後編
後編です
翌日、朝になっても霧散していないツルノワを袋に入れて、シェルとセナは教皇イスティダールのもとへ報告のために足を向けた。
朝一番で先触れを出しておいたおかげで、スムーズに面会の約束まで返信をもらい、2人で約束の時間通りに教皇の指定した応接間まで来たのだった。
「実験が成功したとはいえ、緊張します……」
長い廊下を歩くセナの心細げな声音に、シェルが軽くセナの肩をたたいた。
「大丈夫ですよ。今から成功例をお見せするんですから」
重厚な木製の扉の前に立つ守護役の神官騎士に来訪を告げると、扉が開き、シェルとセナは招き入れられた。
「二人ともご苦労様です」
イスティダールが立ち上がりシェルとセナを迎えてくれた。
「シェルからの速達で大体のところは分かってますが、詳細を聞かせてください」
イスティダールの前に座ったシェルとセナが、持ってきた麻袋からツルノワと果実の皮を併せ、編んだものを出してテーブルに乗せた。
「セナさんは、夢でアリステア様からご神託を受けたとのことでしたね?」
「はい。魔障浄化を織るもの、のスキルについての使い方と3つ目のスキルについて教えていただきました」
「ではまず、アリステア様のご神託のことをお聞かせください。シェル、記録をお願いしますね」
「はい、心得ております」
シェルが紙とペンを手に、イスティダールとセナの言葉を忠実に書き記していく。
「なるほど、それで魔障浄化を織るもの、のスキルで作った試作品がこれなんですね?」
イスティダールが恐る恐るテーブルの上のモノに触れる。
ツルノワの重みはさほどないが、まとわりつく穢れは重く感じてしまう。
「この果実の皮は、海の向こうの大陸では、神が好むものだと言われているそうです。ですから、浄化の力がわずかながらあるのだと。果汁に少し粘りがあるので、これが糊のような役目で、セナさんの引き出した穢れの糸を定着させているのだと思います」
「なるほど……。ではセナさん、一つ私のお願いを聞いてほしいのですが……」
「はい、なんでしょうか」
「これと同じものを私の目の前で作っていただきたいんです」
「……は?」
「アリステア様のご神託から出来上がる奇跡を目の当たりにしてみたいのです」
ダメでしょうか?とにっこり微笑まれてしまう。
「ですが、実際にお見せするには、シェルさんの部屋でないとツルノワも果実もないのですが……」
「ああ、もちろん私が伺います。シェル、問題はありませんよね?」
「もちろんです。幸い、冒険者の皆さんがツルノワを何匹か持ってきてくれていますので」
「では今から行きましょうか」
有無を言わせない圧を感じて、セナとシェルは頷いた。
シェルの部屋に移動すると、数匹のツルノワと、果実が机の上に残っていた。
セナはごくりと唾を飲み込み、両手を膝に置いて深呼吸する。
大丈夫、やり方は分かったのだ。できる。
「……落ち着いて、セナさん」
シェルが小さく囁き、セナの肩に手を置いた。
イスティダールが座るのを待って、その前にセナとシェルが並んで座る。
「さあ、どうぞ」
イスティダールはにこやかに手を差し伸べたが、その眼差しには、決して見逃すまいとする鋭い光が宿っている。
セナは意を決し、まずは果実の皮を丁寧に長く剥いていく。それからツルノワを一匹持ち上げた。まだ微かな痙攣を残すその小さな魔獣の体から、穢れの糸がじわりとセナの指先に引き出される。
次いで、長く剥いた果実の皮をツルノワに絡めながら穢れの糸と一緒に編み込んでいく。
指先にまとわりつく穢れが重苦しく、心を曇らせようとするが、セナは神託の言葉を思い出し、祈るように織り進めた。
(アリステア様のご神託が教えてくださったことだもの。精一杯やらなくちゃ)
やがてツルノワの管の中で、穢れと浄化が調和した一本の「鎖」が形を取る。
淡い光が室内に広がり、穢れから発せられていた重苦しい気配がすっと和らいでいく。
「……!」
イスティダールの口から息が漏れた。
完成した鎖を机に置いたセナは、汗をぬぐいながら顔を上げる。
「……で、出来ました」
「……」
静寂を破ったのは、イスティダールの深い声だった。
「まさしく……奇跡だ」
彼は椅子から立ち上がり、鎖を両手で丁寧に持ち上げる。
「神託を受け、それを形にし、我らの目の前で示してみせた。これこそがアリステア様のご意志にして、世界を護るために授けられた奇跡なのですね……」
セナは一瞬、返す言葉を失った。胸の奥が熱くなり、ただ小さく頷くことしかできない。
その隣で、シェルが目を細めて微笑みながら新しく出来上がったピュリファチェインを見つめていた。
イスティダールは、記録を後ほど提出してほしい、とシェルに命じ、出来上がったピュリファチェインを大切そうに手にして部屋を出て行った。
「あの、シェルさん。私、今日は冒険者ギルドへ行きたいんですがいいでしょうか?」
「それはもちろん構いませんが……何か気になることでも?」
セナが少し顔を赤らめて指をもじもじと絡める。
「あ、えと……そろそろカインのバンダナの洗濯をしないといけない頃なんです。普段の依頼に加えて、ツルノワの討伐もして、さすがに穢れがたまってるんじゃないかと思って……。ノアの防具も穢れが気になるし」
シェルは思わず笑みをこぼした。
つい先ほどまで神の奇跡を示した少女が、今は仲間の装備を心配している。その落差が、どこか愛おしい。
「そうですか。それは確かに大事なことですね。では私もいっしょに行きます」
「はい」
朝から書庫にいたラシルにも声をかけ、3人で冒険者ギルドへ向かう。ギルドの食堂に行くと、カインとノアが依頼掲示板の前で何やら相談をしているのが見えた。
「カイン、ノア、何してるの?」
後ろからセナが声をかけると、2人が振り返る。
「おー、おはよう、セナ」
「姉ちゃん、昨日はお疲れ様……って、なんか今日ももう疲れてない?」
さすが弟、目ざとい。
「あはは、ちょっとね。で、2人は何してるの?」
「ああ、今日はどの依頼を受けようかと思って」
「俺たち、基本的に王都にいる間は修行の合間に日帰り以外の依頼は受けないから割と少なくて」
「ノア、今日はこれなんかどうだ?」
カインが依頼掲示板から一枚の依頼票をはがす。
街角にある魔法苔の採取の依頼だった。こういう依頼なら、ノアの索敵スキルで魔法苔のある場所を効率的に探せる。
「ああ、これならあまり時間は必要ないね。俺向きの仕事だし、やるよ」
「じゃあ今日は一緒にこれやるか。昼までには終わるだろ」
「だね」
カインとノアのテンポの良い会話は冒険者として互いへの信頼にあふれているようだった。
「昼までに終わるなら、昼からでいいから、2人のバンダナとマント含めた防具を洗濯させてくれない?」
「え?」
「カインのバンダナ、しばらく洗濯してないし、ノアのマントも渡してから1回しか洗ってないから、さすがにそろそろ……」
確かに、と二人が頷く。
「じゃあお願いしようかな。神殿?それともこっち?」
「こっちでいいかな。ギルマスにはお願いしておくから」
「じゃあ、お願いしよう。俺とノアはさっさと依頼片付けてくる。戻ったら、一緒に昼飯にしようぜ、セナ。今日の日替わりはブラッディラビットの香草焼きとドカボチャのスープらしい」
「わ、ドカボチャのスープ大好き!楽しみ!行ってらっしゃい、2人とも気を付けてね」
「街の中だよ、危険なんかないって。じゃあカウンター行ってこよう、カイン」
「ああ」
二人でカウンターへ向かう後ろ姿を見送りながら、セナは待っていてくれたシェルとラシルに向き直った。
「そういうわけで、昼過ぎまでは私はこちらにいます。お二人は神殿に戻られても大丈夫ですが……」
「え、私もいますよ?セナさんの洗濯を見たいので!」
ラシルが手を上げると、シェルも頷く。
「私もおります。ギルマスとお話もしておきたいですし」
「じゃあ、カインとノアが帰ってきたらみんなで昼ごはんにしましょう」
では、私はギルマスのところに行ってきます、と会釈をしたシェルを見送り、セナとラシルは二人でギルドの洗濯室へと向かった。
洗濯室では、コールディアが指揮を執って、今日の洗濯が始まっていた。
「あら、セナ!どうしたの?今日はこっちに来られたの?」
セナを目ざとく見つけたコールディアが笑顔で駆け寄ってくる。
「おはよう、コール。うん、今日はこっちでやりたいことあって……。昼過ぎからでいいんだけど、ノアたちの洗濯してもいい?」
「もちろんよ!セナの洗濯をみんなに見せたいと思ってたの」
さあ、こっちへ、とコールディアに促され、洗濯中の職員たちのところへ連れていかれた。
「みんな、ちょっと手を止めて!」
