深緑の森、禊ぎの泉(2)
夜の聖堂から一組の男女が揃って出てくるのは、夜警の者たちからの不審がられかねない。
それに加えて、王都の地下通路を実際に自分の目で一度は見てみたいというセーラの望みを叶える形で、リオンは女神像の裏の床から通じている通路を通る道を選び、ふたりは市街地へと向かった。
地上に出る直前の、地下通路の壁には数本の長剣がかけられていた。
剣は暗がりの中でさえ際立つほど、通路の壁とは不釣り合いなほどに真新しかった。
リオンはそのうちの一本を手に取ると、まず鞘から引き抜いて中のものの状態を確かめ、それから元に戻した長剣を肩から背中に向かって斜めに掛けた。
地下通路が繋がっていたのは、聖堂から少し離れた王都の路地裏の一角だった。
そこは一見すると何の変哲もないような民家の建物だが、中にいるとわかるが、ここには人が住んでいる気配がまるでない。
そのすぐ近くには、よく手入れされていることが一目で分かる、見事な体躯をした馬が外に数頭繋いであり、リオンが当然のようにそのうちの一頭の馬にかけられていた綱を手際よく外した。
リオンが平然とそれらの行動をしているのを間近で見ていたセーラは、
「外に出る時はいつもこんなふうにしていたの?」
リオンは答えるよりもまず先に、セーラを鞍もつけていない馬の上に乗せると、続いてその後ろから自分も地を蹴ってやすやすとまたがった。
「ああ、この剣や馬たちは、この街に何かあった時のためでもあるんだ。それに俺が従者をつけずに外に出ることを、周りに納得させるための形だけの決まりみたいなものだ」
王都の夜の街灯りの中を馬は進み、まもなくこの街を厳重に囲っている城壁にさしかかった。
――ここを無事、通れるのかしら……。
乗合馬車でこの王都まで来た日のことを思い出し、セーラは少し心配になった。
その時は警備が余りに厳重で、全員の身元の確認が済むまでは、くまなく入念な調べを受けさせられて、待たされたからだ。
けれど、その不安が杞憂だったことが直ぐに分かった。
リオンの乗る馬が近づくと、そこを守っていた警備の兵士たちが、全員最敬礼して両側に退き、大きく道を開けたからだ。
リオンはそこを守っていた兵士たちの中で一番の年長者に向かって、
「俺が今夜、外へ出ることを王宮の者たちには黙っていてくれるか?」
すると、その兵士は一緒にいるセーラの姿に気づくなり、鷹揚な笑みを浮かべて、
「勿論ですとも。それに我々は、こんな月明りの夜に、無粋で無用な気遣いなどもっての外のことと考えます。もっともあなた様ほどお強い方は、この国には他におりませんから、そう心配する必要などありますまい。……だが、そうは言っても、この先は夜の道になり、大変暗くなっておりますゆえ、道中どうかお気をつけて。お帰りになる時も、またこちらをお通りください」
そう言って、年配の兵士の男は手早く馬の身体に明かりになるものを取り付けてくれた。
「用を済ませたらすぐに戻る」
城壁の中に設けられた通路を通り過ぎて、しばらくしてからリオンはいつもとは違うセーラの表情の変化に敏感に気づき、
「あなたのその顔は、外の俺を初めて知って、何か思ったからか?」
「いつもとは違うから……。リオンは本当にそうなのね……」
聖堂の中で会うだけでは、頭ではそう認識しながらも、リオンが現実にどういう立場にいる人物であるかについては、実感を持っては思えなかったからだ。
「残念ながら、な……」
言葉少なになったセーラを見て、リオンは遠い目をしながら呟くようにそう言った。
――俺がこの立場でなかったら、どういう出会い方をしていたとしても、とっくにあなたを自分のものにしていただろう。
城壁外へ出て、周囲に民家がまばらな外れまでくると、リオンは馬を走らせる速度を一気に上げた。
月明りが地上を照らしていた。
セーラは早駆けする馬の背中に乗っている間中、余りの怖さでしがみつくようにリオンの胸に身体を預けていた。
リオンはそんなセーラが愛おしく、心の内を気付かれないようにそっと片腕を回して、その細い身体を抱き寄せた。
「あと、どのくらい?」
「もう少しだ」
たてがみを風になびかせつつ、夜道を力強く疾走していく馬を操りながら、リオンは言った。
ガルディアン大聖堂の『始まりの場所』は、深い森の奥にあった。
周囲は鬱蒼とした森で囲まれており、澄んだ大気に満ちている。
馬の背中に乗ったまま森の奥に進んでいくにつれ、セーラは自分の胸に手を当てて、その特別さをより強く感じ取っていた。
――ここは本当に特別な場所なんだわ。森の中全体に、何かの強い力のようなものが満ちてる。むしろ、今のある聖堂よりもずっと強い何かがあるよう……。それにこの時間帯なら本当はもっと暗いはずなのに、月明りを集めたように森全体が光っているみたい。
聖域の奥に辿り着き、リオンは先に身軽に馬から下りると、両腕を伸ばしてセーラのことをおろした。
「ここが大聖堂の『始まりの場所』……」
石材が円形で階段状に組まれた中央に、澄んだ水が満たされた十人ほどが同時に中に入れそうな規模の大きな泉があった。
水が常に湧き出し続けているらしく、放射状に広がっていく水の波紋とともに、静寂の中で乳白色の月が水面に映り込んで揺れている。
「この景観は、王立図書館の本に書かれていた絵の通りだわ。泉だけで本当に当時は、建物は何も無かったのね」
遠い過去の時代に記されたものと、そっくりそのままの情景にセーラは強く心を動かされた。
「王立図書館か……」
隣にいるリオンが、急に嫌なことを思い出した時のような表情になったので、
「前に図書館で何かあったの?」
「いや、なんでもない。真夜中に妖精たちを連れ行ったことがあったから、それでなんだ。その時に少しな……」
口ではそう濁しつつも、
――本当は、『ただ少し連れて行く』だけでは済まなかったんだよな……。あの時散々な目に遭ったことを、その名をきくだけで常に思い出してしまうのを、もういい加減やめたいんだが、いつまでも根に持ち続けている俺は心が狭いのか?
苦々しくリオンはまた思った。
「ここには普段は誰も来ないの?」
周りの森や泉の様子を見回して歩きながら、セーラは不思議に思って聞いた。
この最深部の聖域と思われる場所は、かなり長い間、人の手が入っておらず、手つかずのように見えたからだ。
「ここは禁足地だ。余程の時以外は、俺たち以外には誰も入れない」
リオンの言葉に、セーラは驚いて振り返った。
「そんなにも大切な場所なら、わたしは来てはいけなかったのに……」
「王族の俺と、聖堂のあなたの組み合わせなら、問題はないだろう」
リオンにそう言われても、セーラはそれをそのまま言葉通りに受け止められなかった。
「でも……」
「この辺りは野生動物も多い。禁じられた土地とは言え、俺たち以外の誰かが付近にいないとも限らない。念のため周りを見てくるから、あなたは馬と一緒にここで待っていてくれ」




