第二十三話 母は、帰れと言わない
帰岸庫の静かな棚の間で、白い貝が温かく鳴った。
――透。輝。聞こえる?
聞き慣れた声だった。
朝、寝坊した二人を起こす声。
夜遅くまでゲームをしていれば、呆れながらも温かい飲み物を置いていく声。
買い物の帰りに、夕飯は何がいいと訊く声。
唐傘透と唐傘輝が、何度も聞いた声。
母の声。
アマンテルスの手から、黒い日傘が滑り落ちそうになる。
フィルブランテは、白い儀礼扇を胸へ抱いたまま、動けなかった。
帰りたいと、何度も思った。
元の世界へ。
家へ。
母のいる部屋へ。
その願いを、黒水は何度も利用しようとした。
だから、今、目の前で聞こえた声が本物だと信じることが、怖い。
「確認します」
最初に声を出したのは、フィルブランテだった。
声が少し掠れている。
「帰岸庫の記録は、対岸からの応答を受け取るとあります。しかし、黒水も帰還の願いを模倣できます」
「そうですね」
アリスが、雲の小瓶を両手で包む。
「声だけで、本物だと決めてはいけません」
アマンテルスは、唇を噛んだ。
分かっている。
分かっているのに、今すぐ「母さん」と呼び返したかった。
呼んで、無事だと言いたい。
帰りたいと、言いたい。
でも、それで黒水の作った偽物へ答えたなら。
自分たちだけでなく、母まで危険にさらすかもしれない。
「認証の方法はありますか」
レオンハルトが問う。
帰岸庫の棚は、二人の記録片の周囲だけ淡く光っている。
黒い日傘。
白い儀礼扇。
その間にある小さな白い貝から、声は届いている。
「記録の持ち主にしか分からない事実を、互いに確認することはできます」
ノエルが答えた。
「ただし、黒水が二人の記憶を読んでいる可能性もあります。答えが一つに定まる問いは、危険です」
「一つに定まらない、でも俺たちにしか分からないこと」
アマンテルスが呟く。
兄弟は、顔を見合わせる。
元の世界の思い出。
ゲームのタイムアタック。
昔の喧嘩。
母が作る料理。
どれも、黒水が覗いた可能性がある。
「問いではなく、選び方を聞きましょう」
フィルブランテが言った。
「事実ではなく、母さんならどうするか。誰かが記憶を読んでも、同じ答えを作りにくいものを」
アマンテルスは、少し考えた。
そして、白い貝へ近づく。
声を出す前に、深く息を吸った。
「……聞こえるなら、答えて」
帰岸庫の空気が、静まる。
「俺と輝が、昔、夏祭りで喧嘩したとき。母さんは、どっちを先に怒った」
母の声は、すぐには返らなかった。
白い貝の向こうで、何かが擦れる音。
机の引き出しを開けるような、小さな音。
やがて、少し泣き笑いの混じった声がした。
――二人とも先に怒ったわよ。人の浴衣に、かき氷をぶつけたんだから。
アマンテルスの肩が、わずかに揺れる。
フィルブランテは目を閉じた。
その後、母は二人へ何をしたか。
黒水が模倣しようとしても、たぶん、答えは一つにならない。
「じゃあ、次」
フィルブランテが、貝へ言う。
「帰り道に、兄貴が泣いて、僕が先に謝ったとき。母さんは、夕飯を何にしましたか」
貝の向こうで、短い笑い声がした。
――アマンテルスが泣いたのは、かき氷が頭に当たったからじゃなくて、金魚すくいの金魚を落としたからでしょう。
「余計なこと言わなくていい」
アマンテルスが、思わず言う。
――夕飯は、オムライス。二人のケチャップの字が、あまりにも読めなかったから。
「兄貴のは、何て書いてあったんでしたっけ」
「忘れた」
――“ごめん”よ。アマンテルスの字は、“ご”だけ大きかった。
アマンテルスが、顔を覆う。
リゼットが小さく笑う。
レオンハルトも、少しだけ目元を和らげた。
泣きそうな再会の中で、どうしようもなく生活の匂いがする。
それが、黒水の作る完璧な帰還の幻とは違っていた。
黒水は、帰りたいという結論だけを強くする。
けれど、母の声は二人の失敗を覚えている。
泣いた理由を少し間違えながらも、夕飯を作ったことを覚えている。
誰かを選ばせるためではない。
ただ、家族だった時間を、曖昧なまま持っている。
「本物、ですね」
アリスが、そっと言った。
雲の小瓶の中で、白い雲がやわらかく揺れる。
「完全な証明ではありません。でも、この記録には、黒水が作る“正しい答え”ではない余白があります」
アマンテルスは、もう一度、白い貝へ手を伸ばした。
今度は、ためらわない。
「母さん」
声が、震えた。
「俺たち、聞こえてる」
貝の向こうで、大きく息を呑む音がする。
――アマンテルス。
「うん」
――フィルブランテも?