手を止めた洗濯中の職員たちが、ぞろぞろとコールディアのところに集まってくる。
「みんな、会ったことがある人もいるけど、初対面も何人かいるから紹介するわね。セナ=ロアードよ。みんなが今使っている洗濯スキルの仕様書を作った本人です。今日はこちらに来てくれたので、何か質問がある人がいたらしたらいいわ!」
たくさんの職員に囲まれ、セナは頭を下げて挨拶をした。
「セナ=ロアードです。今日は少しこちらでやりたいことがあり来ました。私で分かることでしたら答えますので何でもどうぞ」
するとセナの正面にいたラシルと同い年くらいの少女が手を上げる。
「あ、あの……質問いいですか?」
「はい、なんでしょう」
「金属鎧の内側の皮部分を洗って乾かすと、すごく硬くなるんですけど、どうしたら柔らかく仕上がりますか?」
なるほど、それはセナも躓いたことがある。
「それは汗のせいでもあるから、まずは丁寧に汗を落としてから陰干しにするの。半乾きくらいになったら、今度は洗濯スキルの≪柔らぎ≫を皮用のオイルに付与します。そのオイルを半乾きの皮に丁寧に塗り込んでから、再度乾かせば、少なくとも油が落ちるまでは何度か大丈夫よ」
「なるほど、ありがとうございます」
「あ、じゃあ俺もお願いします。魔獣の返り血がなかなか綺麗に落ちないんです。何か良い洗濯方法はないですか?」
「あ、ずりぃぞ!俺もお願いします。セナさんの仕様書にあった≪消臭≫のスキルを洗剤に付与して使ってみたら、確かに穢れが落ちたんですが、乾かしたときに少し洗濯物が脆くなっているような感じもあって……」
我も我もと、セナに質問をぶつけてくる職員たちをさばいたのはコールディアだった。
「みんな、聞きたい気持ちがはやるのは分かるけど一旦引いて。セナがびっくりしてるから」
「あ……」
「すみません、セナさん……」
波が引くように、セナの周りを囲んでいた職員たちが一定の距離を取ったことで、セナも落ち着いた。
「ええと……じゃあまずは魔獣の返り血の汚れの落とし方ですね?固まってしまってるのなら、まずは固まっている血を溶かしてある程度落とさないといけないんだけど、必ず冷水を使ってください。お湯のほうが落ちやすいかもって思うかもしれないけど、お湯だとさらに固まって繊維に血が染みついてしまうの。まずは冷水ですすいでできるだけ血を落としたら、月影樹の灰と洗剤で揉み洗いをしてください。これでかなり落ちるはずです。ただ、魔獣の返り血には穢れが必ずついているはずなので、≪消臭≫スキルを洗剤に付与することを忘れないでくださいね」
「ありがとうございます、試してみます!」
「それから、乾かしたときに洗濯ものが脆くなってるようだ、とのことですが、それはマントや服の布地ですか?それとも籠手とかの革か金属ですか?」
「マントとか服の布地のものです」
「分かりました。それは穢れのせいで、布地が劣化したために起こる症状です。乾かした後、今度は洗濯スキルの≪清護≫を水に付与して、もう一度濯いでから陰干しをしてください。≪清護≫のスキルで洗濯物をコーティングしてくれます。それで新品同様とはいきませんが、もろくなっていくことは食い止められます」
「≪清護≫の付与は乾いた後に付与することで防御力を上げるのでは?」
職員の問いに、セナはにっこりと頷いた。
「はい、それも正しいんです。でもそれは“装備に直接付与”した場合の効果ですね。私が言ったのは“水に付与して洗い流す”方法です。そうすると布や革の繊維の奥にまで≪清護≫の効果が染みこんで、外側だけでなく“中から守る”ことができます」
「なるほど……!だから乾かしたときの脆さを防げるんですね」
「はい。布地が完全に乾いてから外側に≪清護≫を付与すれば、防御力の補強にもなります。つまり二段階で使い分けるんです。繊維を守るための≪清護≫と、装備を強化するための≪清護≫」
「そんな使い方ができるなんて……!」
職員たちが一斉にどよめいた。
「これも仕様書に追加しておいたほうが良いわね」
コールディアが熱心にメモを取っている。
それからあちこちからあがる質問に答えているうちに昼になり、依頼を終わらせ帰ってきたカインとノアが洗濯室に顔を出したときには、セナはへとへとになっていた。
「まったく皆さん、仕事熱心なのはいいけど、セナさんが疲れてるの分からなかったんですかね!」
ぷんすかしながら、勢いよく香草焼きにナイフを突き刺すラシル。
「私は大丈夫よ、ラシル」
「嘘です!だってセナさん、眉間にしわが寄ってます!疲れてるとき、そうなるじゃないですか!」
「お、ラシル、それが分かったんだ?」
ノアの言葉にラシルが頷く。
「弟子としては当然です」
「へえ、俺が知ってんのは、セナが疲れた時は足を組むことくらいだけどなぁ」
カインに言われて、足組をしていることに気づいたセナはそっと足を解いた。
「ああ、それもあるね。俺、カインに言われなかったらそっちは気づかなかった」
何だかセナは三人に癖を見抜かれているようで居心地が悪い。
「あと、姉ちゃんは困ったときに髪を耳にかける癖がある!」
ふんす!と胸を張って言うことではないと思うのだが、誰も突っ込まない。
「もうそれくらいでいいから……。ごはんたべたら、カインとノアの洗濯しなきゃいけないんだからね!」
「じゃあ、洗濯が終わったら俺がおごるからお茶しないか?……向こうの通りに、セナの好きそうな甘味のある店見つけたんだ」
「え、どんなの?」
「金糸蜜菓子って書いてあったな」
「あ、それ最近王都で流行ってるやつ!私も食べてみたかったから一緒に行きます!」
「あ、じゃあ俺も。甘いもん好きだし」
ラシルとノアが手を上げる。セナと二人で行くつもりだったカインは出ばなからくじかれてしまったが仕方ないとあきらめた。
「まあみんなで行くほうが美味しく食べられるよね。カイン、いい?」
「ま、仕方ないな。俺の奢りなんだから、ラシルもノアも感謝しろよ?」
「はーい」」
ちゃっかりしてんな、と毒づくカインにセナが優しい微笑みを向ける。
こうして優しい時間を続けていくためにも、黒い霧を纏う獣を必ず消滅させなくては、と思うのだった。
食事を終えて洗濯室へ戻ると、コールディアが待っていた。
「あ、セナ。洗濯するんでしょ?」
「うん」
「あのね、実は新しい洗剤を仕入れたの。海の向こうの大陸のモノなんですって。まだ誰も使ってないんだけど、ぜひセナに一番最初に試してもらおうと思って待ってたの」
コールディアが差し出した壺の中には甘い香りのする真っ白な洗剤があった。
「いい香りね」
「ええ。何でも、神様に供える果実の実を乾燥させて粉にしたものと、海から抽出した塩とを混ぜているんですって」
「神様に供える果実……」
それはなんだかとてもよく知っている果実であるような……。
「クリム、かしら」
「ああ、そんな名前の果実だって聞いてるわ。実際、この洗剤はクリム粉、って名前らしいし」
「やっぱり!」
「セナ、知ってる果実なの?」
「ええ、ちょっとね。それに塩か……。うん、ちょっと試してみよう。ノア、マント頂戴」
「え、俺の!?」
「そうよ。見た感じ、汚れもかなりあるし、ってことは穢れもついてるはず。ノアのマントで、これを試したいの」
確かに王都に来てから2回しか洗濯していないマントだから、洗濯するのは賛成だ。
ノアはマントを外すと、セナに手渡した。
「うわぁ……やっぱり汚れてるわね……」
「しょうがないじゃん」
「素材がシルフフェザーだから、穢れはさして溜まってないけど、普通の汚れはかなりのものね」
シルフフェザーは軽さとある程度の穢れを跳ね返すのが売りの素材だ。風の精霊が好むと言われている花を素材にして繊維を作るのだが、いかんせん汚れやすいという欠点がある素材なのだ。だから服やマントを作るときには汚れが目立ちにくいようにと染めてしまう。ノアのマントも、索敵スキルの助けになるようにと、冒険者は、森や山などでの行動が多いということもあって、濃いめの緑色に染めたものを使って仕立てた。
「よし、じゃあやりますか」
まずはクリム粉を少しだけ水に溶かし、マントの端っこだけを浸してみる。それから浸した部分だけを軽く揉み洗いしてみると、なんと、汚れと穢れが両方きれいに落ちていたのだ。
「思った通りだったわ」
「どういうことですか、セナさん」
ラシルの疑問に、セナは笑って種明かしをした。
「クリムには浄化を手助けする効果があることはラシルも昨日見たから知ってるでしょ?それに混ぜられた塩は海からくみ取った海水で作っているのなら、穢れを落とす効果を高めるのよ。陸にある岩塩は穢れることがあるけど、海は穢れが流れ込んでも浄化するから海から作った塩は浄化効果が高いの」
