#32 湯けむりの中で
カエルレウム師匠の呪詛の構成について、ディナ先輩が知っているのは不自然ではない。
だけど、呪詛の効果が効果なだけに……ねぇ。
「そもそもね、呪詛というのは、対象にとって望ましくない効果を与えるものだ。そういう負荷に対して魂は敏感でね。魔法に対して生命が持つ抵抗力は、その生命が睡眠など意識がない状態でも発揮される。魂自体が本能的に抵抗するんだよ。それを回避するため、呪詛にはほんの少しだけ祝福を混ぜ込んでおくのが通例だ。呪詛は魂に、最初は祝福で触れる……すると魂はそれに対して抵抗をしない。そうやって魂に受け入れられた後で、本体の呪詛部分が効果を発動する。高度な呪詛ほど、ひとつまみの祝福は重要になってくる」
ああ、今は、余計なこと考えるのはやめよう。
呪詛のことをちゃんと知らないと、この左腕に宿りし厨二病的呪詛をどうにかすることもできないんだし。
「抵抗力を騙すんですね」
ひとつまみの祝福って、響きは料理の隠し味みたいだな。
塩をひとつまみ入れると、スイーツの甘さがより際立つとか……いや、どちらかというと抱き合わせ商法か?
「ゴブリンにかけた呪詛はね、ボクも手伝ったんだ……というより、ボクが考案したと言うべきか。あの呪詛には、ある種の興奮剤のような祝福を付与している。肌の触れ合いをしたくなるような方向への、ね」
やっぱり。
ですよね。
そうだと思いました。
興奮させておいて不能にするとか、発想は確かにディナ先輩っぽい。
「祝福は、呪詛の方向性と近い内容の方がいいとかあるんですか?」
「それは呪詛を構成する魔術師の好み次第だな。例えば『虫の牙』は、呪詛を発動する効果を武器に付与しているくらいだから、その使用される状況は戦闘時が一番多いとわかっているはずだ。なのに祝福内容が、相手の魔法効果を増大させるだなんて、随分と挑戦的だろう。もちろん痛みで魔法を失敗させ、追加魔法代償を消費させられる狙いもあるに違いない。ただ、痛みに耐えた相手は……」
「強敵になりますね」
敵に塩を贈り過ぎだ。
「そう。まるで、強い者と戦いたい欲求にかられた戦闘狂……そういう者が手にするように作ったとも感じる」
戦闘狂……。
キカイーの屋敷に居た、強い警備兵。
もしもそいつを見つけたとして、今の俺では全く歯が立たない……可能性高いんだろうな。
俺はもっと強くならないといけない。
くしゅんっ。
ルブルムが可愛いくしゃみをした。
そうか。
『虫の牙』の傷ムカデの痛みに耐えるべく、歯を食いしばりながら耐え続けている俺と、それを生暖かく見守る二人とは体の冷え方が違うよな。
だいたいルブルムってば、俺とディナ先輩がしゃべっている間、ずっと俺の股間見ているだけだもんな。
見られ耐性もついてきた気がする……ちょっと待て。ついていいものなのか。
ふと我に返る。
今、どういう状況?
なにこのカオス。
俺、呪詛の不能が治ったあと、女性に反応できなくなったり……しないよね?
それに俺、否が応でも痛みに集中しちゃっているし、傷ムカデの姿が見えるようにするために部屋の薄暗さをキープしているし、二人の裸なんて正直ほとんどじっくり見ていない。
この修行に意味がなくなりつつあるような……つまり。
もうそろそろルブルムは服着てもいいんじゃないのか?
「ディナ先輩。俺の方はもうだいぶ慣れました。冷えてきましたし、もう服を着てもよいのではないでしょうか」
「そうか……そうだな」
「トシテル。服を着る前に触ってみたい」
ああ、ルブルムってば蒸し返さないの!
