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白い雨のあと、僕らは旅に出た ――終末世界のキャンピングカー――  作者: 孔雀丸


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第1章 白い雨のあと

十年前、日本に《白い雨》が降りました。


それ以来、世界は静かに壊れたまま止まっています。


本作は、そんな終末世界を舞台にした青春ロードノベルです。


絶望だけを描く物語にはしたくありませんでした。


壊れた世界の中にも、日常はわずかに残っていて、誰かと分け合う缶詰の味や、鍵を確かめる指先の感触や、止まったままの腕時計のように、失われずに残っているものがある。


そういうものを、丁寧に描いていけたらと思っています。


第1話は、主人公・天城ユウトの「今」を描く回です。


派手な事件は起きません。


けれど、彼がどんな十年を生きてきたのか、その手触りだけは感じ取っていただけたら嬉しいです。


ゆっくり更新していきますので、よろしければお付き合いください。

 十年前に閉店したスーパーでは、今も自動ドアだけが客を待っていた。

 センサーはとうに死んでいるはずなのに、風が強く吹くたびにガラス戸がわずかに震え、開くふりをする。俺はその癖に気づいてから、ここを通るとき少しだけ足を止める。中に誰もいないことは知っている。それでも確かめないと、気が済まない。

 商店街だった通りは、もう通りではなかった。アスファルトの継ぎ目から伸びた雑草が、横断歩道の白い線を半分ほど覆っている。信号機は今も赤のまま固まっていて、その支柱には蔦がびっしりと巻きついていた。壊れているのに、律儀に「止まれ」を示し続けている。誰も渡らない道の真ん中で。

 俺の右手首の時計も、同じように止まったままだった。十年前のあの日からずっと。気にしたことはない。ただ、そういうものとして手首にある。

 風が吹くと、垂れ下がった看板がぎい、と軋む。遠くで何かが崩れる低い音がした。建物の一部だろう。この十年でそういう音には慣れた。振り返りもしない。

 空は今日も白く濁っている。晴れているのか曇っているのかもわからない、あの独特の色だ。太陽の位置だけはかろうじてわかる。それだけで十分だった。色のない空の下では、時間の感覚さえ曖昧になる。

 かすかに、金属のような匂いがした。

 古い消毒液にも似た、鼻の奥に残る種類の匂い。俺は反射的に足を止め、空を見上げた。雲の色に変化はない。匂いはすぐに薄れ、風の中に溶けて消えた。気のせいかもしれない。だが気のせいで済ませていい匂いでもなかった。しばらく空を睨んでから、俺は歩き出した。

 リュックの肩紐を締め直し、靴音を殺しながら歩く。缶詰が背中で小さくぶつかり合う音がした。がちゃ、がちゃ、と。うるさくはないが、静かすぎる世界ではそれすらも大きく聞こえた。

 鳥が一羽、崩れかけた電柱の上から飛び立った。羽音だけが妙にはっきりと耳に届く。人の声も、車のエンジン音も、電車の警笛も、この町からはとっくに消えていた。それでも世界は完全な無音ではない。風が、鳥が、伸びすぎた雑草の擦れる音が、絶えずどこかで鳴っている。人間だけがいなくなった。それだけのことだ。

 かつてここは賑わっていたはずだった。俺はその記憶をほとんど持っていない。十年前、俺は七歳だった。覚えているのは、もっと別の、白い雨の記憶ばかりだ。

 町は死んでいた。けれど、誰もそうは言わない。言う相手がいない。

 目当ての建物は、通りの奥にある小さな薬局だった。地図には赤いペンで小さく丸がつけてある。まだ見ていない区域。俺はガラスの割れた入口の前で立ち止まり、まず建物の裏側を確認した。裏口があるか、窓は開くか。逃げ道は必ず二つ用意しておく。それが十年間、俺を生かしてきたやり方だった。

 天井の一部が落ちていたが、崩落はもう止まっている様子だった。床は軋むが抜けてはいない。俺は足を置く場所を選びながら、慎重に奥へ進んだ。

 棚はほとんど倒れ、薬箱が床に散らばっていた。踏まないよう避けながら、使えそうなものを拾っていく。包帯、消毒液の残りボトル、乾電池。缶詰ではないが、この手の物資は水や食料と同じくらい価値がある。

