第6話 お前を売った証拠を取り返しに行く
「いい返事だ」
王子の口元が、わずかに上がった。
父の顔が歪む。
「……殿下。それは、どういうお戯れでございますか」
「戯れに見えるか」
低い声だった。
父はすぐに穏やかな顔へ戻った。
何度も私を黙らせてきた顔だった。
「娘は錯乱しております。今朝から屋敷の書類を持ち出し、このような場所へ」
「このような場所?」
「いえ、失礼を」
「未婚の令嬢が心配なら、問題ない」
レオンハルト王子は机に置かれた紙を指で弾いた。
「婚約者にする」
父の口元が、ぴくりと動いた。
「婚約には、家の同意が必要でございます」
「後見伯の同意が、か」
その一言で、父の顔から少し色が引いた。
「ベルクレール家の相続権を持つ者は誰だ」
父は答えなかった。
答えられないのだ。
ベルクレールは母の家。
父は、私が成人するまで預かっているだけの人。
「答えろ」
「……レティシアでございます」
「なら、この女が承知すれば足りる」
「ですが、正常な判断が」
「では王家の医師を呼ぶ。高等法院の証人と検毒官もな」
父の言葉が止まった。
「錯乱か、薬か、ついでに確かめればいい」
「……そこまでしていただくには及びません」
「及ぶかどうかは俺が決める」
レオンハルト王子は、王族護送契約書を手に取った。
「俺を殺す契約書を扱った家が、今度は令嬢を連れ戻そうとしている。十分だ」
「誤解でございます」
「誤解なら、屋敷の書類をすべて差し出せ」
沈黙が落ちた。
父の額に、薄く汗が浮かぶ。
「……殿下」
オスカー・グランヴィルが、初めて口を開いた。
痛ましそうな顔だった。
五家門の本家ではない。
グランヴィルの分家に生まれた、格下の令息。
だからこそ、幼い頃の彼はベルクレールの庭へよく遊びに来ていた。
昔、庭で転んだ私に手を差し出した時と、同じ顔。
けれど今、その手は伸びてこない。
「レティシアは、本当に疲れているのだと思います」
「黙れ」
王子の一言で、オスカーの声が切れた。
「お前に発言を許した覚えはない」
「……失礼いたしました」
オスカーは顔を伏せた。
父やミレーヌのように私を笑うことはない。
でも、何もしない。
一度目も、そうだった。
「レティシア」
王子に名を呼ばれ、背筋が伸びた。
「お前の意思を聞く」
灰色の目が、私を見る。
「ベルクレール後見伯と屋敷へ戻るか」
父が私を見た。
穏やかな目だった。
戻れば、閉じ込められる。
薬を盛られる。
署名を奪われる。
今度は、処刑台まで半年もかからない。
「戻りません」
声は震えなかった。
「私は、レオンハルト殿下の婚約者になります」
父の顔が、今度こそ歪んだ。
王子は机の上に置かれていた白紙を一枚引き寄せた。
さらさらと、迷いのない筆跡が紙面を走った。
『レティシア・ベルクレールは、レオンハルト王子との仮婚約を承諾する。
この誓約は、彼女の身柄および名誉を王家の保護下に置くためのものであり、正式な婚姻契約に先立つ一時的な効力を持つものとする』
書き終えると、王子はそこに自分の署名を入れた。
そして、まだ乾ききらない黒インクの文字を、私の前へ滑らせる。
「仮婚約誓約書だ」
ペンが置かれる。
「書け」
私はペンを取った。
一度目の署名は、私を殺す刃になった。
けれど今は違う。
これは、奪われるための署名ではない。
私が、私を取り戻すための署名だ。
レティシア・ベルクレール。
書き終えた瞬間、右目の奥が熱を持った。
文字が、薄く金色に光る。
偽りはない。
王家の印が押された瞬間、父の顔から血の気が消えた。
「これで足りるな」
王子は契約紙を持ち上げた。
父は何も言えなかった。
オスカーも、青ざめた顔で私を見ている。
椅子の軋む音がした。
レオンハルト王子が立ち上がる。
次の瞬間、背後から腕が回った。
「……殿下」
黒い手袋の指が、私の頬に触れる。
そのまま顔を半ば覆うようにして、上向かせられた。
父の前で。
オスカーの前で。
逃げるな、とでも言うように。
王子は、私に口づけた。
触れるだけの、短い口づけだった。
けれどその一瞬で、部屋の空気が完全に変わった。
父の顔から血の気が引く。
オスカーが、息を詰める。
王子は唇を離すと、低く笑った。
「ふ……ははははっ」
その笑い声だけで、父は一歩退いた。
王子は私を抱いたまま、父を見た。
「下がれ」
それだけだった。
父は深く頭を下げた。
継母の家令も続く。
オスカーだけが、去り際に一度だけ私を見た。
何か言いたそうな目だった。
けれど、何も言わなかった。
扉が閉まる。
足音が遠ざかる。
戻されなかった。
あの家へ。
それだけで、膝から力が抜けそうになった。
「座れ」
王子の声で、私は我に返った。
今度は、机の前の椅子を示される。
「勘違いするな」
王子は契約紙を机に置いた。
「お前を救ったわけではない」
「分かっています」
「ならいい」
王子は王族護送契約書を指で叩いた。
「今回の暗殺は避けた。だが、次が来る」
背筋が冷えた。
「道を変える。護衛を減らす。宿を押さえる。契約ひとつで王族は殺せる」
一度目の王子は、そうやって殺された。
「ベルクレール家は黒幕ではない」
王子は言った。
「だが、入口だ」
「入口……」
「五家門が俺を殺すために使った穴だ。放っておけば、また別の刃が来る」
五家門。
契約、婚姻、教会認証、軍需、宮廷政治。
王国を動かす五つの実務を、それぞれ握る大貴族たち。
ベルクレール侯爵家も、その一角だった。
契約と証書を預かり、土地台帳と相続書類を扱う家。
ただし今のベルクレールは、母の家ではない。
入り婿の父が、後見伯として預かる名目で食い荒らした抜け殻だ。
灰色の目が、私を射抜く。
「お前はベルクレール家を倒したい。俺は暗殺契約の経路を断ちたい」
王子の口元が、かすかに上がる。
「利害は一致している」
助けられたのではない。
利用されるのだ。
けれど、それでいい。
私も、この人を利用するために来た。
「では、最初にベルクレール家を」
「潰す」
王子は迷わず言った。
「まずはベルクレールだ」
その一言で、胸の奥が冷たく燃えた。
父の顔。
継母の笑み。
ミレーヌの涙。
オスカーの沈黙。
すべてが、赤い線でつながっていく。
「証拠を押さえる」
王子は、机の上の呼び鈴を鳴らした。
「今から、ベルクレール家に行く」
灰色の目が、私を見る。
「お前の父が屋敷へ戻る前に、書類庫を押さえる」
息を呑んだ。
ベルクレール家の書類庫。
母の遺産も、王族護送契約も、私を縛ってきたすべての紙が眠る場所。
「行くぞ、レティシア」
王子は黒い手袋をはめ直した。
「お前を売った証拠を、取り返しに行く」
この人は怖い。
でも、あの家よりはずっとましだった。
私は赤いドレスの裾を握り、顔を上げた。
「はい。私が、あの家の嘘をすべて暴きます」




