告白
本話には、死の表現が含まれます。
苦手な方はご注意ください。
すぅ、と視界が薄暗くなった。
かやが顔を上げると、冥路は既に深い濃藍の色彩に染まり、そこかしこに夥しい数の星粒が散らばっていた。
淡い白光を湛えた雪華蛍たちが薄闇に浮かび上がり、ふわり、と白雪の如く宙に漂う。
かやの周囲を優美に舞う小魚たちは、薄鈍色の鱗を閃かせながら、厳かに説いて聞かせる。
――冥路が、動く。
――死者を。
――常夜に。
――冥界に。
――安寧に。
――誘うために。
かやの傍らに立つ女児の霊体が、とろんとした眼で何処か遠い所を見つめ、おもむろに歩み始めた。
「! 待って!」
かやが声を投げるも、霊体は振り返らない。まるで何処へ往くのか解っているかのように、惑うことなく冥路を進んでゆく。
躊躇うことなく、かやの許から去ってゆく。
「待って、往かないで」
女児の身体を両腕に抱えて、足首に結わえられた縄を引き摺り、かやは霊体の後を追った。
ほんの少しでも霊体と距離が開くと、その姿は薄墨を被り、白霧のように曖昧にぼやけてしまう。
「御願い、往かないで! 戻って……、さよ!」
霊体に近づき腕を伸ばすも、触れることなく通り過ぎて、かやの手は宙を掴む。
はっとして息を呑み、かやは大きく目を瞠った。
(……ああ)
かやの焦燥、驚きや戸惑いといった感情のすべてを、晶は余すことなく理解する。
霊体に触れることは叶わないと、解っていた。
何故なら、冥路と現世の交差する河原で、同様の体験をしたから。
居た堪れない気持ちで、晶は祈るように願う。
(この子が、助かってくれたらいいのに)
けれども。
想いとは裏腹に、仄暗い憂鬱が晶の心に暗い影を落とす。
諦念と悲しみが鎖の如く絡みついて、気持ちを重く沈ませる。
かやは霊体から目を逸らさずに、その背を懸命に追いかけた。
何度も女児の実体を抱え直すうちに、女児の身体を包んでいた白衣は乱れて、気づけば何処かへと落としてきてしまっていた。
星の海を彷彿とさせる煌びやかな銀の星粒は、冥路を進めば進むほどに数を減らしてゆく。
景色は徐々にうら寂しくなり、視界は闇の粒子に閉ざされてゆく。
光の螺旋階段も、白花提灯もない真っ暗闇の中、何処をどう進んでいるのか、晶には見当もつかない。
一筋の光も射さない深潭で、霊体の後ろ姿はおぼろげに霞み、いまにも見失ってしまいそうだった。
四方八方を闇に囲われ、晶は心細さを覚える。
(祐樹が、深潭まで下りたのは初めてだって言っていたけど……)
冥路とは、死者のための通路。死者だけが惑うことなく進むことのできる冥い路なのだと、晶は痛切に感じる。
そもそも、無関係の生者が無遠慮に踏み込んでいい場所ではなかったのだ。
思案に耽る晶の意識が、霊体から逸れた、……刹那。
かやが、女児の実体を抱え直すために視線を脇へと逸らした、ほんのわずかな隙に。
闇を透かし、わずかな輪郭を残すばかりだった霊体が、ふ、と掻き消えた。
かやは、はたと足を止め、数歩進んで再び立ち止まる。
「さよ……?」
恐るおそる名を呼んで辺りを窺い、じっと濃い闇に目を凝らす。かやは焦りを募らせ、落ち着きなく周囲を彷徨いはじめた。
「さよ、……どこなの?」
だがしかし、女児の霊体はどこにもいない。
見失ったのだと察して、かやの背筋が、ぞくりとする。
「さよ! さよ⁉」
悲痛な声は、すぐに闇に呑まれ、静寂が訪れる。
息を潜め、慎重に周囲を窺うも、女児の霊体は姿を現さない。
「往って、しまった?」
誰彼無しに、問い掛けて。
張り詰めていた糸が切れたように、かやは膝から崩れ落ちた。
遺された女児の身体をきつく抱きしめ、ぼんやりと虚空を見つめる。
かやの唇が、薄く開く。
「あの時、おまつさんの言う通り、さよを連れて村を出ればよかったの……?」
べったりと視界に張り付く濃い闇は、斑なく、微塵も揺らぐことなく、どこまでも暗く、果てしなく深い。
ややあって。