「はー……海から作った塩にはそんな効果があるんですね……」
「ええ、だから、神殿が使う塩は海から作ったものだけのはずよ。神殿に帰ったら聞いてみなさいな」
「なるほど、クリムと海の塩の相乗効果がある洗剤ってことですね!」
「そういうこと。よしじゃあ、マント全部浸しましょうか」
クリム粉を増やして溶かした水にマントを浸し揉み洗いをすると香りのよい泡が立ち、マントの汚れと穢れがなくなっていく。
「それで干す前に≪消臭≫のスキルを付与するの。これで穢れが残っていても消えるはずよ」
≪消臭≫スキルを付与したマントをシワが寄らないように干すと、洗剤の甘い香りが漂う。
「よし、つぎ!次はカインのバンダナ洗うから貸して」
「ああ、うん、じゃあ頼むよ」
カインがバンダナを外してセナに渡す。
少し色褪せてはいるが、カインがこのバンダナを大事にしてきたことが分かる。
「あまり穢れはついてないわね……。でも獣脂……かな?シミになってる」
「ああ、それはおそらくツルノワだな。獣脂じゃなくてツルノワの体液だと思う」
「体液かぁ。染み抜きしたら色落ちしちゃいそうだなぁ」
「多少は仕方ないさ。俺は気にしないよ」
「でもこれは……」
セナがちらりとラシルを見る。
これはラシルにとっても父の残したものなのだ。
「私も気にしませんよ、セナさん。お父さんだって、そんなこときっと気にしない。カインが大事にしててくれたらそれでお父さんは嬉しいと思うから」
「ラシル、ありがとう」
カインの礼の言葉に「あとで金糸蜜菓子奢ってもらいますしね!」と茶目っ気たっぷりに笑う。
「……そうね」
ならばできるだけ丁寧に染み抜きをしてみようとセナは思い、己の知識と経験の中で染み抜きの効果的な方法を模索する。
「……よし。私、ちょっと食堂に行ってくるね」
「姉ちゃん、あれ使うの?」
「うん。ここにはないから、食堂に行ってもらってくる」
「なら、俺が行ってくるよ。そんなにたくさんはいらないだろ?」
「うん。グラス一杯くらいあればいいかな」
「わかった、もらってくる」
ノアが食堂に向かい、もらってきたのはグラス一杯の独特の香りのする液体だった。
「はい、姉ちゃん」
「ありがとう、ノア」
「セナさん、それは?」
「これは白実酢よ。お料理にも使うやつ」
白い果実の実を発行させて作るこの調味料は、一般的に普及しているが、実は洗濯にも使えるのだ。
「あ、お母さんがお店や家で使ってます。お酢を洗濯に使うんですか?」
「ええ、これは染み抜きに使えるのよ」
まずはバンダナのシミにグラスの中身をたらし、良く揉んでから水に浸すと、シミがわずかに薄くなっていた。
「よし、何度かやってみよう」
何度か白実酢を使って揉み洗いをすると、シミがかなり薄くなりもう目立たないくらいにはなっていた。
もともとかなり古いバンダナと言うこともあって色あせもあるが、カインが丁寧に扱い、セナがきちんとした洗濯を続けていたおかげでさして繊維に傷みもないくらいだ。
「ちなみにこのシミ抜き方法は、泥汚れや草の汚れにしか使えないから気を付けてね。ツルノワは植物系の魔物だから効果があったのよ。返り血や魔獣の油じみは他の方法でないと落ちないからね」
それからグラスの残りを冷水に混ぜてすすぎをしていく。
「残りはすすぎに使うと、柔らかく仕上がるのよ」
コールディアがさっきからずっと一歩下がって、セナの洗濯の様子を記録しているのは、仕様書と比べて補足することを考えているのだろう。
「よし、あとは水分を取って影干しして終わり」
と、その時、セナの頭の中にあの声が聞こえた。
洗濯室の喧騒がスウッと消えて、洗剤の香りも遠ざかる。
『セナ……セナ、聞こえますか』
「え?あ?えと……はい、聞こえます」
アリステアの声だった。だが、セナ以外には聞こえていないらしく、全員が訝しげにセナを見ているが、セナ自身は聞こえてくる声に集中するだけで精いっぱいだ。だって、アリステアの声が聞こえるということは、これは神託だ。聞き逃すわけにはいかない。
『魔障浄化を織るもの、での穢れの鎖を無事作ってくれたことをまず感謝します』
「……あれで良かったのでしょうか……?」
心の中で返事をすると、アリステアから返事があった。
『ええ、素晴らしいものです。ツルノワにクリムの皮を巻き付けることで浄化と穢れのバランスを取るなんてすばらしい思い付きです』
「みんなのおかげです」
『穢れの鎖ができたのなら、あとは終局浄化で洗い上げたピュリファの用意ですね。ピュリファになるものですが、あなたがさきほど洗ったバンダナがふさわしいでしょう』
「カインのバンダナ、ですか?」
『はい。あのバンダナはかつての持ち主が大切にし、今の持ち主にも大切にされ、あなたも大切に何度も洗い心を注いでいたもの。これほどふさわしいものもなかなかありません』
「……でも、使ってしまえば、あのバンダナは……」
『そうですね、まちがいなく消滅に巻き込まれます』
「!」
それはいけない。あれはルヴェークが残したカインへのエールであり、ラシルにとっては姿も声も知らぬ父のよすがなのだ。
カインがいずれ、あのバンダナをラシルへ、と思っていることをセナは気づいていた。だからあれを失うわけにはいかない。
「あのバンダナ以外ではいけないのですか?あれはカインやラシルにとって替えの利かない大事なものなんです」
『あなたの気持ちは分かりますが、ピュリファがないとまたただ封印するだけで終わります。つまり遠い未来またいずれあの獣がよみがえることになります。替えの利かない大事なものだからこそ、力もこもりやすいのですよ。愛されてきたモノだからこそ終局浄化の器となりえるのです』
アリステアの言葉は厳しい現実だ。
それが分からないわけではないが……セナにとってもあのバンダナはカインと初めて会った時から何度も大事に洗濯してきた思い入れのあるものなのだ。簡単に諦めるのはいやだ。
『終局浄化のスキルについては以前伝えた通りのやり方で発動します。覚えていますか?』
「まだ試してはいませんが、忘れてはいません。ええと……」
終局浄化の発動方法を確認するように口にするセナにアリステアが微笑みかけて間違っていませんよ、と言ってくれた。
それでアリステアの言葉は終わった。
セナの耳に洗濯室の喧騒が戻ってくる。
「姉ちゃん!姉ちゃん、大丈夫!?しっかりして!」
ノアに二の腕を取られ揺さぶられていることにそこで気づいた。
「あ、ノア……」
「ぼーっとしてたけど、どうしたの!?」
「……アリステア様のご神託が聞こえたの……」
セナの言葉に全員がびっくりして静かになる。
「セナ……アリステア様のご神託って……?」
コールディアがおそるおそる聞いてくる。
「ああ……それはね……」
と、危うくしゃべりそうになるが、カインがセナの背後に回って口を抑える。
「……っ!んんっ!?」
「セナ、神殿に行く前にそれは言うな!悪いな、コールディア、この話はいずれ神殿からきちんと通知が来るはずだから今はセナに何も聞いてくれるな」
そのままセナを引きずって洗濯室を出ていくカインを追いかけるノア、ラシルだった。
「え?え……?何……ほんと何……?」
呆然としたままのコールディアの視界には干されたままのノアのマントとカインのバンダナがあった。
冒険者ギルドの外に引っ張り出されたセナだったが、抗議の声を上げる前にカインに叱られる。
「セナ、アリステア様のご神託なんて、簡単にしゃべっていいことじゃないぞ!」
「だ、だめなの?」
「アリステア様に関わることは神殿以外では情報がないというのが常識だからな。神殿から怒られるのはセナだぞ!」
カインに叱られてしょぼんとしてしまったセナだった。
コールディアに聞かれてついうっかり口を滑らせるところだったが、カインのおかげで助かった。
そうしていると、冒険者ギルドからノアとラシルとシェルが二人を追いかけて出てきた。
「姉ちゃん!」
「ノア……」
「ノア、ラシル……シェルさんまで」
そういえばシェルさんはギルマスのところに行っていたんだっけ、と思い出す。
「セナさん、ラシルたちから話は聞きました。一緒に神殿に戻りましょう。アリステア様の神託についてお聞かせください」
「は、はい……」
そこでセナはちらりとカインを見た。
カインのあのバンダナのことをどう話せばいいのだろう……。
「ん?どうかしたか、セナ」
「え、ううん、別に何でもないよ」
焦って首を振るセナの頭を掌で軽く撫でたカインは、優しくセナの耳元でささやく。
「アリステア様にどんなことを言われたのか知らないが、おまえが頑張ってきたことは何の無駄にもならないし、これからだってそうだ。おまえができることをこれからも頑張ればいい」