「いるよ」
フィルブランテの声は、何とか保たれていた。
「僕も聞こえてる。母さん」
白い貝から、押し殺した泣き声が聞こえた。
大人が、子どもの前で泣かないようにしようとして、でも失敗したときの音。
アマンテルスの胸が、痛くなる。
母は、どれほど心配したのだろう。
自分たちは、眠ってからどれほどの間、帰らなかったのだろう。
「こっちは、どのくらい経ってる」
アマンテルスが尋ねる。
少し間がある。
――正確には分からないの。
母の声が答えた。
――あなたたちが寝落ちした夜から、こちらでは三日と少し。でも時計は、毎日同じ時刻を何度も指すのよ。
「三日」
フィルブランテが呟く。
こちらでは、転生してから一年近い時間が流れている。
母の世界では、三日。
それでも、ただの三日ではないらしい。
――最初の朝、起こしても起きなくて。呼吸はしていたし、熱もなかった。救急へ連絡しようとしたら、ゲーム機の画面が急に光ったの。
貝の向こうで、椅子が引かれる音がする。
――画面に、“記録を開きますか”って出た。怖かったけれど、あなたたちの名前が出ていたから。
「画面に、俺たちの名前が」
アマンテルスが言う。
――うん。最初は、アマンテルスとフィルブランテの名前だけ。次に、黒い日傘と白い扇の絵が出た。
フィルブランテは、自分の儀礼扇を見る。
アマンテルスは、黒い日傘の柄を握る。
二人の現在の姿が、元の世界の画面にも映っている。
――それから、知らない文字がたくさん出て。触らない方がいいと思ったのに、今日は白い貝の絵が出たの。
「触りましたか」
ノエルが、思わず問いかける。
母の声が少し驚く。
――あなたは、どなた?