「私に父さんを支え続けるのは、無理……、だったから」
かぼそい声を上ずらせ、かやは、深潭の闇に訥々と語りかけていた。
「村に着いた頃から、父さんの身体は急に悪くなって。すぐに、歩けなくなるほど弱ってしまって、……話せなく……、なって。顔つきまで、変わってしまった父さんを、そばで見ているのが……辛かった。父さんが死んでしまったら私のせいだと、そう思うと怖くて仕方がなかった。……だけど、私が供儀になれば、父さんも、さよも村の人たちが世話してくれる。私が居なくても、ふたりは不自由なく暮らしてゆける。そうしたら、……私は」
かやの震える唇から、吐息交じりの微かな声がこぼれる。
――母さんと弥助のところに往けると、思っていた。
瞼が熱を帯び、瞳が潤むのを感じる。
「父さんが亡くなれば、さよが独りになることは解っていたのに、……逃げてしまった」
溜まった涙が瞼の熱をわずかに奪い、睫毛を滑る。
睫毛を離れた一粒の涙は、周囲の水に馴染むことなく、瞬時に凝固して珠となる。
珠は、女児を抱きしめる腕に、こつんと当たった。小さく跳ねて深みへと沈んでゆく。
次から次へと瞼からあふれ、ぱらぱらと腕に当たって跳ねる涙の粒は、まるで冬の曇天から降る霰のようだった。
「さよ……? あんな物に押し込められて、怖かったろうに、……苦しかったろうに。こんなむごい目に遭わされるなんて……、悪かったね。堪忍ね。さよを置いて、自分だけ楽になろうとして逃げた、姉さんを、……赦して」
かやは、女児の頭に頬ずりをし、髪を優しく撫でた。
ぬくもりを失った滑らかな頬を、……細いうなじを両掌で包み込み、あたためる。
「御願い、戻ってきて……? 此処は冷たくて、暗いから……、姉さんと一緒に、還ろう? 還ったら、もうどこにも行かないから。さよが眠る時は手を繋いで、お歌を歌ってあげるから。夜中に用を足したくなったら、一緒に厠へついて行ってあげるから……。だから、姉さんのところに戻ってきて。一緒に、還ろう。……ね?」
かやは、女児と額を合わせると、頬から親指だけを滑らせ、そぅっと唇に触れる。
唇が動くのを、待って。
指に吐息が触れるのを、待って。
声が……こぼれ落ちるのを、ただひたすらに待って。
「さよ、御願い。目を覚まして……」
遂に、女児の唇が二度と動かないのだと悟り、かやは肩を落として項垂れる。
深く息を吐き出し、両の目から涙を落とす。
女児を抱きしめ、うなじに顔を埋めると、静かに瞼を閉じた。
小魚の群れが、俄かに慌ただしくなる。
――や、や……!
――これは、これは!
四方八方から、驚き、警戒する声が上がった。
――生者から『想い』があふれた。
――無自覚なまま『結晶』を成した。
――内で育った『想い』が。
――当人の制せぬ『想い』が。
――意思を持ち、形を得て出づる。
――孵り、ひとり歩きを始める。
――厄介な代物が……!
――孵る、孵るぞ……!
騒めく小魚たちをよそに。
絶え間なく大粒の涙を落とし続ける、かやの腕の中で……。
命の燈火の消えた肢体は、水を含んでふやけ、とろけてゆく。
濃厚な死の芳香が煙のようにひろがり、かやに纏わりついて、舐めるように肌を這う。
指に絡む細い髪を、小魚が悪戯に啄み、攫ってゆく。
忽然と、……音も無く。
頭が、胴と離れた。
ごそりと四肢が抜け落ちて、身体が人の形を失う。
ひと欠片、またひと欠片と、かやの腕から、やわらかな肉片がすり抜けてゆく。
顕わになった硬い骨が、ほろりと落ちて。不思議の力に弄ばれてぶつかり合い、軽やかな音を立てた。
幼子らが、枯れ枝で戯れるかに聞こえる、それは。
かろんころんと下駄のような音を響かせ、遥か彼方へ遠ざかってゆく。
微かに、かやの唇が動く。
……待って、と。
腹の底から吐き出されるあたたかな吐息に、消え入りそうに掠れた声が絡む。
「私も、……連れていって」
あとには。
ものしずかな暗闇にまぎれ、密やかに語り合う小魚たちと。
かやだけが独り、取り残された。




