にすること。少なくとも、真琴さんの記録では成立しない」
「次は、別の場所を狙う」
カイラスが言った。
「ザハルは、条件が崩れた場所を放っておかない」
「分かってる」
アマンテルスは、黒い日傘を開く。
「でも、今度は俺たちも、狙われる前に記録を作れる」
フィルブランテは、手帳の新しい頁を開いた。
題は、まだ書かない。
次に誰が、一人で選ばされそうになるのか。
それを先に決めつけることは、また別の選別になる。
ただ、余白を残す。
誰かが、助けを求める声を書けるように。
帰岸庫の外では、霧の海が静かに揺れている。
黒水は、まだどこかにいる。
しかし対岸の時計は、確かに進んだ。
誰かを選ばずに進んだ二分が、二つの世界の間に、小さな道を残していた。