「ノエル・アストラです」
少年は、きちんと名乗った。
「二人の仲間です。今、こちらで、記録の安全を確認しています」
少し沈黙がある。
知らない世界の、知らない少年。
それでも母は、すぐに問い返さなかった。
――仲間がいるのね。
「はい」
リゼットが、白い貝へ近づく。
「わたしはリゼット・セレニアです。お二人に、何度も助けてもらいました」
――そう。
母の声が、少し柔らかくなる。
――二人が、誰かを助けているのね。
「はい」
リゼットは、はっきり答える。
「そして、二人にも助けてもらっています」
母は、長く息を吐いた。
――よかった。
それだけだった。
元の世界では、息子たちが眠ったままだ。
どこにいるのかも、どうすれば戻るのかも分からない。
それでもまず、二人が一人ではないと知って、母はよかったと言った。
アマンテルスは、言葉が出なかった。
フィルブランテも、黙っている。
「母さん」
アマンテルスが、ようやく言う。
「俺たち、帰る方法を探してる。でも」
でも、今すぐ帰れない。
帰るために、誰かを置いていけない。
この世界の家族も、仲間も、名前を呼んでくれた人たちもいる。
そう言わなければならない。
母に、待たせると言わなければならない。
それが怖い。
母の声は、透が言い終える前に聞こえた。
――帰ってきなさい、とは言わない。
アマンテルスとフィルブランテが、同時に息を止める。
――帰れるなら帰ってきてほしい。会いたい。ものすごく会いたい。でも、あなたたちが、今いる場所で誰かを置いてくるしかないなら、そんな帰り方をしなさいとは言わない。
白い貝の周りに、淡い雲が集まる。
アリスは、何も言わずに目を伏せた。
帰る場所を失った人。
帰る場所があっても、そこへ戻るために何かを捨てさせられた人。
その両方を、彼女は見てきた。
――あなたたちが生きて、二人で話して、誰かと一緒に考えられるなら。それが先よ。
「でも、待たせる」
フィルブランテの声が、少し掠れた。
――待つのは、母親の仕事の一つです。
母は、少し笑った。
――ただし、勝手にいなくならないで。無茶をするなら、誰かに言って。ご飯は食べて。寝るなら、ちゃんと寝て。
「そこ、元の世界と変わらないんだ」
アマンテルスが言う。
――変えません。
その言葉に、皆が少し笑った。
戦いの最中。
帰岸庫の外には、黒水の履歴が残っている。
母の声を聞いている間にも、危険は消えていない。
それでも、笑える。
帰る場所は、約束だけではない。
食べなさい。
寝なさい。
勝手にいなくならないで。
そんな、いつもの言葉の中にもある。
◇
「通信は、長く続けない方がいい」
ノエルが静かに言った。
白い貝の周囲に、黒い履歴の細い線が近づいている。
「黒水が、対岸への応答を追跡し始めています」
母の声も、それを聞いたらしい。
――黒い文字が、また画面に出てきたわ。
「何と書いてありますか」
フィルブランテが問う。
――“帰還者を選択してください”
帰岸庫の空気が冷える。
母は、続けた。
――選択肢が二つ。アマンテルス、と、フィルブランテ。
アマンテルスの影が、大きく揺れる。
フィルブランテの手から、儀礼扇が滑りそうになる。
また、二択。
一人だけ帰す。
一人だけ目を覚まさせる。
もう一人を、こちらへ残すか、消すか。
ザハルは、二人の兄弟関係を選別の鍵にしたい。
「触らないで」
アマンテルスが叫んだ。
声は、思ったより大きく、帰岸庫の棚に響く。
「母さん、何も押すな。絶対」
――押していないわ。
母の声は、落ち着いていた。
――でも、画面が勝手に、アマンテルスの方を光らせている。
「兄貴」
フィルブランテが、アマンテルスを見る。
黒水は、アマンテルスの性格を知っている。
弟を助けるために、自分が帰ればいいと思わせる。
アマンテルスの方も、弟が帰れるなら自分が残っていいと思う。
選択肢は、二人の願いの形をしている。
だから危険だ。
「選ばない」
アマンテルスは、低く言った。
母へ。
黒水へ。
自分自身へ。
「母さん、俺が帰れるなら、輝も一緒じゃないと意味ない」
――分かってる。
「フィルブランテも」
――分かってる。
母の返事は早かった。
――二人の名前を別々の選択肢にした画面なら、私は選ばない。
黒い線が、白い貝へ近づく。
ザハルの声が、帰岸庫ではなく、母の世界の画面から響いているようだった。
白い貝の中にも、遠い機械的な音が混じる。
「母上」
レオンハルトが、貝へ名乗った。
母は少し驚いたように息を呑む。
「私はレオンハルト・セレディア。この世界の王太子です」
――王太子さん?