「い、いや、風呂も入ってないし、汚いし……」
「そうか……風呂か。明日は虹爵様にお会いするのだ。風呂もいいかもな。お互いに洗いあえばちょうどよいだろう」
「へ?」
思わず変な声が出てしまった。
洗いあう……って、あの洗いあう、ですよね……混乱してて自分でも何言っているのかわからない。
それに何がちょうどいいのだろうか。
本来ならば男として喜ぶべきことなのかもしれない。
ただ、少しでも粗相してしまったら、本当に切り落とされかねない、という恐怖と、そもそも童貞としての不安とが入り混じって、とてもじゃないけどそんなラッキー状況を楽しめる気持ちが一ミリも持てない。
「トシテル、入り口脇に置いてある灯り箱を点けて、ついてこい。二人とも、靴以外はそのままでいい」
ディナ先輩の指示に従い、暗く寒い廊下をとぼとぼ歩く。
灯り箱が照らす範囲には、ディナ先輩のかかとから背中にかけてまでが白く浮かび上がる。
その背中にもう傷ムカデは居ない……のは、良かったけれど……待って。
待って待って待って。
何がどうなってこうなっているのか。
今晩、俺が経験している痛覚と視覚だけ、なんか異常なんですけど。
シュール過ぎて脳の処理が追いつかない。
「トシテル、歩くと揺れるものなのだな。走るとき、邪魔じゃないか?」
真横から覗き込んでいるルブルムの、胸元だってよく揺れていらっしゃいますよ……と言いそうになってぐっと堪える。
そんな言い方したら、ディナ先輩にどんな酷いお仕置きをされることか。
ディナ先輩は今、剣を持っていない。
でも、剣を置いてきたのは、魔法を普通に使えるようになったからかもしれないし、調子に乗ったらアウトなのは変わらないように思う。
集中力が疲弊しきっている。
痛みだけじゃなく、睡眠不足が続いているのもあって……少しナチュラルハイ気味になっているのかな。
こんな時こそ気をつけないと。
「普段は下着をはいているから、そこまで揺れたりはしないよ」
少し寒くて縮こまってはいるし……いや、そこまで言う必要はないか。
でもルブルムの視線には冗談抜きで慣れたと思う。
ルブルムは、本気で純粋に知的好奇心で見ているし、尋ねてくるから、こちらも恥ずかしさはだいぶ薄れてきてはいる。
あれ……なんだか空気が……温かくなってきた?
ディナ先輩が立ち止まったのは、屋敷内の他の扉よりも一回り小さな扉。
その扉が開かれると、中から湯気がもわーっと廊下へ溢れてきた。
前屈み気味に扉をくぐり抜けると、そこは四畳半くらいの小部屋で、正面奥の壁にはアーチが空いている。
どうやら湯気はアーチの向こうから来るようだ。
「灯り箱はそこのテーブルの上に置け」
「はい」
小部屋の中央にある、縦に細長いテーブルの上に、灯り箱を置く。
この小部屋の、左右の壁面には木の棚が置かれていて、タオルかけに似た手すりがついていることから、この小部屋は着替え用の部屋なのかもしれない。
ディナ先輩はそのままアーチの向こうへと行ってしまう。
俺とルブルムもアーチをくぐる……靴をはいたままでいいのかな?
湯気の多さと今までの流れからして、ここが浴室なのだろうけれど……なんだこれ。
思ってたんと違う。
奥に向かって細長い長方形の部屋。
浴槽らしきものは見当たらない。
床も壁も天井も総タイル張りで、ブーツのままだと、滑ってしまいそうだ。
その足元が濡れているってことは……どこからかお湯が湧き出ているのだろうか。
片側の壁にはくぼみが三つあり、それぞれには座れそうな出っ張りまでついている。
よく見ると、各くぼみの上部には小さな穴がいくつも空いていて、そこからお湯が出ているっぽい。
この出っ張りに座ってくぼみに寄りかかったら、背中から温まりそうだ。
なるほど。湯船じゃなく、そうして温まるのか。
お湯はずっと流れ続けているし、風呂とシャワーの中間みたいな?
あと、このお湯……臭いは温泉ぽくはないけど、ずっと流れ続けているのは、どこかから湧いているのかな?
「ウェスに気を遣わせたな……この湯は、もとは地下水道だ。フォーリーは地下水道が発達していてな、この辺の住宅は全て上下水道を引いてある。あと足下に気をつけろ。テグラは濡れると滑りやすくなる。靴で歩いて感触を確かめたら、前室へ戻って靴も脱いでこい」
テグラ……その単語はリテルの記憶の中にある。
この世界の言葉ではタイルをテグラと言うんだな。
思考は元の世界の利照のままだから、タイルという単語は思考上ではタイルのまま。
だけど、口に出した途端、リテルの記憶が、こちらの言葉に訳してくれている。
そのこと自体にはさすがにもう慣れたけど、今みたいに自分の認識が、リテルの記憶で改められる毎に、異世界に来たんだなとしみじみ感じてしまう。
この気づきは、きっとこれから先も一生、つきまとうんだろうなぁ。
帰国子女の人が日本語の中にそれまで居た国の言葉が混ざるの、こういう感覚だったのかな。
「滑っ」
ルブルムがとっさに俺につかまり、俺もバランスを崩しかけて……何とか踏みとどまる。
マンガならこういう時、二人一緒に転んでラッキースケベ的な展開なんだろうけれど、もしそんなことになろうことなら、ディナ先輩をどれほど怒らせることか。
よく耐えた、俺!
