拒絶
ゆらゆらと、まるで波間を漂うかのように――。
小魚たちの微かな声に意識が浮いて明瞭となり、虚心に耳を澄ます。声が遠のくと、意識は徐々に闇に沈んでゆく。
目を開けているのか、閉じているのかも、わからない。
一筋の光も射さない深潭で微睡む晶は、いつしか自分が溶けて、ぬるい闇に揺蕩う、根のない水草にでもなったような……。
そんな、奇妙な感覚に囚われていた。
時間の感覚などは、疾うに消え失せて。
聞こえるのは小魚たちの囁き声と、……もうひとつ。
「父さんや、さよの世話は村で責任を持つと、そう言っていたのに」
時折。
ぶつぶつと唱えられるそれは、咽を通して発せられている声なのか、あるいは直接頭に響いているのか。
わからない。
「約束は、守られるものだと信じていた」
紡がれる言葉と共に、涙の結晶が、ころりと落ちた。
「だからこそ、水神さまの巫女に……、供儀となることも納得したつもりで」
またひと粒、涙が珠となり、転がり落ちる。
「真青な深い水に身を沈め、務めを果たさなければと、水底で祈りの言葉を唱え続けた」
「けれど、裏切られた」
「私を供儀として水神さまに捧げたにも拘わらず、村人らは、さよを俵に詰めて池に沈めた」
「身体を離れた魂に、私は触れることさえできなくて、叫んでも声は届かない」
「さよは、私を置いて往ってしまった」
「其処を離れることもできずに、崩れてゆく亡骸を抱えて、心を凍らせた」
「無音の闇に呑まれて、ずっと独り。狂うことも命を絶つこともできない。けれど」
「もしも、彼の地に戻れるのなら、還れるのなら……」
少女の澄んだ声で言葉が紡がれると、両の目から、ぱらぱらと涙の結晶がこぼれ落ちた。
そして。
「約束を違え、さよの命を奪った村の人間を、決して赦しはしない」
哀しみの感情一色であった声音に、氷水の如く冷ややかな怒りが、するりと流れ込んだ。
語り口は穏やかだが、底知れない怒気を含む声が、晶の頭で反響する。
「村人たちは、水神さまに私という巫女の血肉を捧げることで、彼の方と縁を結び、村を守護する氏神さまになっていただこうと目論んだ。それなのに、水神さまの半身であり、その御身の一部となるはずだった私に、さよを喰わせようとした。……怒って当然でしょう? 私たちの犠牲を礎に、安穏と暮らす村人たちは、報いを受けて然るべきでしょう? だから……」
夢現の状態にある晶は、声に誘われるかのように、途切れた言葉の先を問い返す。
(だから……?)
「だから、水底にいらっしゃらない水神さまに成り代わり、私が、あの村を水の底に沈めるの」
(……村を?)
「そう。見たでしょう? 青々として連なる幾つもの深山を。覚えているでしょう? 山間を流れる清かな小川を。そこにひっそりと在る村を。……ねぇ、知っているでしょう?」
言われるがままに思い浮かべるのは、村の景色。
まだ、夜も明けきらぬうちから水汲みに出掛け、さよの小さな手を引いて歩いた、暗い村道。
霧に包まれ浮かび上がる、山間を流れる小川に沿ってつくられた、自然と共に生きる村。
(ああ)
知っている。
(そう、『俺』は――)
「冥路に満ちる不思議の力を駆使し、山に大雨を降らせて水神さまの御池の水を溢れさせ、村に住まう人々も、家も土地もすべて押し流すの。みんな深い水の底に沈めなければいけないの」
(――村を、水底に沈めなければ、いけない)
池の水を大量に溢れさせれば、水は勢いよく斜面を滑り落ち、土砂を巻き込み木々を押し倒しながら、やがて小川にぶつかるだろう。
小川は土砂により、たちまち赤茶色に濁って嵩を増す。ふくれ上がった水は激流となって、川沿いの家や田畑を容赦なく呑み込んでゆく。
河原にいる人間などは、……そう。
「みんな……、みんな、水に呑まれてしまえばいい」
不意に。
川の畔で佇む、幼い死者の心許ない後ろ姿が思い出されて、晶は、はっとして我に返る。
濁流に呑み込まれる人々が頭に浮かび、ひやりと肝が冷えた。
人が流されれば、怪我では済まない。
死者がでる。
(……駄目だ)
否定しようにも咽は震えず、唸り声ひとつ上げることもできない。
指先を動かそうと試みるも、金縛りにでもあったかのように、ぴくりとも動かない。
かやの過去を追体験していた時と似ているが、どうも様子がおかしい。