カインの優しい声が沁みる。
やっぱりあのバンダナを使う以外の方法を考えないと……と、バンダナを巻いていないカインの手首を見てセナは心に決めた。
「では、お話を聞きましょうか」
神殿のシェルの部屋で、全員分のお茶を前に、シェルが口火を切る。
「……あの、どうしてもお話ししないといけませんか?」
「アリステア様のご神託となれば、今セナさんやみんなで頑張っている黒い霧を纏う獣を滅するためのことなのでしょう?そのことについては、神殿としては全てを把握しておく必要があるのですよ」
シェルの言葉は正しい。
「……アリステア様は、ツルノワで作ったあの鎖を褒めてくださいました。すばらしい思い付きだと」
「では、アリステア様もあれは使えると判断してくださったと言うことなのですね」
「はい」
「他にはなんと?」
「……3つ目のスキルのことも言われました」
「終局浄化、でしたか?」
「……はい。……終局浄化で使うものを指示いただきました」
「それは?」
言いたくない、だが、アリステアから言われた言葉を偽ることはできない。
「カインの、バンダナです……」
ああ、言ってしまった、言いたくなかった。
「で、でも別のモノを考えます!あれは……あれだけはダメです!」
セナの膝の上で震える拳に誰かの掌が乗る。
「セナ」
優しい声と手のひらの持ち主は見なくても分かった。
「カイン……」
「アリステア様のご指示なんだろ?だったら構わないさ。おそらくルヴェークも納得してくれる。いや、むしろ自分のバンダナがアリステア様に選ばれた!って喜ぶ気がする。なあラシル」
カインに話を振られたラシルが少し考えて頷く。
「うん。お母さんから聞いてたお父さんなら喜ぶと思う。アリステア様をすごく信奉してたって聞いてるし、お父さんの日記にも、アリステア様への感謝をいっぱい書いてるし」
だから私は、お父さんの信奉していたアリステア様をもっと知りたくて、神官見習いになったの、とラシルがさっぱりした笑顔で笑う。
「だからセナ。構わず使ってくれ」
「で、でもあれは……あれは、カインの大事な……!」
「そうだな、大事なものだ。でもこれからのセナやノアやみんなよりは大事じゃない」
「……カイン」
「だから使え」
「……」
どうしてそんなに優しく笑うの?揺らぎなく言えるの?ずっと大事にしていたものだって、ずっと見てきたから知ってる。
セナの瞳に宿る思いを読み取ったカインがセナの隣に座る。
「ええと、な、セナ。俺は初めてあのバンダナをセナが洗濯してくれた時から、セナの洗濯に惚れたんだ」
「え……?」
「あんなに大事に丁寧に洗濯してくれて、あのバンダナは幸せだなと思った。じゃあ、幸せな使い方をしてやらなきゃ、って思うんだ。それがさ、アリステア様直々のご指名で、この世界を護るために使うのなら、これ以上幸せな使い方ってないんじゃないかって俺は思うんだよ」
「……」
「だからむしろ使ってほしいんだ」
「……いいの?本当にいいの?」
「ああ。ただ、1つだけ頼みがある」
「何?」
「黒い霧を纏う獣の討伐は俺も連れていってくれ。俺の弓スキルが役に立つ場面がおそらくある」
シェルが驚いたようにカインを見る。メインの討伐隊は、神殿の騎士たちで構成することになるだろうとイスティダールとも話していたからだ。人の口に戸は建てられないが、できれば知るものが少ないほうが良いのも確かだから。
「カインさん。その弓スキルと言うのは……」
「ああ。シェルさんだけじゃなくて、スキル持ちならみんな知っていることだが、アリステア様から授けられたメインスキルにはスキルを強力にする付与スキルがある。セナの洗濯スキルの≪消臭≫とかもこれだな。弓スキルにも付与スキルがあって、やっと俺も弓の付与スキルを使えるようになった。……地獄のような冒険者ギルドの修行のおかげでな。メサヤ直々に鍛えてもらったよ」
「……いや、ほんときつかったよな」
カインの横でノアもげっそりした顔を見せる。
「俺の場合は索敵スキルの付与スキルと防御スキルの付与スキルで二重の意味で大変だった……」
「ノアも付与スキルを2つとも使えるようになった。特に索敵スキルはすごいぞ」
「そうなの。すごいわ、ノア。頑張ったのね」
「姉ちゃんが頑張ってんのに、俺が頑張らないわけにはいかないしさ。だから俺もついていくからね!」
これは絶対譲らないという気迫で、ノアも宣言する。
「お二人とも引く気はないようですね……」
「当然です」
「カインと俺は姉ちゃんの護衛で雇われたんだから、最後まで護衛をやりますよ」
シェルは小さく息をつき、覚悟を決めるしかなかった。
……説得は無理だ。ならば、しっかりと討伐隊で役にたってもらうしかない。
頭の中で、黒い霧を纏う獣の恐ろしい姿を想像して身震いする。あの獣は、ただの魔物ではない。何しろ世界中の穢れの塊の権化なのだ。討伐隊に加わる神殿の騎士たちですら容易には近づけないだろうということは予想がつく。
「……わかりました。じゃあ、カインさんとノアくんにも討伐隊に加わってもらうように話を私から通します」
シェルの声には、覚悟とわずかな不安が混ざっていた。
その瞳を見つめるカインとノアの表情にも、覚悟と緊張が張り詰めている。
ここから先は、命を懸けた戦いが待っている——それをここにいる全員が理解していた。
冒険者ギルドに戻り、セナは洗濯済みのノアのマントとカインのバンダナを回収すると、メサヤに呼ばれているとコールディアが伝えてくれたので、メサヤの部屋へ向かう。
「メサヤさん、セナです」
「ああ、入っておくれ」
了解を得て部屋に入ると、メサヤがセナを出迎えた。
身長差のためセナがメサヤを見下ろしてしまう形になるのは仕方ない。
「よく来てくれたね、セナ。そして洗濯室の改善をありがとう。今までは何だったんだってくらい劇的に良くなったことにお礼をしたいんだが、何か望むものはあるかい?」
メサヤの申し出にセナは首を振る。
「いいえ!私は私にできることをしただけです!これで洗濯室のみんなや仕事が楽になるのならそれが一番ですから」
セナは洗濯スキルを授かったころから色々と洗濯スキルの使い方を試したり、工夫が楽しくて仕方なかった。それでだめにした洗濯物も数えきれないが、とくにいまでもよくおぼえているのが、洗濯スキルの付与スキルの1つである≪漂白≫の練習を始めたころ、ノアのお気に入りのナイフの鞘の漂白を失敗してしまい、鞘の装飾部分を一部消してしまったことがある。あの時はノアが絶望した表情を見せ、謝りに謝り倒して、ノアの好きな夕食を1か月ずっと作ることで許してもらえた。
あの出来事は失敗は仕方ないし、それで成長することもあるが、誰かの大事なものを扱っていることを忘れないでいようと誓った出来事だった。
「それでも冒険者ギルドとしちゃ、なにかしら報いないといけないんだよ、セナ。それがこの王都にいる冒険者たちへ君がしてくれたことへの礼儀でもある。王都の冒険者ギルドは恩知らずだらけだなんて言われるわけにはいかないのは分かるだろう?」
「……それは」
何が何でも何かしらの希望をセナから引き出したいのだろう。メサヤの瞳が強く輝いていた。だがその奥には、年若い少女を思う親心のような柔らかさも見え隠れしていた。
「あの……でしたら、クリム粉をオスロの街にもいただきたいです」
「あの洗剤を?」
「はい。オスロは海から遠い街です。海の向こうのものなんてまず届かない。でもあのクリム粉は今まで以上に洗濯スキルの効率を上げてくれるでしょう。付与なしで穢れを消せるなら、洗濯スキル持ちでない職員でも仕事ができます。オスロの街の洗濯室は洗濯スキル持ちじゃない職員もいます。そういう人たちのためにもクリム粉が欲しいです。……いただけますか?」
「やれやれ。君はどこまでも良い洗濯にこだわるんだね。分かった、今度冒険者ギルドで仕入れる予定のクリム粉を半分オスロに回そう。それから王城の輸入管理部門に陳情を出してオスロの街にクリム粉を定期的に回すように手配しておくよ」
「ありがとうございます!」
「他に願うものは?」
「あの、では拭布を多めにください。ちょっとやりたいことがあって……」
「昨日、シェルが来て相談していったことに関係あるのかい?」
「はい」
「わかった、拭布を詰めた拡張バッグを用意させよう」
「助かります、ありがとうございます」
「だから、ありがとうはこちらのセリフだよ、セナ。神殿への穢れ払いの依頼が半分以下に減ったおかげで、冒険者ギルドの出費は格段に抑えられて、冒険者や職員たちへ還元できている。それはとても嬉しいことだからね」