 店内には、埃と古い薬品が混ざったような匂いが淀んでいた。棚板の下には黒っぽい染みが広がり、天井から落ちた水滴の跡だとわかる。十年という時間は、建物の内側にも容赦なく降り積もっている。俺はその匂いに慣れているはずなのに、今日はなぜか少しだけ息を止めた。

 奥の棚の陰で、何かがかさりと動いた。俺は反射的に手を止め、息を潜めた。数秒間、視線だけを動かして音の出所を探る。棚の隙間から出てきたのは、ただの野良猫だった。俺と目が合うと、すぐに奥の暗がりへ消えていった。

 肩の力を抜く。こういうことは、もう何百回も繰り返してきた。

 レジの横に、色褪せたポイントカードが一枚落ちていた。持ち主の名前は書かれていない。ただ、スタンプが半分だけ押されている。俺はそれを一瞬見て、拾わずに戻した。意味がない。誰かがこのカードを使い切る日は、もう来ない。

 壁には「またのご来店をお待ちしております」という貼り紙がまだ残っていた。文字は薄れ、端がめくれている。俺はその前で立ち止まったが、何も感じなかったふりをして、次の棚へ移った。

 割れたガラスケースの奥に、使いかけの目薬が一本転がっていた。ラベルは半分剥がれ、成分の表示も読めない。持っていくかどうか少し迷ったが、期限の切れたものに賭ける余裕はなかった。俺はそれを棚へ戻した。

 見つけた乾電池は四本。消毒液は使えそうなものが二本。包帯は湿気で駄目になっているものが多く、使えるのは一巻きだけだった。欲張って全部持ち帰る必要はない。持てる重さには限りがある。捨てるものより、選ぶもののほうが、いつも難しい。

 棚の奥、埃をかぶった箱の中に、子供用の絆創膏が一箱だけ残っていた。キャラクターのイラストが色褪せている。使う相手のいない品だ。俺はそれだけを、鞄の底にしまった。

 外に出る前に、もう一度だけ背後を確認した。誰もいない。わかっていても、確認する。

 薬局を出て少し歩いたところで、道端に一台の車が停まっていた。白い粉が薄く積もったまま、十年間そこにある。ドアは開いたままで、運転席にはチャイルドシートが残っていた。

 その瞬間、頭の奥で何かがちらついた。

 ――白いものが空から降ってきた。

 最初は雪だと思った人もいたらしい。だが冷たくなかった。粒子は肌に触れても溶けず、白く粉のように積もっていった。

 俺の記憶の中で、それは音のない光景として残っている。父の運転する車の中。窓の外を、白いものが横切っていく。ラジオのノイズだけが車内に響いていた。

 ――父さん、それ、雪?

 ――違う。窓、閉めてろ。

 母の手が、後部座席の俺と妹の間を強く握っていた。妹の泣き声。俺の手首に結ばれたばかりのミサンガ。あの日の朝、妹が「お守り」だと言って結んでくれたものだった。

 車が停まった。エンジンが唸り、そのまま動かなくなった。周囲の車も次々と停止し、クラクションが重なり合って鳴り響いた。人々が叫びながら走っていた。白く濁った視界の向こうへ。

 父の声が何かを言っていた気がする。母の手が離れた瞬間があった気がする。妹の声が遠くなっていった気がする。

 だが、正確には思い出せない。あの日の記憶は、俺の中でずっと途切れたフィルムのままだ。何が起きたのか。誰が先に消えたのか。それすら曖昧だった。何度も思い出そうとして、そのたびに同じところで止まる。まるで、そこから先は誰かが意図的に切り取ったみたいに。

 海はその後、灰色に濁ったのだと大人たちが話していた。俺はその海を、まだ一度も見ていない。

 缶詰を握る指に力が入っていた。硬い金属の縁が、掌に食い込んでいる。その小さな痛みで、俺は現在に引き戻された。

 風が吹いて、車のドアがひとりでに軋んだ。俺は視線を逸らし、歩き出した。考えても仕方がない。もう十年も、そう自分に言い聞かせてきた。

 拠点にしている建物は、町外れにある古い診療所の跡だった。窓には板を打ちつけ、裏口には鍵をふたつ取りつけてある。人が入り込みにくい造りだったのが、選んだ理由だった。