「はい。今、アマンテルスとフィルブランテは、この世界で多くの人を守っています」
レオンハルトは、まっすぐ言った。
「彼らを、どちらか一人だけにする選択は、私たちも認めません」
母の声が、少し震える。
――ありがとうございます。
「感謝されることではありません」
レオンハルトは答える。
「仲間を守るのは、当然です」
黒い線は、今度はレオンハルトの声を辿ろうとする。
王太子。
王国。
王太子が認める者。
黒水は、権威の言葉を利用して、帰還の選別を正当化しようとする。
「待って」
アリスが言う。
雲の小瓶を開く。
「対岸へ、こちらの名前を一度に送ってはいけません。黒水が、誰が誰を帰す権限を持つかという記録に変えます」
「なら、どうする」
アマンテルスが問う。
「許可を、分けるのです」
アリスは、白い貝の周りに薄い雲を作る。
「誰か一人が、帰還を決められないように。アマンテルスさんとフィルブランテさんが、自分のことを決める。対岸のお母様は、二人を待つことを決める。私たちは、二人が生きる場所を守ることを決める」
「それを、記録にする」
ノエルが続ける。
「帰還の命令ではなく、通信の同意として」
フィルブランテは、すぐに理解した。
帰還する。
しない。
どちらかを今決める必要はない。
今決めるのは、互いの声を聞くことだけ。
「母さん」
フィルブランテは、白い貝へ言った。
「今から、約束を記録します。これは帰る日を決める約束ではありません」
――うん。
「僕たちは、どちらか一人だけで帰る選択をしない」
アマンテルスが続ける。
「今いる仲間を、帰るための代価にしない」
「そして」
フィルブランテは、一度、息を吸った。
「母さんは、僕たちが返事をしない限り、画面の帰還選択に触らない。僕たちを、画面の答えで決めない」
少し沈黙がある。
母は、画面の前にいる。
眠ったままの二人のそばにいる。
もしボタンを押せば、どちらかが目を覚ますかもしれない。
押さなければ、何も変わらないように見えるかもしれない。
それでも。
――約束します。
母の声は、はっきりとしていた。
――あなたたちを、私の不安のために選ばない。画面が何を言っても、二人が自分で話せるまで、勝手に決めない。
白い貝が、淡い金色に光る。
雲記が、その言葉を包む。
帰岸庫の棚に、新しい小さな記録片が生まれた。
黒い日傘。
白い儀礼扇。
そして、二つの間に、小さな湯気の立つマグカップの形。
そこには、短く刻まれている。
**対岸通信。帰還を決めず、声を聞く。**
黒い線が、記録片に触れようとする。
しかし、雲の境界に弾かれる。
誰が帰るかを決める権限は、そこにない。
ただ、今、互いに声を聞くことを許した記録だけが残る。
「選択肢が、消えました」
母の声が言った。
――アマンテルスとフィルブランテの名前が、画面から消えて。代わりに、“記録を保留します”と出ている。
「保留」
フィルブランテが、少し笑う。
学院の名簿に、自分たちの席を残した言葉。
帰るか消えるかを、今決めないための言葉。
保留は、諦めではない。
誰かを、記録から消さないための余白だ。
「母さん」
アマンテルスが言った。
「こっちの時間、すごく長い。でも、母さんの声を聞いたから、たぶんもう少し頑張れる」
――頑張りすぎないで。
「それ、さっきも聞いた」
――何回でも言います。
アマンテルスが笑う。
涙を拭きながら。
◇
通信は、あと少ししか保たない。
ノエルは、黒水の履歴が白い貝の外側で渦を作っているのを見ていた。
対岸の画面にも、黒水は触れ始めている。
「お母様」
ノエルが言う。
「画面に、黒い文字や、見たことのない選択肢が出たら、内容を紙へ書いてください。写真に撮るのではなく、手で書く方が安全です」
――紙に?