でも確かにすごい滑りはする。
この世界の靴は、サンダルかブーツ。
季節や仕事内容によって履き分けもするが、靴底はどちらも同じただの革。
ゴム製品がないこの世界で、単なる革の靴底は、体重がかかると予想以上に滑る。
氷の上を歩くのと似ているな……氷の上、じいちゃんが生きてた頃はよく歩いたな。
元の世界で、父さん方のじいちゃんは田舎に住んでいて、冬に遊びに行ったときは近所の凍った池の上で遊んだりもした。
懐かしいな……あの頃を、冬の池での思い出を、利照の記憶を呼び起こす。
重心を下げ、体重は足にかけるのではなく体の中心に置くイメージで、その中心をキープしたまま体の向きを変えつつ滑り進む……そうそう、こんな感じ。
ルブルムも俺の真似をして同じように移動し始めたけど、これ股を開く状態になるので直視できない……ディナ先輩的にはそんなことを気にするなって怒りそうだけど、紳士として、全裸の女の子のあの格好はちょっと直視しちゃいけない気がする。
「ある程度把握したら、靴を脱いでこい」
言われた通り裸足で歩くと、さっきより全然歩きやすい。
足の裏の天然グリップ力はすごいな。
「脱いだ方が歩きやすい!」
ルブルムの表情を見ていると、ディナ先輩が俺たちに様々な経験をさせてくれるのは、俺たちのこの世界に対する経験値の少なさを補ってくれようとしているのかも、とも感じる。
森の外に出るのが初めてのルブルムに、村や元の世界での知識しかない俺。
本当にありがたいことだけど……マジで洗いっこするんですか、これ。
お湯の流れるくぼみの椅子。
その一番出口に近い場所にルブルムは腰掛けた。
俺はその前にしゃがまされ、傍らには液状石鹸の入ったコップ。
コップから石鹸を手ですくい、泡立ててから、そのまま泡の手で体をこするとのこと。
手で。直に。
俺の手で、ルブルムの体を。
俺の目の高さは、無防備に座るルブルムのへそのあたり。
見るだけというのはかなり慣れたけれど、触るのはなんか紳士としてもヤバい気がしている。
「ど、どこから洗えばいいですか……」
俺が戸惑っていると、真横に立っていたディナ先輩は自分の右足をルブルムの右足の甲の上に静かに重ねた。
足先ならまだ楽勝……と手を出そうとしたそのとき、ディナ先輩が魔法代償を集中するのを感じる。
「ルブルム、これから教える魔法を覚えろ」
このタイミングで、魔法?
● 主な登場者
・利照/リテル
利照として日本で生き、十五歳の誕生日に熱が出て意識を失うまでの記憶を、同様に十五歳の誕生日に熱を出して寝込んでいたリテルとして取り戻す。ただ、この世界は十二進数なのでリテルの年齢は十七歳ということになる。
リテルの記憶は意識を集中させれば思い出すことができる。
ケティとの初体験チャンスに戸惑っているときに、頭痛と共に不能となった。
魔女の家に来る途中で瀕死のゴブリンをうっかり拾い、そのままうっかり魔法講義を聞き、さらにはうっかり魔物にさらわれた。
不能は呪詛によるものと判明。カエルレウムに弟子入りした。魔術特異症。猿種。
フォーリーの街に来てから嫌な思い出が多いが、修行として受け止めている。
異世界から来たことをとうとう打ち明け、そして新たな呪詛をその身に宿した。
・カエルレウム師匠
寄らずの森に二百年ほど住んでいる、青い長髪の魔女。猿種。
肉体の成長を止めているため、見た目は若い美人で、家では無防備な格好をしている。
お出かけ用の服や装備は鮮やかな青で揃えている。
寄らずの森のゴブリンが増えすぎないよう、繁殖を制限する呪詛をかけた張本人。
リテルの魔法の師匠。
・ルブルム
魔女の弟子。赤髪の美少女。リテルと同い年くらい。猿種のホムンクルス。
かつて好奇心がゆえにアルブムを泣かせてしまったことをずっと気にしている。
カエルレウムの弟子を、リテルのことも含め「家族」だと考えている。
質問好きで、知的好奇心旺盛。驚くほど無防備。
・ディナ先輩
フォーリーに住むカエルレウムの弟子にしてルブルムの先輩。
男全般に対する嫌悪が凄まじいが、リテルのことは弟弟子と認めてくれた様子。
アールヴと猿種のハーフ。壮絶な過去を持つ。
・ウェス
ディナ先輩の部下。肌が浅黒い女性で、男嫌いっぽい。
兎よりもちょっと短い耳をしている蝙蝠種。
・じいちゃん
元の世界における、利照の父方の祖父。
田舎に住んでいて、近所の池は冬に凍る。
● この世界の単位
・ディエス
魔法を使うために消費する魔法代償(寿命)の最小単位。
魔術師が集中する一ディエスは一日分の寿命に相当するが、魔法代償を集中する訓練を積まない素人は一ディエス分を集中するのに何年分もの寿命を費やしてしまう恐れがある。
・ホーラ
一日を二十四に区切った時間の単位(十二進数的には「二十に区切って」いる)。
元の世界のほぼ一時間に相当する。
・ディヴ
一時間の十二分の一となる時間の単位(十二進数的には「十に区切って」いる)。
元の世界のほぼ五分に相当する。
・アブス
長さの単位。
元の世界における三メートルくらいに相当する。
・プロクル
長さの単位
一プロクル=百アブス。
この世界は十二進数のため、実際は(3m×12×12=)432mほど。
・通貨
銅貨、銀貨。
十銅貨(十二進数なので十二枚)=一銀貨