「そのために、私には半身たる巫覡が……、依代としての、あなたが必要なの」
(……! 俺に、村を沈めさせようとしているのか⁉)
初動で『錨』を奪えなかったから――。
晶は、自分の存在が『声の主』に認識されていることを知り、あまつさえ、意のままに操られそうになっていたことに気づいて、ぞくりとする。
闇一色に覆われた視界に、かやの姿は認められない。声はどうやら耳を介さず、直接頭に響いている。
まるで、自分の意思とは異なる『存在』が、べったりと頭蓋の内側に貼り付いているかのようだった。
「『錨』という現世と強い繋がりを持つが故に、冥路に於いて絶大な力を持つ、生者。不思議の力を駆使し、世の不条理さえも覆す資格を有する存在。あなたのすべてを、私に頂戴。私の過去を共有したあなたなら、想いを分ちあえる。私たちは、ひとつになれる」
不穏さを感じさせる言葉に、焦燥感が募ってゆく。
脳に巣くう『存在』に神経を毒され、じわじわと身体が蝕まれるように錯覚する。
現状を打開するための策を講じようとするも、頭の中で響く声に邪魔され、深慮することもままならない。
ふつふつと腹の底から湧き出した不快感が、身体の隅々まで巡り、全身を浸してゆく。
(嫌だ!)
「何故? 信じたものに裏切られ、踏みにじられた私の気持ちが……、さよの命を奪われた私が、どんな想いを抱いたのか。あなたになら解るでしょう? 身を以て、かやの過去を余すことなく、知ったのだから」
俵に押し込められ、水に沈められた女児の姿は、晶の瞼に焼き付いている。
女児の死に触れ、その記憶を克明に刻んだ身体が強張り、温度を失う。
胸が、締め付けられるように痛んだ。
それでも。
(俺は、かやじゃない、から……)
真の痛みは、彼女にしかわからないだろう。
(だけど)
同列に語るべきではないのかもしれないが、信じたものに裏切られる苦しみや、悲しみ。心を踏みにじられる悔しさも、晶は、経験を通して知っている。
そして晶は、かやが、さよを大切に想っていたことも……。
最後まで、さよの命を諦めなかったことも、間近で見て知っている。
身を以て、かやの過去を体験したからこそ、彼女が抱いたであろう想いを想像することができる。
(……解るよ)
できることなら、かやの気持ちに寄り添い、力になりたいとも思う。
「それなら――」
(でも、協力はできない)
晶は静かに、けれど、きっぱりと拒絶の意を示した。
「できない、……だと? 何故だ⁉」
凛とした少女の声音が一転し、低く太い、地を這うものに変わる。
(村には、まつだっていた。まつは、さよを連れて逃げるように勧めたじゃないか。きっと村には、まつのような人だって……、何も知らない、まだ言葉も話せない小さな子供だっている。そんな罪のない人たちまで、村に住んでいるっていうだけで、一括りにして水に沈めるべきだっていうのか?)
努めて冷静に言葉を継ぎ、晶は、父の通夜式の後に、不倫相手の女性たちに報復を望んだ自分自身の気持ちを回顧する――。
葬儀にまでやってくる父の不倫相手に、自分たち家族が軽んじられたような気がして、悔しくて、呪うように憎んだ。
けれど、女性を苦しめるために、彼女の配偶者に不貞行為を知らしめたのなら。
その子供も、母親の不貞を知ることになるかもしれない。
自分自身が父の不倫で苦しみ、消えてしまいたいとさえ願ったのに、まったく罪のない子供にまで同じ思いをさせることになる。
誰かの心を、壊してしまうかもしれない。
自分の行為が、罪のない誰かを苦しめることになったら。
心底軽蔑し、憎悪する相手と同じことをしたら……。
(――そんなことをしたら、俺はきっと、俺のことが嫌いになって、これから生きていけなくなると思うから。だから、俺は報復しない。俺は、俺が真っ当に生きてゆくために、報復しないって決めたんだ)
「煩い……! 煩い、煩い! お前のことなど知ったことか! さよは死んだ、死んでしまった……! もとより罪のない幼い子供を殺したのは、奴らの方だ! あの村に生きるものは、すべて咎人だ! 水神さまの唯一の巫女として水底に身を置く私が、水神として裁きを下すことの何が悪い⁉」
感情に任せた怒鳴り声が爆音となり、頭蓋の内で反響する。
頭を殴りつけられたかの衝撃に、晶は息を呑み、ぐっと奥歯を食いしばって堪える。
(違う! かやは水神じゃなくて人間だ!)