「はい。黒水は画面の記録を利用します。紙へ移すとき、書いた人の言葉と時間が残る。それを、こちらの雲記と照合できます」
――分かった。ノートを用意するわ。
「誰かほかの人へ、二人のことを伝えられますか」
レオンハルトが尋ねる。
母は、すぐに答えなかった。
――病院には、まだ連れていけていないの。時計が同じ時間を繰り返すから、外へ出ようとしても、玄関を開けると、また部屋の前に戻ってしまう。
「閉じ込められている」
リゼットが、息を呑む。
母の世界も、黒水の影響を受け始めている。
世界をまたぐ窓の向こうで、母だけが隔てられている。
――でも、家の中には水も食べ物もある。二人の呼吸も、脈も、ちゃんとある。私も、慌てないようにする。
「母さん」
フィルブランテが言う。
「一人ですか」
――一人よ。でも、今はあなたたちの声がある。
その言葉が、静かに痛い。
彼女は息子たちを助けようとして、一人で同じ時刻の部屋へ閉じ込められている。
アマンテルスの影が、床へ広がる。
「俺たちが行く」
「兄貴」
「今すぐじゃない」
アマンテルスは、すぐに続ける。
「今すぐ、どうにかして帰るって意味じゃない。母さんが一人で閉じ込められてるなら、そこも守る方法を探す」
「そうです」
フィルブランテは、頷く。
「対岸通信ができたなら、帰ることだけではなく、こちらから情報を渡すこともできるはずです。母さんのいる部屋が、黒水の外へ出られないなら、その部屋自体を帰岸記録として守れないか、調べます」
母の声が、少し明るくなる。
――頼もしくなったわね、フィルブランテ。
「僕は」
フィルブランテは、一瞬迷う。
フィルブランテとしての声。
唐傘輝としての言葉。
どちらで返すか。
「こっちでは、少し違う名前で生きてるから」
――聞いたわ。フィルブランテ、でしょう?
「はい」
――アマンテルスも、その名前で生きているのね。
「うん」
――二つとも、大事な名前なのね。
母の言葉は、問いではなかった。
確認でも、許可でもない。
ただ、二人がそう言ったことを、そのまま受け取る声だった。
「大事だよ」
アマンテルスが言う。
――分かった。
それだけでよかった。
「母さんも」
フィルブランテが言った。
「こっちで話すとき、名前を残していい?」
母の呼び名。
唐傘真琴。
元の世界にしかない名を、この世界の記録へ置くこと。
それは、黒水に狙われる危険もある。
けれど、名を残さないことは、母を一人にすることでもある。
アリスが、雲の小瓶を見た。
「名前は、本人が選ぶものです」
少女が、白い貝へ言う。
「お母様。こちらに、ご自身の名を記してもよいですか。記す範囲は、“アマンテルスさんとフィルブランテさんの対岸通信に応答する方”だけにできます」
少し沈黙がある。
母は、画面の前で考えている。
――いいわ。
そして、はっきりと告げた。
――唐傘真琴。透と輝の母です。二人が戻る日を、私一人で決めない人です。
白い貝の横に、小さな記録片が現れた。
湯気の立つマグカップ。
その中に、黒い日傘と白い儀礼扇が小さく描かれている。
**唐傘真琴。対岸通信の応答者。帰還を一人で決めない。**
黒水の線は、記録片の外側を回るだけで、触れられない。
母の名は、世界をまたぐ座標ではない。
二人の声へ返事をした、今の記録だけが残っている。
◇
しかし、黒水は諦めなかった。
白い貝から、もう一つ声が聞こえた。
真琴の声ではない。
真琴の声に似ている。
しかし、少しだけ滑らかすぎる。
息継ぎも、言いよどみもない。
――透。輝。早く帰ってきて。
帰岸庫の棚が、黒く揺れる。
