深緑の森、禊ぎの泉(1)
またしばらくが過ぎた休日の昼間、セーラとカティアはふたりで王立図書館に来ていた。
ここはこの国随一の蔵書を誇る図書館で、館内には隙間なく本が収められた数多くの本棚が整然と並んでいる。
セーラが椅子に座って、皮の表紙の古めかしい本を読んでいるテーブルのところに、カティアが分厚い本を何冊も両手に抱えて持ってきた。
「たくさん持ってきたんだね。カティアは何を調べるの?」
本を読むのをやめて、セーラはカティアの手からずり落ちかけている本を、テーブルに乗せるのを一緒に手伝った。
カティアは気を利かせて手を貸してくれたお礼を軽く言ってから、
「畑の野菜のことだよ! 最近作物の育ちが特にいいみたいだから、もっと効率よく色々作れないかなー、って思って。収穫量も増やしたいから、畑を広げる前に種や肥料のこともよく調べてみたくて。とりあえずそれらしい関係がありそうな本を、棚から片っ端から全部持ってきちゃった! セーラは何を調べてたの? なんだかそれ、すごく古そうな本だね」
カティアはついさっきまでセーラが読んでいた、細かな字がびっしりと書かれた本を、斜め後ろから覗き込んだ。
「ガルディアン大聖堂の歴史書だよ。最初に造られたころからの成り立ちをよく知れば、建物を直す時にも理解が深まって、きっと役に立つと思ったの」
「歴史を知る、かぁ、セーラらしいね。……そういえば、昔、うちの親がうんと昔は大聖堂は今の場所じゃないところにあったんだぞ、って言ってたっけ」
「え、そうなの?」
たまたまだったが思いがけずに珍しい情報を聞けて、セーラは興味を引かれた。
「うん、確か、今あるところに移ってくる前のところのことを、『始まりの場所』って言うらしいよ。昔はそこで特別な祈りをしてたんだって。あっ、もしかしたらこれのことじゃないかな……?」
セーラが何気なくページをめくったその先に描かれていた絵をカティアが指さした。
禊ぎの装束らしきものを身に着けた娘が、半身が水に浸かりながら、目を閉じて祈りを捧げているらしい様子が描かれている。
「この絵の中に描いてある泉のような水場って、今の聖堂にはないよね……」
描かれている見覚えのない風景に、ふたりは首を傾げあった。
それに絵の娘の身につけている装束は、今の聖堂で使われているものとあまり変わらないが、もうひとつの大きな違いにセーラが気付いた。
「ここに男の人もいるね」
禊ぎをしているらしい娘の傍らには寄り添うように、別にもうひとり人物が描かれている。
絵の中の男は、泉で祈りを捧げる娘を見守っているように見えた。
「本当だ。今はこういう儀式の時って男の人が一緒にいることってないのにね。大昔はやり方が違ったってことなのかな……?」
カティアが言った。
「この始まりの場所、って、どこにあるのか、カティアは知ってる?」
セーラがきくと、カティアは首を横に振って、
「ううん、知らない。もしかしたら昔すぎて、そういう本に書かれてるだけで今はもう無いのかも……? わたしも親からは一回聞いて、それっきりだしなー」
――この絵の雰囲気だと、古い時代の聖堂は、元は建物も無いような、今とは随分違ったところだったように見えるわ。どんなところだったのかしら……。
セーラは挿し絵を見ながら、あれこれ想像を膨らませた。
そのうちにカティアはセーラの隣の席に腰掛けると、ついさっき自分で持ってきたうちの本の一冊に手を伸ばした。
周りの迷惑にならないように声を小さめにしながらも、
「よーし、今日中に気合入れてたくさん調べよ!! もっといい仕事ができるように、わたしもめいっぱい頑張らなきゃね!」
カティアは意気込んで、本を開いて中を熱心に読み始めた。
大聖堂の始まりの場所については、同じ本の中には特に他に記載がなく、カティアも自分がやりたいことに集中し始めて水を差すようなことはしたくなかったので、セーラがそれ以上のことを知ることは出来ずに、話はそこで終わった。
夜になって聖堂にリオンが来たので、カティアとした昼間の話のことを、セーラが何気なくたずねてみると、思っていた以上にあっさりした返事が返ってきた。
「大聖堂の『始まりの場所』? ああ、今もまだあるぞ。ここからだと北西の方角だな。俺は自分の代になってからは、儀式的な決まりをほぼ守ってはいないから、随分長い間遠ざかってきたところだが、子供の時に一度だけ身を清めに行かされたことがある」
リオンがそう答えるのを聞いて、セーラは、
――直系の王族の方が禊ぎを受けに行くような、わたしが考えていたよりも、もっとずっと特別な場所だったのね……。
「興味があるなら、今から俺とそこに行ってみないか?」
突然のリオンからの誘いに、セーラはとても驚いた。
この聖堂からリオンとふたりで外に出ることなど、一度も考えたことはなかったからだ。
「どうして急に……?」
「成り立ちを知りたいなら、書物よりも、実物を自分の目で見てみるのが一番だ。あそこは古い時代の信仰の形が未だに手付かずで残っているから、行けばセーラもきっと気に入る」
――まず、自分の目で見てみる……。リオンはどんなことに対処する時にも、いつもそう思ってるのね。
少し前にリオンが街でのチェンバロを演奏していた日のことが、セーラの中によぎった。
「それに今夜は月明りがとても美しい。こんな夜は聖堂からふたりで出てみるのも悪くない。行こう」
窓の外に目をやってリオンが言った。
リオンから出かける用意をしてきてほしいと言われて、セーラは急遽、聖堂の服から外出着に着替えるために、一旦その場を離れた。
自室に戻って急いで着替えを済ませ、広間に再び戻るために慌ただしく部屋から出ようとした時、
――特別な場所だから、聖堂の服も持って行った方がいいかもしれないわ……。
そう思い、普段使っている鞄に、何時も着ている雑用係の制服を入れた。
鞄の蓋を閉じかけた時、不意にあの歴史書の中にあった絵のことが心によぎり、
――リオンと行くから、使うことはきっとないけど、これも入れておこう。
儀式の時に使う装束も入れた。
セーラが準備のために出て行った後で、広間に残されていたリオンは妖精たちにやや厳しい顔を向けると、
「いいか、お前たち、俺はこの後セーラと出かけるが、今夜だけは絶対についてくるなよ。わかったな?」
妖精たちは今夜のことには関心が無いのか、何も答えずに近くを漂っているだけだった。
――もう二度と同じことができないかもしれない。たった一度きりの夜くらい、セーラとふたりきりになりたいと、俺がそう願うくらいは、許されていいはずだ。