ありったけの気持ちを込めて訴え、晶は、急ぎ考えを巡らす。
小魚たちは、言っていた。
かやから溢れた『想い』は、『結晶』として形を成したのだ、と。
おそらく、深潭で襲ってきた白衣の女たちや、いま頭に響く声も、かやの『想い』が凝縮した涙の結晶から孵ったものなのだろう。
ゆえに。
晶が対峙しているのは、かやの『想い』であり、かや本人ではない。
白子の少女からこぼれ、弾けた涙の光を介して網膜から視神経を通じ、脳内に入り込んだ、かやの『想い』の一片であり、彼女の能力の一端だと、晶は見当をつける。
(人を殺せば、さよを殺した人間と同じになる! 亡くした人を大切に想う別の誰かを、哀しめることになる。恨みだって買うかもしれない。それこそ、さよのような小さな子供や無関係の人まで巻き込めば、いつか、かやが現実を知った時に、心を……壊してしまうかもしれないから)
「黙れ! 私は、かやから生まれた『想い』であり、かやの意思そのものだ! 黙って、さよの無念を晴らせ!」
(かやの意思そのもの? ……違うだろ)
村を怨み、報復を望むのも、かや自身が抱いた『想い』で間違いないのだろう。
だが、それは多彩な感情から切り取られた一欠片に過ぎない。
不遇であっても、かやは不平不満を漏らすことなく勤勉に、まっすぐに生きていた。
まつを相手に意地を張ることもあれば、年相応の弱さもあった。
生きてきた時代は違えど、喜怒哀楽のある人間だ。
かやの過去を見てきた晶は、この『想い』だけが彼女のすべてではないのだと、確信を持って言える。
次いで。
晶が思い浮かべるのは、冥路に満ちる不思議の力と生者について説いた、祐樹の言葉。
『晶の、……生者の想いは、とても強いのです。なんなら、半端ものの僕などは及びもしないほどに』
祐樹の言う半端ものとは、『錨』を持たない生者のこと。
『錨』を手放した彼女も、それに当てはまるのだと、気づく。
かやの能力で、晶の意識を支配できないのは、偏に晶の方が強いから。
「悔しい、怨めしい……! つべこべ言わずに大雨を降らせ、水を溢れさせろ! 洪水を起こせ! 村も家も、人も、全部残さず押し流してしまえ! 憎き奴らを、さよと同じ目に遭わせてやるのだ。生きたまま水底に沈めて、この手で四肢をもぎ、腸を引き摺りだしてくれる!」
哀しみと怒りの織り成す悲痛な声が、晶の心を深く抉る。
同時に、晶の脳裏を過るのは、包丁を構えて泣き叫ぶ、何時かの母の姿。
過去に攫われそうになる心を押し留め、晶は静かに、ゆっくりと呼吸を整える。
(『俺は、そんなことはしない……!』)
心を落ち着かせ、気を引き締めると、すっと思考が冴え渡った。
(かやは、さよを亡くしてから、ずっと浅い眠りに囚われているんだろう?)
晶が微睡んでいたのは、かや本人が、その状態だから。
深潭に取り残された彼女は、すぐに現実を遠ざけ、眠りに就いたのだ。
(これから俺は、かやを起こしにいく。かやと話をしてみる心算だ。……だから、ごめん)
晶は強い意思を以て、かやの『想い』に……。
脳裏にこびりついた、残滓に告げる。
(俺の中から、出ていってくれ)
・補足
巫覡――神を祀り、神に仕える男女。巫は女性、覡は男性をいう。