――お母さん、一人で怖いの。だから、どちらでもいいから、先に帰ってきて。
アマンテルスの影が、激しく揺れた。
フィルブランテの顔が、青ざめる。
本物の母が、一人で閉じ込められている。
だからこそ、この偽の声は、二人の心へ深く刺さる。
どちらでもいいから。
先に帰ってきて。
母がそんなことを言うかもしれない。
言わないと、断言できない。
怖いなら、誰でもいいからそばにいてほしいと思うかもしれない。
黒水は、そこを使う。
「違う」
フィルブランテが、先に言った。
声は震えている。
でも、白い貝へ手を伸ばさない。
「今の言葉が、母さんの中にないとは言いません。怖いなら、そう思うこともあると思う」
偽の声が、少し止まる。
「でも、これは母さんが、僕たちへ今、選ばせる言葉ではない」
アマンテルスが続ける。
「怖いからって、俺たちを一人だけ帰せとは言わない。言うなら、ちゃんと自分の名前で言う」
「本物の真琴さんは、帰還を一人で決めないと記録しました」
アリスが言う。
「その同意を持たない声は、対岸通信の応答者ではありません」
白い雲が、偽の声の周囲へ広がる。
雲は、声を消さない。
黒水が作った言葉を、一つの記録として分ける。
**黒水の模倣。母の不安を利用した選別の誘導。**
フィルブランテの氷晶が、その履歴を固定する。
ザハルの命令。
帰還選択。
唐傘真琴の声の模倣。
すべてが、黒水の術式として、帰岸庫の記録へ残る。
「消さないのですか」
リゼットが問う。
「消せば、また同じ言葉を別の形で使われます」
フィルブランテは答えた。
「これは、母さんの言葉ではないと、皆で分かる形で残します」
偽の声は、黒い煙になって雲の中へ散った。
残った白い貝から、本物の真琴の声が届く。
――今、誰かが私の声で話した?
「うん。でも、もう大丈夫」
アマンテルスが言う。
――そう。なら、私も記録するわ。
紙をめくる音がする。
――“私の声に似たものが、二人へ一人で帰れと言った。私は言っていない”。これでいい?
「いい」
フィルブランテの声が、少し震えた。
「すごく、いい」
対岸で、真琴が書いた紙の言葉が、白い貝へ淡い文字として届く。
画面ではなく。
黒水がすぐには書き換えられない、手書きの記録。
それが、帰岸庫の雲へ写される。
**私は、透と輝へ、一人で帰れと言っていない。――唐傘真琴**
黒水の履歴が、少しだけ薄くなった。
「対岸の手書き記録も、こちらへ届く」
ノエルが言う。
「画面の術式だけに頼らない。これなら、対岸でも分散記録を作れる」
母の世界にいるのは、今のところ真琴一人だけ。
けれど、紙へ書く。
声を残す。
選択を保留する。
それだけでも、黒水が決めた記録を、そのまま受け取らないことはできる。
帰岸記録は、世界を越えた。
◇
白い貝の通信が、少しずつ弱くなっていく。
対岸の画面にも、霧が広がり始めているのだろう。
「母さん」
アマンテルスが言う。
「切れる前に、一つだけ」
――何?
「俺たち、ちゃんと生きてる」
言葉にすると、胸が詰まる。
生きている。
この世界の身体で。
別の名前で。
多くの人を守り、守られながら。
それを、母へ伝えたかった。
「フィルブランテも、俺も」
「うん」
フィルブランテが続ける。
「僕たち、今すぐ帰れなくても、消えてはいない。母さんが待ってくれていることも、忘れない」
貝の向こうで、真琴が泣いている。
――分かった。
母の声は、少し震えていた。
――私も、生きて待つ。二人が、帰る途中でいられるように。
「母さん」
アマンテルスが、もう一度呼ぶ。
――何?