「ああ、なるほど。そういうこともあるんですね」
それならもう1つくらい要求しても良いだろうか。
「あの、でしたらもう1ついいでしょうか?」
「なんだい?」
「はい、あの……」
セナの頼みはメサヤに快く聞き入れられた。
カインの手首にバンダナが巻かれる。これが世界を護る礎となるというのなら、なんとすばらしいことかと誇らしい気持ちになる。
(セナは気にしてるみたいだけどな……)
優しい彼女のことだ、自分のことを思いやっているのだろうということは分かる。
(でも、きっとルヴェークも嬉しいとすら思うはずだ)
本当はいつかこれをライラとラシルに返そうと思っていた。だが、ほかならぬラシルが背中を押してくれた。
ルヴェークにそっくりな明るいさっぱりとした笑顔で。
「カイン、今日はどうする?」
ノアが洗いたてのマントを羽織りながら聞いてくる。
「そうだな……。ノアは何かやりたいことあるか?」
「今日は姉ちゃん神殿のほうで色々やってるみたいだから、陣中見舞い行こうかなって思ってた」
姉想いのノアらしい言葉にカインが目を細める。
「それはいいな。セナの好きそうな甘味でも買っていってやるか。俺も行くよ」
「じゃあ今日はそうしよう。せっかく王都まで来たのに、観光とかも全然できてないし。俺、王都の観光してみたい!昔来たときはまだ小さかったし、スキルを授かる為だけに来たからあんま覚えてなくてさ」
「そうだな。じゃあ今日は王都の観光がてら、セナの陣中見舞いに行くか」
「うん!」
王都の市場はオスロとは比べ物にならないほど広く雑多で賑やかな場所だった。
色とりどりの露店や見たことのない食べ物や商品にはしゃぐノアが可愛くて、そうだ、まだノアは子供と言っていい年齢だったのだとカインは思い出した。
「なあカイン!これなんだ?」
ノアはきらきらした目で屋台をのぞき込んでいく。干した魚の珍味や、見たことのない果実を使った飴、宝石みたいな色の香水瓶まで並んでいた。
「これ、姉ちゃん好きそう。カインもそう思わないか?」
ノアが指さしたのは、色々な色の一口サイズの果実を棒にさし、飴でくるんだものだった。
「あー、これか。これは≪ワイズの果実飴≫だ。冷たい果実を飴でくるんだものだが、ひんやりした味わいで人気があるな。俺も子供のころ好きだった。そうだな、これは王都でしか売ってないな。うん、これは頭をすっきりさせるから、今のセナにはよさそうだ」
「よし!おっちゃん、これ、全種類一個ずつくれるかい?」
ノアは飴を全種類買い込むと、隣の露店に目を向ける。そこには手のひらより少し小さいくらいのかわいらしい小袋がたくさん並んでいた。
「なあなあおばちゃん、これ何?」
露店の店先にいた店主にノアが声をかける。前から思ってたが、ノアのこんなふうに人懐っこいとこが彼の物おじしない性格を作ったんだな、とカインは感心してしまう。
「いらっしゃい。これは≪香袋≫って言ってね。小袋の中の香り薬草を乾燥させたものに≪消臭≫が付与されていて、身に着けておくと多少だけど服を消臭してくれるんだよ。長旅の旅人や冒険者や商人に人気があるよ。それに付与は洗濯スキル持ちができる仕事の1つだね。あたしも洗濯スキル持ちでね。≪消臭≫の付与だけは使えるようになったんだ」
洗濯スキルにはいくつか付与スキルがあるが、すべて使える者は少ない。全部使えるセナが規格外なのだ。
「へえ、こんなのあるんだ。オスロでは見たことないなぁ」
「オスロからの旅行かい?」
「ああ!」
「オスロにはあたしの娘がいるんだよ。冒険者ギルドで働いててね。お兄さんたち、オスロの冒険者なら知らないかい?ユーリっていうんだけど」
「知ってるよ!冒険者ギルドの洗濯室で働いてる。俺たちもお世話になってるよ!えー、ユーリのお母さんだったのかぁ。こんなとこで会うなんて」
「こんな偶然もあるんだねぇ。ユーリは元気にしてるかい?時々手紙をくれるんだけど、向こうに行って2年、1回も会えてないから」
「元気にしてるよ!オスロに帰ったら、ユーリにも言っておくよ、偶然ユーリのお母さんに会ったって」
「ありがとう。じゃあ、これをユーリに渡してくれるかい?あの子ならあたしの作ったものが分かるはずだから」
と、ユーリの母親が、ノアにクレイナートの花の刺繍を刺した香袋を差し出す。
「こっちはお兄さん二人にあげるよ」
と、追加で2つ香袋を渡してきた。
「いくら?」
「ユーリが世話になってる相手からもらえるもんかい。あの子によろしく伝えてくれりゃいいさ」
カラカラと笑う女性に、やはりそれは申し訳ない、と思ったカインが目についた香袋を差し出す。
「じゃあ、これ、俺が買わせてもらうよ」
「まいど。返って気を遣わせちゃったみたいで申し訳ないねぇ」
「いや、ちょうどプレゼントを探してたんだよ。洗濯スキル持ちのこいつの姉ちゃんにね。これは好きそうだなって思ったからさ」
「その子、お兄さんのいい人かい?」
女性の一言にちょっとだけ焦ってしまうが顔には出さない。
「大事な仲間だよ。だから贈るものを探していたんだ」
だってそれも本当だから。
カインとノアが神殿のシェルの部屋を訪れると、床いっぱいに拭布が散らかっていた。
「……何これ?」
「姉ちゃん……?」
カインとノアが見たものは、床に座り込んで、拭布に次々に触れているセナだった。
「ラシル、姉ちゃん何してんの……?」
ちょうどお茶を持って入ってきたラシルにノアが問いかける。
「セナさん、ちょっと試したいことがあるって冒険者ギルドから帰ってきてずっとこうしてるんですよ……」
「ダメだ」「こうじゃない」「だったら順番を変えて……」とブツブツ呟きながら何やら集中しているセナの前にカインが膝をつく。
「セナ……聞こえるか?」
「あ……カイン?」
「何か根を詰めてるみたいだけど、ラシルがお茶を淹れてくれた。休憩したらどうだ?疲れた顔してるぞ」
「……あ、うん……」
ラシルがテーブルにお茶を置いてくれる。「すぐ、カインさんとノアのも淹れてきます」とセナの分をお茶を置いて出ていくラシルを見送って、ノアがテーブルの上に買ってきた飴を並べる。
少し疲れた顔をしていたセナは並べられた色とりどりの飴に嬉しそうに笑った。
「≪ワイズの果実飴≫って言うんだって。カインのおススメ!」
「ありがとう、2人とも。うん、ちょっと休憩するわ……」
ラシルの持ってきてくれたお茶を飲んで、ノアが買ってきてくれた飴を口に放り込む。
「あ、冷たくておいしい」
「俺も1つ食べてみよ」
向かい合って座って飴を食べる姉弟に、カインが優しい笑みを向ける。
「そういえばさ、姉ちゃん。市場でユーリのお母さんに会ったよ。露店の店主さんだった」
「ユーリのお母さん?そうなんだ、私もあってみたいなぁ」
今は遠い故郷で毎日頑張っているであろう友人を思い出す。
「じゃあオスロに帰る前に1回会いに行こうよ。姉ちゃんからユーリの話を聞いたら嬉しいと思うしさ」
「そうね、そうしたいな」
そこにラシルがお茶を持って戻ってきて、四人で休憩することになる。
「それで、セナさん何をしてたんですか?こんなにたくさんの拭布使って」
ラシルの疑問に、セナが少し考えてラシルに答えではなく疑問を返す。
「ラシル。洗濯スキルにある付与スキルがいくつあるか知ってる?」
「え……ええと……≪消臭≫≪柔らぎ≫≪清護≫≪光洗≫……」
「うん合ってる」
「……あと……≪潤滑≫≪浸透≫≪漂白≫の7つでは?」
「よく言えました。でもね、実は8個目の付与スキルがあることをアリステア様から教えていただいたの」
「8個目、ですか?」
8個目のスキルがあるなんて初めて知った。驚いているラシルにセナが説明する。
「ええ。8個目の付与スキルは≪漂浄≫というの。浄化の力を最大限に付与できるスキルで、これを使うことでピュリファは完成するのよ。ただ、ピュリファを作るには発動条件があってその練習をしていたの。だって、カインのバンダナを使うのよ?失敗するわけにはいかないわ」
セナが膝の上でこぶしを握る。
「それで、メサヤさんにお願いして、練習のために拭布をたくさんもらったの。これはスキルを付与した拭布だから、あとでギルドの洗濯室で使ってもらおうと思ってるわ」
例えば、≪漂白≫を付与した拭布なら汚れの落ち方が格段に上がる。≪浸透≫ならば拭布に使った洗剤などの効果が上がるし≪潤滑≫ならば洗剤や水に付与すれば、違う素材のモノでも一緒に洗えるようになるのだ。
「でもなかなか難しくて……なかなか成功しないのよ」
「ちなみにどうすれば成功なんですか?」
「8個のスキルを全力で同時に付与。これ、本当に難しくて」
は?同時付与?