 中に入ると、まず持ち帰った物資を種類ごとに分けた。缶詰は棚に、乾電池は引き出しに、消毒液と包帯は救急箱の隣に。水は雨水を溜めた大きなポリタンクからしか使わない。手を洗うのにも、必要最低限の量しか出さない。

 紙の地図をテーブルに広げ、今日歩いた区域に小さく印をつけた。未探索の区域は、もうそれほど残っていない。この町から得られるものは、あと僅かだ。地図の余白を見つめながら、ふと、その先には何があるのだろうと思った。すぐに、その考えを頭の隅へ押しやった。今はまだ、必要のない問いだった。

 日が沈み始めていた。窓の板の隙間から、薄い橙色の光が差し込んでいる。俺はその前に、まず鍵を確認した。裏口、正面、窓。ひとつずつ、指で触れて確かめる。

 食事は簡単だった。温めていない缶詰と、味の薄いインスタントスープ。湯を沸かす燃料も限られているから、温かい食事は三日に一度と決めていた。椅子は四脚ある。二脚は壁際に寄せてあり、使うのは一脚だけだ。皿も何枚か棚にあるが、洗うのは一枚だけでいい。

 この部屋は、元は誰かの家族が使っていた場所だったのかもしれない。俺はそれを詮索したことがない。ただ、四脚の椅子を見るたびに、なぜか処分する気になれなかった。使わないのに、捨てる理由も見つからない。それだけのことだ。

 壁の写真立てはとうに空だった。誰の顔も残っていない。だが俺は、その空の写真立てを捨てたことがない。理由を考えたことすらなかった。

 食事を終え、皿を軽く拭いて棚に戻す。特に美味いとも不味いとも思わない。生きるために必要な量を摂れればそれでいい。

 夜になると、外の音がいっそう際立つ。風、遠くの獣の鳴き声、時折軋む建物の音。俺は寝床に入る前に、もう一度鍵を確認した。裏口、正面、窓。異常なし。

 横になって目を閉じる。けれど数分後、また起き上がって鍵のところへ行った。触れて確かめる。変わっていない。わかっているのに、確かめずにはいられない。闇の中でその確認を三度繰り返してから、ようやく体の力が抜けた。

 左手首のミサンガに指が触れた。色は褪せ、糸はところどころほつれている。妹が結んでくれた日から、一度も外していない。本人には「ただの紐だ」と言っていた。誰にも言っていないが、それを外すという選択肢は、俺の中に存在しなかった。

 右手首の腕時計にも、指先が触れた。針は十年前のあの日から動いていない。文字盤のガラスは白く曇り、ベルトは擦り切れる寸前まで薄くなっている。時刻はいつも同じ場所を指していた。直そうと思えば直せるのかもしれない。けれど俺は、修理に出したことも、外したこともなかった。動かない時間を、なぜか手放せずにいる。

 地図をもう一度広げ、明日の予定を確認する。未探索の区域、そこへ向かうための道、危険そうな箇所。希望があってそうしているわけではない。ただ、明日も生き延びるために、今日のうちにやっておくべきことだった。

 古い観光パンフレットが本棚の隅に挟まっていた。表紙には色褪せた海の写真が使われている。青い海。今はもう、そんな色の海は存在しないと聞いている。俺はそのページを一瞥しただけで、棚に戻した。昔はこんな色があったのだと、それだけのことだ。特別な感情は湧かなかった。少なくとも、そのつもりだった。

 風が窓の板を鳴らした。俺は目を閉じ、眠りに落ちた。

 ***

 翌朝、俺は地図を持って町の外れへ向かった。目的は部品だ。バッテリー、タイヤ、工具、ホース。使えるものがあれば、なんでも拾う。

 リュックの中身を確認し、水筒に半分だけ残っていた水を飲み干した。今日中に新しい水場を見つけられなければ、明日の分が心もとなくなる。だが迷っている時間はない。俺は肩紐を締め直し、外へ出た。

 地図に残っていた古い道路標識の記号を頼りに、かつて自動車整備工場か中古車販売店があったらしい場所を目指した。舗装は木の根に持ち上げられ、道はところどころ消えかけている。倒れた金網の向こうに、白く汚れた車の列が見えてきた。

 歩くほどに、町の輪郭が薄れていった。看板の文字は判読できないほど剥がれ、電柱は斜めに傾いだまま緑に覆われている。人の手が入らなくなった場所は、こうも早く姿を変えるものかと、俺は今更のように思う。何年も歩いてきたはずの道なのに、季節が一つ進むたびに知らない場所になっていく。

