68. 戻らない理由
夜が明けるころには、奏真の中で一つの答えが固まりかけていた。
王都へは戻らない。
感情だけで飛び込んでも、何も返せない。
それどころか、また都合よく処理されるだけだ。
朝の薄い光の中、奏真は水で顔を洗ってから、木にもたれた。
セレスはまだ少し眠そうな顔でこちらを見ている。
ノアはすでに周辺確認を終えて戻ってきていた。
「決めた」
奏真が言う。
『はい』
「王都には行かない」
セレスが目を上げる。
「今は?」
「今は、だな」
奏真はうなずく。
「今のまま戻っても終わりだ。名前を取り返すどころか、たぶん今度こそ本当に消される」
『可能性は高いです』
「だろうな」
感情だけなら、今すぐ戻って神崎の顔を見たい。
何を思って落としたのか、直接聞いてやりたい。
でもそれをやっても、意味がない。
王国には神崎がいる。
教会がいる。
奏真はもう“危険指定対象”として形を作られている。
そんな場所へ、今のまま飛び込んだところで勝てるわけがない。
「悔しいけどな」
奏真は乾いた笑みをこぼす。
「今戻るのは、たぶん勇気じゃなくて雑さだ」
『妥当です』
「最近それしか言わないな」
『高頻度で適切なためです』
「はいはい」
セレスが少し考えるように黙ってから言う。
「逃げる、じゃない」
「ああ」
奏真はすぐに答えた。
「そこは間違えたくない」
逃げるわけじゃない。
退くだけだ。
整えるために。
神崎の理由はまだ見えていない。
王国と教会の全部もまだ知らない。
それでも、今は少なくとも“無理をする段階じゃない”とはわかる。
それは奈落で覚えたことだった。
焦って突っこむより、見て、読んで、勝てる形を作る。
そのほうがよほど生き残れる。
「奈落で学んだことが、こんなとこで役に立つとはな」
「役に立つ」
セレスが小さく言う。
「うん。だいぶな」
奏真は空を見上げた。
青い。
でもまだ、完全には自分の空じゃない。
「戻るなら、ちゃんと返せる形で戻る」
ぽつりとこぼす。
「名前も、真実も、向こうに好き勝手されたままじゃ終わらせない」
『そのためには基盤が必要です』
ノアが言う。
「基盤?」
『拠点、協力者、情報源、行動の自由度』
「要するに、ちゃんと戦うための土台か」
『はい』
奏真は小さく息を吐いた。
その通りだと思う。
神崎をどうこうする前に。
王国や教会へ返させる前に。
まずは、自分が立てる場所を作らないといけない。
今の自分には、まだそれがない。
奈落から出て、地上の空を見て、ようやく現実がはっきりした。
だから次は、そこを埋める番だ。
「……辺境のほうへ行く」
奏真が言う。
『理由を確認します』
「王都から遠い。人目も少ない。王国の支配が薄い場所もあるだろ」
『妥当です』
「便利すぎるな、その言葉」
『事実です』
「もうそれでいいよ」
セレスは静かにうなずいた。
「奏真が決めたなら、行く」
「お前、そこも即答なんだな」
「迷う理由がない」
「重いんだよなあ、そういうの」
『依存傾向』
「ノア、お前ほんと今それ好きだな!」
『観測結果です』
「知ってる!」
少しだけ笑いが落ちる。
重い話をしていたはずなのに、そのやり取りだけで空気が少し軽くなる。
その感じが、今はありがたかった。
王都へは戻らない。
今は。
その決断は悔しい。
でも、間違ってはいない。
そう思えるだけ、奏真は奈落に落ちた時よりずっと前へ進んでいた。