その場の空気が凍りついた。ノアは口を開けたまま固まり、「姉ちゃん、そんな無茶な……」と声を震わせる。 ラシルは真っ青になって椅子から腰を浮かせた。
「そ、それって……1つ付与するだけでもかなり大変なのに!……それを8個同時なんて……!」
スキル持ちなら、付与スキルを付与することの大変さを皆知っている。カインの弓スキルの付与だって、習得し今のレベルまで使えるようになるまでルヴェークに教えてもらいながら、ルヴェークがいなくなってからは自力で頑張ってきた。ノアも同じだ。ノアの場合は2つのスキル持ちだったことで、カインより付与スキルが多くかなり苦労した。王都に来てからは、メサヤ直々に付与スキルの修行をメインにしてもらい、やっとすべて使えるようになったくらいだ。
カインは腕を組み、眉間に皺を寄せる。ただの荒唐無稽ではなく、セナなら本当に挑戦してしまうのだと分かっているから。
セナは膝の上でこぶしをぎゅっと握った。
「でも、やらなきゃいけないの。カインのバンダナを使うんだから、絶対に失敗できない」
悲壮ともいえるセナの決意の言葉に、カインの瞳が戦慄いた。
誰かのために無茶をする、限界まで頑張る。そう、セナはそういう娘なのだと知っている。
(こんなに、こんなに優しい娘の想いをどうかかなえてやってください、アリステア様)
そんな風に心から思い、さっき買った香袋を思い出す。
「セナ、これ、俺とノアからプレゼント」
セナの掌にクレイナートの花を刺繍してある香袋を落とす。
「ユーリのお母さんが露店で売ってた。中に≪消臭≫を付与した薬草が入ってるらしい」
「へえ!可愛い。クレイナートの刺繍がしてある!そっか≪消臭≫を付与してあるものなら身に着けるのにいいね。これ、オスロの街でも売れる……かも……」
突然黙り込んだセナがおもむろに香袋を開ける。
「セナ!?」
「できるかも!ありがとう、カイン。いいヒントになったわ!」
拭布の上に香り薬草を出すと、大きめの葉を8枚寄り出す。
「うん≪消臭≫が付与されてる。これをいったん上書きして……」
セナの掌が寄り出した8枚の葉にまず≪消臭≫を上書きする。それからその隣の葉に≪柔らぎ≫を。隣に≪清護≫を。隣に≪光洗≫を。
残る三枚に≪潤滑≫≪浸透≫≪漂白≫を付与していく。そして残った最後の1枚にみな初めて知る付与スキル≪漂浄≫を付与する。そのスキルを付与された葉は透明な輝きを持ち、まるで雪融け水のような流れを思わせる光だった。
「ごめん、誰でもいいから、小さなたらいに水を汲んできてくれないかな?」
すぐに立ち上がったのはラシルだった。神殿の洗濯室に走り、空のたらいと水を入れた片手もちができる壺を抱えて全力で戻ってきた。少し廊下が零れた水で濡れてしまったのはご愛敬だ。
「はい、セナさん」
「ありがとう、ラシル」
たらいに水を入れ、セナはスキルを付与した8枚の葉を入れた。するとどうだろう、葉は水の中でぐるぐると渦を巻いた。そこにセナはまだ未使用の拭布を浸し、軽く揉み洗いをしてみた。
「……これ、できたんじゃない……?」
セナの手にはクレイナートの花と蔓の模様が鮮やかに浮かび上がり、真っ白な光を放つ清浄な拭布があった。
「ごめん、誰かシェルさんに鑑定盤を使わせてほしいって伝えてきてくれないかな?今の時間なら、書庫にいるはず!」
興奮しきりのセナにノアが頷いて立ち上がり部屋を出ていく。盛大に転倒した音がしたが、すぐに走り出す音も聞こえた。
「あ……廊下に水こぼしちゃったから、ノア滑ってこけちゃったかな……。帰ってきたら謝ろう……」
ラシルが思わぬことにしょんぼりするが、セナが笑って「あの子頑丈だから大丈夫よ」とラシルの頭を撫でる。
そしてシェルがノアと一緒に書庫にあった鑑定盤を抱えて戻ってきた。
「セナさん、ノアくんから聞いたのですが、できたのですか?」
シェルの隣にいるノアの鼻の頭が赤くなっているのをラシルが心配そうに見ている。
「できたかどうか確認したくて、シェルさんに鑑定盤を持ってきてもらったんです」
「そうですね。では早速鑑定を……」
テーブルの上に置いた鑑定盤の上にセナはクレイナートの紋も鮮やかなまだ白い光があふれる拭布を乗せた。
すると鑑定盤から淡い光が立ち上り、文字が宙に浮かぶ。
≪消臭≫≪柔らぎ≫≪清護≫≪光洗≫≪潤滑≫≪浸透≫≪漂白≫
付与スキルの名称が光の中に文字となり絡まるように一つになっていく。
そして最後の文字≪漂浄≫が浮かび上がり、文字が7つのスキルが絡まった光に覆いかぶさり、拭布の中に融けていく。そして鑑定盤は誰もが待った文字を光の中に示した。
―――ピュリファ
誰も言葉が出なかった。新しい奇跡を目の当たりにしたのだ。
「……アリステア様からの奇跡が形になったのですね……。なんとすばらしいことでしょう。早速教皇様にご報告に行かなくては」
立ち上がったシェルが部屋をバタバタと出ていき、盛大に転倒する音が聞こえた。
「あ……シェル様まで……」
「シェルなら大丈夫だろ、この重い鑑定盤を片手で抱えて走れるくらいなんだから」
とカインがラシルの頭を撫でる。カインに撫でられながら、ラシルがノアに向き直る。
「ノア、ごめんなさい、さっき廊下でこけちゃったでしょ……?私がこぼした水で滑って」
「え、大したことねーよ。気にすんなよ、ラシル」
笑って気にするなと言うノアに、ラシルが微笑み返す。
「で?姉ちゃん、どうしてできたんだ?」
「うん、ヒントはこれ」
セナが薬草を取り出した香袋を指す。
「アリステア様からの教授は8つの付与スキルをすべて全力で同時に賦与すること、だった。1つずつならできることだけど同時に同じだけ全力で、というのは今の私では無理だった。で、これの中身に≪消臭≫が付与されてるって聞いて、ピンと来たの。何か別のモノに1つずつスキルを付与して、それを混ぜたらできるんじゃないかなって。結果は見ての通り、成功よ」
鑑定盤の上のピュリファは変わらず白く輝いてきて、僅かに金色も混ざっているように見えて、セナは、アリステアの瞳の色と同じように感じた。アリステア様が見守ってくださってるのだ、黒い霧を纏う獣の討伐もきっと成功する。ただその代償は……。
セナはちらりとカインの手に巻かれたバンダナを見てこぶしをにぎった。
シェルからイスティダールにセナの付与スキルの成功の報告がもたらされ、慌ただしく討伐の準備が始まった。
メインは神殿の騎士団で編成され、そこにノア、カイン、ライラ、シェル、セナが加わる。ラシルは残念だが留守番だ。
かなり不満げな顔をしていたが、ノアの「ラシルの分まで黒い霧を纏う獣とやらをぶっ飛ばしてくるから、帰ってきたらうまいもん食わせてくれよな!」という言葉にやっと納得したようだった。
セナはまず、穢れの鎖を予備も含めてカインたちが持ってきてくれたツルノワと神殿でもらったクリムを使って8本編み上げた。
そして明日はオスロに向かって出発することが決まった夜、神殿の一室で、カインとセナが向き合って座っていた。
「よし、そんじゃセナ、頼むな」
シュルシュルとカインが手首からバンダナを外すと、セナにさしだす。
「……うん」
カインのバンダナを両手で受け取ったセナは少し切なげにバンダナを見つめる。
「まぁだ、気にしてんのか?」
「……」
「まあセナの性格じゃ気にするなっても無理か。あのな、セナ。俺はほんとに納得してんだ。ルヴェークにもらったバンダナが世界を護る礎になる。ルヴェークの家族を護れる。俺はあの時のルヴェークと同じ、誰かを守る冒険者になれるんだ。きっとルヴェークも、さすが俺の弟子!って喜んでくれてるって思う。だからセナはセナの護りたいものを護るためにセナにしかできないことをするんだ」
「……私の、護りたいもの……」
護りたいもの。
青空にはためく洗い立ての洗濯もの。
乾いた洗濯物を喜んで使ってくれる冒険者のみんな。
新しい洗剤を試す時のワクワクした楽しさ。
大事なたった一人の家族で弟のノア。
それから。
目の前にいる人。
たくさんある護りたいもの。ああ、自分はこんなにも欲張りだ。
心を決めて、セナは用意していたクリム粉を固めた小さな球に8つのスキルを付与し、カインのバンダナを水に沈め、そしてそこに最後に必要なものが完成した。
ピュリファの完成と共に、討伐隊がオスロに向かうことになった。
イスティダールの無事を願う祝福を全員で受け、戦闘員ではないシェルとセナを隊列の真ん中の馬車に乗せて、オスロへの道をひた走る。
通常であれば10日はかかる道のりを6日で着いたのは驚いたがさすがに訓練された騎士たちであった。
「この上だな……」
騎士団の団長が、オスロの山の遺跡を臨む崖の下に立った。崖の上から時折風に乗り落ちてくるのはクレイナートの花びらだ。
だが、セナはその落ちてくる花びらに少しだけ黒い灰のような穢れが纏っていることに気づいた。
胸の奥がぞわぞわする。この上にいるのだ。今から消滅させるべき黒い霧を纏う獣が。
「今日はここで野営とする。明日は崖の上の遺跡を攻めることになる。みな、十分に休息をとり明日に備えてくれ」
団長の一声で、夕暮れが近いこともあり野営の準備が始まる。
セナは馬車を出て、ぼんやりと遠くに見えるオスロの街を見つめた。
「オスロの街が見えるな」
いつの間にか隣に立っていたカインが言う。
「離れてそんなに経ってないのになんかすごく懐かしいような気分になる」
「そうね……」
夕暮れの中に少しずつ灯りが見えてきて、あの街の人の営みの息遣いが聞こえるようだ。
ああ、私の故郷はこんなに美しくてかけがえのない―――。
「なあセナ。オスロだけじゃなく、この世界はすごくきれいだな。こんなきれいなものを護れってアリステア様から言われたなら全力でやるだけだろ。みんなそう思ってるよ」
「みんな……?」
「ああ、ほら、見てみろよ」
ぽん、と肩をたたかれて振り返るとー――。
ノアが笑ってる、ライラが笑ってる。シェルも、騎士団のみんなも笑ってる。
「姉ちゃん、俺の索敵スキルの成長見せてやるよ!」
「私の短剣スキルも役立つ場面があると思うから、楽しみにね!」
「僕らも全力で挑みますよ!セナさんの洗ってくれた防具の見せ場ですから!」
「セナさん、明日は総力戦になりますよ」
「みんな…」
ああ、なんて幸せなつながりだろう。
こみあげてくる涙をこらえ、セナは隣にいるカインの掌が頭のてっぺんを撫でてくれるに任せて甘えた。
翌朝、団長の号令で、崖の上に上がるための作業が始まる。
切り立った崖でなく、少し傾斜のついた崖であったため、安全に全員で上がることを最優先にすることになり、騎士団が持ってきた道具で、崖を削り階段を作っていく。ガリガリと崖を削り、杭を打ち込み、足場を作っていく作業は早く鮮やかだ。あっという間に崖の中腹まで階段が出来上がった。ノアが索敵で辺りの警戒に努め、カインとライラが武器を手に騎士団とシェルとセナを護る。
「いけるか!?」
「いけます!次の杭をください!」
騎士団の連携作業の最中、それは突然起こった。
「上だ!!みんな防御態勢!!」
ノアの叫びが響くと同時に
ギャオオオオオオオオン!!!