 近づくにつれ、車体の色がわかってきた。白、灰色、錆びた赤茶色。どれも十年分の汚れを重ねて、元の色を思い出すことすら難しくなっている。風が吹くたびに、どこかの金属板が鈍い音を立てた。開いたままの車のドア、シートに残された古い上着、ダッシュボードの上のくたびれたぬいぐるみ。時間だけが、そこに積もっていた。

 俺はその一台一台を横目に見ながら、奥へと進んだ。誰かが乗り、誰かが降り、そのまま戻らなかった車たち。ここは墓場に似ていた。ただし、墓標の代わりに埃をかぶったサイドミラーが並んでいるだけの。

 車列の一番奥に、他の車とは違う形の影があった。

 それは、他の車よりも一回り背が高かった。古いキャブコン型のキャンピングカーだ。元は白かったであろう車体は、錆と泥で灰色に近い色へと変わっている。窓は汚れて中がよく見えない。タイヤの半分は伸びた草に埋もれていた。屋根には枯葉が厚く積もり、車体のあちこちに白い粉のような痕跡がこびりついている。蔓草が後輪のあたりに絡みついていた。

 それでも、完全には崩れていなかった。

 俺は最初、実用性だけを考えて近づいた。タイヤの空気は抜けているが、ホイールは歪んでいない。車体の傾きは軽微。ガラスにひびはあるが、割れてはいない。エンジンルームを覗くと、内部は錆びているものの、致命的な破損は見当たらなかった。燃料口の蓋は固く閉じたままだ。運転席のドアには鍵がかかっていた。

 部品を回収するだけなら、十分すぎるほどの状態だった。だが俺の手は、なぜかすぐには動かなかった。

 車体下部を覗き込みながら、俺はふと妙な感覚に襲われた。これは、ただの廃車ではない気がする。他の車たちはすでに役目を終え、朽ちるためだけにここにある。けれど、この一台だけは、まだ何かを待っているように見えた。

 馬鹿げた考えだと自分でもわかっている。修理して動くとは、まだ言い切れない。そもそも動かす理由もない。それでも俺は、その場から動けずにいた。

 汚れたガラスに顔を近づけると、隙間から車内が少しだけ見えた。折り畳まれたテーブル、埃をかぶった小さな棚、色褪せたカーテン。誰かの生活が、そのまま止まったような形で残っている。俺はそれ以上覗き込むのをやめた。他人の暮らしの跡を、これ以上見るべきではない気がした。

 捨てられていた。傷ついていた。長い間、誰にも顧みられず、もうどこへも行けないように見えた。

 それでも、完全には終わっていなかった。

 俺はしばらくの間、ただそのキャンピングカーを見つめていた。風が、屋根の枯葉を一枚だけさらっていく。灰色に近づいた白い車体に、薄い朝の光が当たっていた。車体のどこかで、風が板を叩くような乾いた音が鳴った。それだけの音に、妙に耳を澄ましている自分に気づく。理由はわからないまま、視線だけが動かなかった。

 なぜかその場を離れる気になれないまま、俺はリュックを地面に下ろした。


最後まで読んでくださり、ありがとうございました。


第1話は、あえて静かな一日を描きました。


倒れた棚、埃をかぶった薬局、鍵を三度確かめる癖。


派手さのない情景の積み重ねの中に、ユウトという少年の輪郭が少しでも浮かび上がっていたなら、書いた甲斐があります。


止まったままの腕時計と、外せないミサンガ。


この二つは、これから何度も物語に顔を出すことになると思います。


覚えておいていただけると、後々ニヤリとできるかもしれません。


そして最後、彼は廃車置き場で一台のキャンピングカーと出会いました。


錆びついて、埃をかぶって、誰にも見向きもされなかったはずのその車が、なぜか彼の足を止めた。


次回「廃車置き場のキャンピングカー」では、この車と、そしてもう一人の重要人物――カメラを首から下げた少女が姿を現します。


ユウトの十年止まった時間が、少しずつ動き始める回になる予定です。


もしよろしければ、ブックマークや評価、感想などいただけますと、次話を書く力になります。


それでは、また次話でお会いできれば幸いです。

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