災いは一つだけでは済まない
誰にでも必要だ。金を儲けるための相手と、金を使うための相手が。
空港に着いた。一日に何十万人が行き交うんだろうと思うほど、巨大で、不自然なまでに巨大で、今日という日のために造られたみたいだった。ガラスと鉄骨の高いドーム、壁に反響するざわめき、見渡す限りの座席と、世界中の都市へ逃げていく便名の掲示板。人が多すぎて、ただ外に出るだけでずいぶん待たされた。群衆に揉まれ、何百という知らない香水と疲労が混ざった空気を吸いながら。
そこから見える景色は、信じられないほど美しいものだと決めつけていた。ビーチとか、海とか、絵葉書みたいな風景。なのに、一歩外へ出ると迎えてくれたのは庭だった。見渡すかぎりの巨大な庭。深く濃い緑の芝生は、きっちり刈り込まれていて、陽の光を受けてかすかに輝く白い石畳の小道が続いている。木々の枝は、風にそっと揺れて、まるで互いにささやき合っているみたいだった。気候は夏に完璧で、暑すぎず蒸しすぎず、撫でるような風が、刈りたての芝と、何かほのかな花の匂いを運んでくる。
すでに何百人もの人々が散策していた。あらゆる国籍、あらゆる人種。服装も、好みも、表情もてんでに違う──笑う者、真剣な者、疲れた者、不安そうな者。グループで芝生にあぐらをかく連中もいれば、身振りを交えて熱心に議論する者、ただ無言で、自分の考えに沈みながら歩く者もいる。俺はそんな中でも特に目立たなかった。百八十五センチくらいの男で、癖のある茶色い髪は耳あたりまで伸びていて、いつも目にかかる。昨日、出発の直前に慌てて買ったのは、黒いシャツと白いTシャツ、それにスラックスだけ。どうせ誰も大きな荷物は持ってきていない。楽なものだ。案内役も断った。地図は持っているし、寮くらい自分で探せると思った。それに、この場所を歩いて感じたかった。この空気を吸って、足の裏でたしかめたかった。運が良ければ誰かと知り合えるかもしれない。
ぶらぶら歩くこと数分、気がつけば寮の全景が見えていた。このあたりはとりわけ活気があった。最初の棟は二階から始まっていて、どの建物も七階建てくらい。大きな窓には空が映りこみ、明るい壁が並んでいる。地図にはそういう棟が二十ほども記されていた。ざっと十万平方メートルといったところか。ただ、本当に驚いたのは、地図で見られるのがせいぜい全体の二割ほどでしかないことだった。残りのエリアは、黒く塗り潰されて、検閲でもされたみたいに隠されている。そこにもう一般の人間──学生たちを支える職員──が住んでいるとは、どうも信じられなかった。たった二割のはずの区域に、大量の寮と、三つの校舎、ショッピングモール、様々な店、庭園、講堂、それに一度では覚えきれないほど多くの施設が詰め込まれているのだから。
歩くあいだ、ときどき値踏みするような視線を感じた。素早く、さらりと流す目もあれば、わずかに長く留まる目もある。俺もつい、まわりを見てしまう。これだけ知らない顔があふれていれば、仕方のないことだ。三階にたどり着く寸前、やけにきっちりとしたスーツの男に呼び止められた。一筋の皺もなく、縫い目さえ鋭利な刃物みたいだった。理事長が待っている、ついて来いと言う。心臓が止まるかと思った。息が浅く、速くなる。隠そうとしても、震えは指先まではっきりと出ていた。
おとなしく後ろに従い、人生でいちばん長い二十分を過ごしたあと、着いた建物には誰もいなかった。静寂が重くて、自分の足音だけがやけに大きく響く。周囲は灰色で、無駄を削ぎ落とした、極限まで清潔な──無菌室みたいな空間だ。壁に絵はなく、観葉植物のひとつもなく、床に染みひとつない。孤独と、事務的な無機質さだけが染みついた場所だった。扉を開けると、ようやくそいつと対面した。顔がなかった──影で見えないんじゃない、感情が何ひとつ浮かんでいないという意味だ。壮年の男、よく手入れされ、高価なスーツが体の一部のようになっている。俺を見る目は、ゴミでも眺めるようだった。怒りじゃない。絶対の権力に慣れた人間の、あの落ち着き払った侮蔑だ。部屋じゅうが重苦しかった。黒ずんだ木、くすんだ照明、天井まで届く本棚、そして、手を伸ばせば触れられそうなほど濃密な沈黙。机の正面に一脚だけ椅子が置かれていた。座ると、自分がひどく小さく、場違いなものに思えた。長くは待たされなかった。男は顔を上げずに何かを書きつけながら、手を止めずに、口を開いた。
「すべて承知している」
声は刺すように冷たく、一語一語が皮膚の下に食い込んでくる。内臓が縮みあがった。
「今年は全員を調べさせてもらった。何のことか、わかるな」
「ちょっと……」と反論しようとした口を、彼はためらいなく断ち切った。ナイフで切り落とすように。
「君は金持ちの子供じゃない。意志を奪われた人間で、特定の人物を殺すためにここへ送り込まれた。だが安心しろ、それを咎めようとは思っていない。むしろ──」