空気を震わせながら大きなものが崖の上から降ってきた。
「ルーンベアだ!!」
カインがすぐさま弓をつがえ、ライラは懐に持っていた投げナイフを手にする。
幸い全員、騎士団が作っている階段にいたので、崖の下にいるルーンベアにやられた者はいない。
セナは初めて見るルーンベアにあやうくへたり込みそうになるのを何とかこらえた。
「セナさん、大丈夫ですか?」
「……はい、何とか」
「あれがルーンベアですか……本物は初めて見ます」
「私もです……。何て禍々しい……」
真っ黒な鋭い爪に禍々しい紋様が浮かぶ金色の瞳。体格は成人男性の二倍超くらいか。
淡い灰色の毛並みが逆立ち、敵意がびりびりと伝わってくるようだ。
「させるか!!」
ルーンベアが爪を振り上げると同時に、ノアの防御スキルの付与スキルである≪護泡≫が発動した。
全員が大きな泡の中から、迫りくる爪の攻撃を見たが、その爪は誰にも届くことなく泡に滑り空を切った。
何故自分の爪が届かないのかわからないまま、何度も攻撃してくる様は隙だらけだ。
「カイン!」
「おお!」
カインがライラの声に応え、穢れの鎖を矢の先に巻き付けてつがえ、ルーンベアに向かって力いっぱい放つ!
「散開!」
放たれた矢に向かってカインが付与したのは弓スキルの付与スキルで、一本の矢が5本に分かたれ、色々な方向から敵に矢を打ち込むスキルだ。
カインの放った矢は5本に分かたれ、一本の穢れの鎖をまるで輪のようにつなげ、地面に突き刺さり、穢れの鎖はルーンベアを捕らえた。
「ライラさん!」
「わかった!」
ライラが階段の上から飛び降り、両手に持った短剣で寸分たがわずルーンベアの両目を突き刺した。
しばらく痙攣したルーンベアはバッタリと倒れ動かなくなった。
「……やったか?」
沈黙を破ったのは騎士団の誰かだった。
「ああ、目だけはどうやっても鍛えようがないからね。目に防御のルーンもなかったからいけると思ったんだ。まあノアの防御スキルとカインの弓スキルのお弓スキルのおかげだよ」
汗をぬぐって笑うライラに、わっと場に歓声が上がる。
「さすが元一級冒険者だ!」
「めちゃくちゃ正確な一撃だったな!」
ルーンベアの処理は後にして、まずは上に上がって遺跡の確認を、という話になった。
そしてそのまま崖の上まで階段が作られ、全員が無事に崖の上に上がる。
「あ……」
その時、全員が見たものは満開のクレイナートの花畑だった。ただし真っ白ではない、すべてがわずかに灰色に穢れてしまっている。
「ここ、クレイナートの採取地だったのに……」
ノアが悲し気に眉を寄せる。
「大丈夫だ、ノア。黒い霧を纏う獣を倒せば、ここも浄化されるさ」
「そっか、そうだね、カイン」
その時、ノアが鋭い視線を花畑に向けた。
「みんな、構えて。なんか来るよ!」
ノアの言葉の一瞬後に花畑が盛り上がり、濃い穢れが噴き出してくる。今まで見たことも感じたこともない濃さだ。それは取りも直さず、目的のものだとそこにいる全員が察知する。
心の底から湧き上がってくるような恐怖と寒気。やがて、濃い穢れが形を持ち始める。
アリステアは、黒い霧を纏う獣は世界中の穢れの塊だと言っていたが、納得した。
濃い穢れは渦を巻くように花畑を覆い、灰色だった花びらをさらに黒く染めていく。
耳を塞いでも届くような低い唸り声が、地の底から響いてきた。
鼻を刺すような焦げ臭さと、鉄のような生臭い匂いが風に乗って漂い、誰もが一瞬息を止める。
立ち込めた霧は灰色で、その灰色の中に一際色の濃い塊があった。
霧の塊が震え、やがて脚らしきものが地面を叩いた。ドンッと重く響く音が花畑全体を揺らす。
次の瞬間、赤い二つの光が霧の奥に灯り、こちらを射抜いた。
「……ッ!」
背中を流れる汗が冷たい。だが目をそらせない。セナは息をすることも忘れて、懐にある香袋を無意識に服の上からつかんだ。
(大丈夫、ここにはみんないる。カインもノアもライラさんもシェルさんも騎士団の皆さんも)
だから大丈夫、とセナはやっと呼吸を取り戻した。
「セナさん……。私から離れないでくださいね」
隣のシェルの言葉に頷いて、彼の神官服の袖をつかむ。汗で汚してしまったから、王都に帰ったらお詫びで洗わないと、などと考える。
「来るぞっ!!」
カインの声にノアが防御壁を二重に展開する。その防御壁の中で、シェルがセナを包むかのようにもう一枚防御壁を貼る。
「シェルさん?」
「ノアくんほどの練度ではないですが、私も防御スキルをアリステア様から授かってます。ようやく役に立てる場面が来ました」
そういえば、シェルのスキルが何だったのか知らなかった。
「このスキルを授かった時、冒険者になるべきか迷いました。姉が短剣スキルを授けられたので、姉を護る位置を私の居場所とすべきかと。でも私はスキルを授かる前からアリステア様にお仕えすることが願いだったので、スキルを磨くのは困らない程度にして神官になりました」
その瞬間、黒い霧の獣が一歩踏み出す。
大地が震え、花畑が粉塵のように舞い上がった。
黒い霧が渦を巻き、仲間を包む防御壁に迫る。
「……!」
シェルがさらに防御壁を強化し、セナを抱き込むように守る。
ノアの二重の防御壁も黒い霧に押されながらも踏ん張る。
獣は口を開き、低くうなる。その声が地の底から響き、周囲の空気さえねじ曲げる。
霧の塊が飛び散り、花弁が焦げる匂いとともに風に舞った。
カインが叫ぶ。
「みんな、位置をずらせ!集中攻撃だ!俺の準備が終わるまで引き付けてくれ!」
霧が触れた防御壁が揺れ、まるで生き物のように弾力を持って跳ね返る。
カインがライラから渡された穢れの鎖をさっきルーンベアを射抜いたのと同じように矢の先に巻き付け、全力で引いた弓を放ち「散開!!」と付与スキルを発動させる。
穢れの鎖は黒い霧を纏う獣を縛り、何とか逃げようと暴れ、花が舞い散り空気が揺れるが穢れの鎖は食い込むように黒い霧の塊を縛っていく。
更にカインは残りの穢れの鎖を次々と放ち、その巨体を縫い留めた。
「騎士団長!」
「おお!!」
カインの呼びかけに騎士団長はさっと手を上げる。それに応えて、弓部隊が下がり、槍部隊が前に出る。槍部隊の持つ各々の槍の穂先は、全てセナが洗濯をして浄化効果を高めてある。
「やれ!!」
騎士団長の一斉号令で槍部隊が一斉に霧の塊に向かって槍を投げつける。
ゴオオオオオオオ!!!!!