「オムライス、また作って」
少し沈黙があって。
真琴は、泣きながら笑った。
――ケチャップの字、今度はちゃんと書きなさい。
「善処する」
「兄貴は、絶対に直す気がない」
――フィルブランテも、食べる前に写真を撮りすぎないこと。
「なぜそれを」
――母親ですから。
通信の光が、ゆっくり細くなる。
白い貝の中の声が、遠ざかっていく。
最後に、真琴が言った。
――透、輝。行ってらっしゃい。
帰っておいで、ではない。
帰りなさい、でもない。
今いる場所へ進む二人を、送り出す言葉。
――帰る途中で、また話しましょう。
白い貝の光が、静かに消えた。
帰岸庫の棚には、湯気の立つマグカップの記録片だけが残っている。
対岸通信。
帰還を決めず、声を聞く。
◇
通信が途切れた後、帰岸庫の外では、海が異様に静かだった。
黒水の船は、霧の向こうに消えている。
しかし、消えたわけではない。
フィルブランテの晶析眼には、海面に残る黒い履歴が見えていた。
黒水は、帰岸庫の入口を攻めるために残っていない。
どこかへ向かっている。
「ノエル様」
「見えている」
少年は、結晶板を強く握っていた。
そこには、これまでの黒水とは異なる線が現れている。
黄昏島へも。
帰岸庫へも。
港や夜嶺へも向かわない。
線は、対岸へ伸びている。
唐傘真琴がいる、元の世界の部屋。
「黒水が、母さんのところへ」
アマンテルスの声が低くなる。
「正確には、対岸通信の外側へ」
ノエルが言う。
「真琴さんの記録片には入れない。本人の同意と、対岸通信の範囲があるから。でも、部屋の周囲に“帰還を望む観測者”として、黒水の輪郭ができ始めている」
「観測者」
アリスが呟く。
「誰かが見ているだけで、帰る選択を迫ることができる」
ザハルは、母を直接奪えない。
だから、母の周囲へ選択肢を置く。
眠ったアマンテルスとフィルブランテを見ている母に。
何度も同じ時刻を繰り返す部屋にいる母に。
どちらかを起こせばいいと、何度も囁くために。
「対岸にも、帰岸記録を増やせますか」
リゼットが問う。
「真琴さんは一人です」
「一人ではない」
ルカが言った。
白い貝を胸へ抱いたまま。
「さっき、ぼくたちが聞いた。母さんの声を。僕たちも、母さんが一人じゃないって、記録できる」
「こちらにいる者が、対岸の人を記録する」
フィルブランテは、考える。
しかし、それだけでは、母の部屋を守れない。
対岸にいる人が、自分で書く記録が必要だ。
真琴には紙がある。
だが、部屋の外へ出られない。
「母さんは、画面の黒い文字を紙に書くと言っていました」
フィルブランテは言った。
「なら、次の通信までに、手書きの帰岸記録を作ってもらいます。僕たちと母さんだけの記録ではなく、母さんが今いる部屋のことを」
「部屋を、帰る途中の場所として記録する」
アリスが言う。
「外へ出られなくても、そこにいる人が、黒水の選別で消されないように」
「でも、対岸の部屋には母さん一人しかいない」
アマンテルスが言う。
「一人で書いた記録は、また狙われる」
「一人で書かせません」
フィルブランテは、帰岸庫の棚を見た。
アルノの貝。
エルドの潮記。
アリスの雲。
雲の墓標に残る、帰る途中の人々の記録。
「母さんが書く言葉を、こちらで受け取り、皆で証人になります。こちらからも、母さんが今いる部屋へ、返事を残す。対岸の記録を、母さん一人の叫びにしない」
アマンテルスが頷く。
「次に繋がったら、そうしよう」
そのとき、棚の奥で、別の記録片が淡く光った。
黒い日傘でもない。
白い儀礼扇でもない。
小さなゲーム機の形をしている。
画面には、今まで見なかった文字が浮かぶ。
**観測者、対岸へ到達。**
その下に、黒い輪郭が一つ現れた。
名はない。
しかし、役割だけが書かれている。
**選ばせる者。**
ザハルは、帰還者を待っていない。
帰還者の家族に、選ばせようとしている。
アマンテルスは、黒い日傘を強く握った。
フィルブランテは、白い儀礼扇を開く。
今度は、帰るための戦いではない。
母が、一人で選ばされないための戦いが始まろうとしていた。