霧からまるで海が渦巻くような音にも似た悲鳴が迸った。
効いている!
「次だ!」
騎士団長の指令に次に前に出たのは投石部隊だ。
今回は距離を取っての遠距離攻撃を基本作戦としたので、近距離部隊は討伐部隊から外されたのだが、こんな誉ある仕事に神殿の騎士として参加したくないわけがなく彼らは普段は使うことのない投石機の訓練を自主的に始め、今回の作戦に参加を果たしたのだ。もちろん投石機で使う石にもセナがすべて洗濯をして浄化効果は高めてある。まさか石を洗うことになるとは思わなかったとあとでセナは苦笑いしたものだ。
一斉に投石部隊が大小さまざまな石を放つと、霧の塊が苦しそうに咆哮する。必死で穢れの鎖を引きちぎろうとする動きで、霧の塊から黒い穢れが矢のようにはなたれ、ノアの防御壁をたたき、外側の防御壁が音を立てて割れ、二枚目にもあちこちでひびが入り始める。ノアも懸命に防御壁を貼りなおすが少しずつ追いつかなくなっていく。
「ライラさん!」
「ああ!」
カインの号令に、ライラが一際浄化の効果が高い光を纏った短剣を、霧の中の赤い二つの光の真ん中に向かって投げつけた。
グオオオオオオオオオオ!!
霧の塊が暴れ、そこにカインが矢の先に自分のバンダナを巻き付け弓を引く。
(今までありがとうな)
少しだけ寂寥感はあるが、これで世界は救われるのだ。
力いっぱい弓を引き、ライラが投げた短剣を的に弓を放つ。それはまっすぐ短剣のすぐ上に突き刺さり矢に巻き付けたバンダナが大きく広がって黒い霧を覆いつくしていく。
霧の足元の灰色の穢れを纏ったクレイナートの花々が白く清らかな色を取り戻していく。
やがて、真っ白な花の中に黒い霧の塊が融けて消えた。同時に霧を覆っていたカインのバンダナも。
セナは思わず深呼吸をした。
目の前の光景に胸がいっぱいになり、思わずカインに駆け寄って、バンダナをなくした彼の手を握った。
ノアもライラもシェルも、それぞれ安堵の笑みを浮かべ、互いに見つめ合った。
美しいクレイナートの花の香りだけが静かに漂う。
戦いは終わり、そして世界は、また少しだけ優しくなったのだ。
王都に戻ってからは実に慌ただしかった。
セナは着替える間もなくすぐさま王宮に呼び出され、今回の討伐について国王から直々に礼を言われ、何か褒美を、と問われ、ではオスロの冒険者ギルドの洗濯室の井戸にポンプをつけてほしいとお願いをしたら陛下に盛大に笑われてしまった。セナとしては、今本当に一番欲しいものなのだが。
それは約束しようと言われ、他に何か、という問いにはありませんと答える。クリム粉はメサヤが手配を約束してくれたから問題はない。
「欲のない娘だ」
という言葉に、いや欲張りですよ、と心の中でだけ返事をするセナだった。
それから神殿に戻りシェルと一緒にイスティダールへの報告も済ませたが、今回の詳細な報告書がまとまるまでは王都に滞在してほしいとの頼みを聞いて滞在中は宿に戻ることにした。やりたいことがあったからだ。
「あ、姉ちゃんー」
冒険者ギルドに立ち寄ると、目ざとくノアがセナを見つけて来た。ノアの隣にはラシルが立っていて、嬉しそうにセナに軽く頭を下げる。
「おかえりなさい、セナさん」
「うん、ただいま、ラシル」
「あー、それじゃ姉ちゃん、俺、これからラシルと甘味に行ってくるわ。土産買ってくるな」
「あら、いいわね」
私も行きたいな、と出かかったところで、後ろから肩を肩をぐいとひかれた。
「カイン」
カインはにこにこしながら、ノアとラシルに「気を付けて行って来いよ」と手を振って見送る。それからあきれたようにセナに向き直り「若者の邪魔すんなよ」と小突いてくる。
「え?あ……ノアとラシルが……?」
そういわれては、さすがのセナも察した。
「討伐から帰ってきたら、うまいもん食わせてくれってノアがラシルに言ってただろ?ライラさんに教えてもらって、だいぶ料理ができるようになったらしくて、それを食ったノアが文字通り胃袋をつかまれたってことだな」
「なんてこった」
弟に先を越されるとは。
カインがそこで、あー、とか、うー、とか話し出すきっかけを探すようなうめき声を出す。
「あー、そのセナ。無事に王都に戻ってきたことだし、前に約束した金糸蜜菓子食べに行かないか?」
「え、行く!あ、じゃあちょっと待ってて、準備してくる!」
ギルドの隣の宿に一度戻ると、一応着替えをして、ポシェットの中に大事なものを入れてギルドに戻る。
「お待たせ、カイン」
「おー、じゃあ行くか」
カインに連れて行ってもらったのは、神殿近くの大通りにあるこじんまりとした趣のある甘味屋だった。看板に金糸蜜菓子の絵が描いてあり、看板商品なのだとわかる。
店に入ると、二階のテラス席に案内され、真下に見下ろす王都の景色が平和で嬉しくなる。
「……平和だねえ」
「そうだな。セナが勝ち取った景色だ」
「私だけじゃないよ。カインやノアやシェルさんや……みんながいたからだよ」
そこにお待ちかねの金糸蜜菓子が運ばれてきた。
運ばれてきた金糸蜜菓子は、まさに職人技の結晶だった。主役は透き通るような金色の飴細工で、まるで陽光を閉じ込めたかのように輝く。
飴は細い糸状に引かれ、繊細に渦巻くように組み合わされ、花や葉の形を象った立体的なデザインを作っている。見る角度によって光を反射し、まるで小さな金の花園が皿の上で揺れているようだ。
皿の真ん中に小さめのケーキがあり、はちみつで作ったソースがかかっていて、それを囲むような飴細工がとても美しい。
「すごい……こんなきれいなお菓子初めて見た……」
「なんでも、菓子作りのスキルもちの職人が作ったらしい。菓子作りのスキルの付与スキルは疲れを癒す効果があるらしいぞ」
「こんなきれいなお菓子、見てるだけで癒されるよね」
「……そうだな」
むしろ今目の前ではしゃぐセナのほうがカインはよっぽど癒されるのだが。
「それじゃいただきまーす」
あまりに綺麗すぎて崩すのがもったいないような気もするが、この誘惑に抵抗するほうが罪深い。
「わぁ……すごい……口の中で融ける……」
ひんやりとした金色の糸のような飴の味わいがとても嬉しい。
テラス席から見える王都の景色が、光に包まれて輝く。戦いの疲れも、黒い霧の獣と戦った恐怖も、今は遠くに感じられる。
二人はそれぞれの皿を少しずつ味わいながら、のんびりとした時間を楽しんだ。
そろそろ店を出ようか、となった時、セナが待ったをかけた。
「ちょ、ちょっと待って、カイン!」
「ん?足りなかったか?しょーがねえな、一階に売ってた持ち帰りの飴菓子と焼き菓子買ってやるよ」
それは嬉しいが今はそうじゃない。
「え、とね。カインに渡したいものがあるから、一度座ってくれる?」
セナに言われるままにもう一度カインがセナの目の前に座る。
すーはーすーはー。
何度か深呼吸したあと、セナは勢いをつけてポシェットの中から出したものをカインに差し出した。
「こ、これ!カインにあげる!!」
「え……これ、は……」
セナが差し出したのは手縫いの新しいバンダナだった。
「あのね、メサヤさんにお願いして、ツルノワから作られるっていう繊維をもらったの。私は裁縫スキルはないから上手じゃないから申し訳ないんだけど」
「ってことはこれ、セナの手縫いか!」
「う、うん、だからあまり上手じゃないけど、よかったら使って」
確かに縫い目はいびつだが、ほつれることがないよう細かく縫われている。それにとても良い香りがするし手触りも良いのはセナが洗濯してくれたのだろう。
「……ありがとな。うん、大事にするよ」
「どこにでも連れていってね」
「ああ。そうさせてもらうよ。ありがとうセナ。……今度は一生手放さねえ」
「……え?」
カインの最後の呟きが喧騒にまぎれてセナの耳には届かなかった。
「カイン、今なんて?」
「いや、別に。礼は一階で売ってた焼き菓子と飴菓子とあと、何がいい?」
「じゃあ、ライラさんのお店で奢って!明日改装終わって再オープンなんだって!」
「わかった。じゃあノアとラシルととシェルさんも誘ってみんなで行くか」
「うん!」
カインはセナの想いが詰まったバンダナを二の腕に巻くとセナに手を差し出す。戸惑うセナの手を取り会計を済ませて店を出る。
王都の空はどこまでも晴れ渡っていて、クレイナートの花のような清らかな世界がここにはあった。
終
病気療養中なのでなかなか思うように進みませんでしたが(4か月かかった)何とか最後まで書けました。読んでいただけると嬉しいです。