「でも……」もう一言、なにか弁解じみた言葉を継ごうとしたが、やはり彼は聞く気すらなかった。まだ書類から目も上げずにいる。
「怖がらなくていい。私がその気なら、君はあの飛行機に乗ることすらできなかった。ただ、君は運がいい。話はすでに聞いている。君の連中は我々を甘く見すぎている、というわけだ。まあいい。連中は君たちを脳のない殺し屋に仕立てるが、私はここで、少数の者だけは──我々のために──むしろ大きな可能性を持って出ていけるようにしたい。言っている意味はわかるな」
ひとことひとことが、俺を芯から突き刺していく。運命を握られた上司を前の、あの恐怖だ。震えはもう止められなかった。両手はめちゃくちゃに震え、心臓はいまにも胸を突き破りそうだった。
「そう緊張するな」男はようやく顔を上げ、俺を見た。その視線のせいで、事態はむしろもっと悪くなった。「生きているということは、必要だからだ。今のお前は、持ち主を変えるコインにすぎん。よし、含みはここまでだ。当面の課題は、自分と似たような者を見つけてペアを作ること。期限は前期の終わりまで。人はストレスに晒されれば、ずいぶんとやれるものだろう? 肉体的な訓練は受けてきた、選抜も通過した。ならば、神経と体力は足りるのかね。今度の選抜は知能面で試される。適応し、進歩できるかどうかを見せてもらう。できなければ、除名した上で、好きにさせてもらう。選択肢はない。質問がなければ……」
「あります!」声は震えていた。「入学式に遅れてしまって……」
「大したことはない」男は、蠅でも払うみたいに手を振った。「教科書を受け取って、自分の部屋へ行け」
俺はすぐに踵を返し、不満と恐怖が混ざった顔のまま、乱暴にドアを閉めて部屋を出た。廊下では、また足音だけがやけに大きく響いた。頭のなかはぐちゃぐちゃだ。今はっきりとわかったのは、ジョンも、こいつも、俺を人間としてこれっぽっちも見ていないということだ。同情ひとつできない、血の通わない奴らだ。それに、一度も名前を呼ばれていな……
──俺の名前、なんだっけ。
ジョンから渡されたパスポートには「タカヒロ」と書いてある。でもそれは本当の名前じゃない。人であふれる公園を歩きながら、俺はふと立ち止まった。地面が、足元から崩れ落ちたみたいだった。血の気が引いた。俺の名前──なんだったのか。自分が誰か、何を好み、何を憎み、その前になにがあったか、それらははっきり覚えている。なのに、俺の名前を知っているはずの人々は、俺をなんて呼んでいたのか。自分自身が、自分にとってよそ者になった気分だった。本の入った鞄が手から落ち、体がふらついた。
そのとき、ひとりの少女が駆け寄ってきた。腕を取られて、ベンチに座らせられる。視界はぼやけていた。彼女は慌ててバッグを探りはじめていたけれど、俺にはどうでもよかった。すぐに、あとから二人の男が追いついてくる。
「急に走るなよ、ユキ」ひとりがまだ息を弾ませながら言った。
「だって、この人、顔が真っ青だったんだもの。倒れそうになってたし。ちょっと待って、携帯どこだっけ……」
その声で、ようやく自分の状況のまずさに気がついた。こんなことを考えている場合でも、場所でもない。すぐにやめられはしなかったけれど、自分への問いかけは少しずつ小さくなっていった。数回まばたきをする。呼吸が落ちついてきて、ようやくまともな感覚が戻ってきた。俺の顔色が戻ったのを見て、少女は鞄を漁るのをやめた。心底、怯えた顔をしていた。それを見て、少し申し訳なくなった。彼女は絶世の美女というわけじゃないが、醜くもない。中背で、髪はベンチの端を少し越えるほど長い。真っ白で、まっすぐで、一筋ずつ定規で引いたみたいだった。たぶん日本人だろうと思った。
「ごめんなさい。父が、数日前に亡くなったんです。もう大丈夫です」とっさに出たのは、そんな言い訳だった。
「本当にもう大丈夫ですか?」彼女の声には、純粋な心配がこもっていた。「まだ顔色が優れないみたいです。カフェまで一緒に行きましょう。このままにして、あとでもし何かあったら、私、自分を許せません」
いつまでも、その声を聞いていたいと思った。彼女は本当に俺を助けてくれた。こんな小さなことで、見返りもなく、ただ助けてくれた。その申し出を断るような俺なら、きっともう俺じゃない。
「はい」声は自分でも驚くほど小さくて、たぶん彼女にさえ、聞こえたかどうかわからなかった。
この数日、いや数えきれない日々のなかで、こんなささやかな親切が、ようやく俺の口元をほんの少し緩ませた。もう必要なかったけれど、二人の男がベンチから立つのを手伝ってくれて、俺は彼らのあとに続いた。二人とも彼女と同じくらい気さくに見えた。自己紹介を受ける。ジェリー──ユキと同じクラスで、エレキギターを弾き、読書クラブに所属している。外見は、まあ、女の子に好かれるタイプだろう。細身のヨーロッパ系で、明るいストレートの髪に、鳶色の目。もう一人は彼の兄弟でケリー。双子ではないらしい。ケリーの髪は暗くて縮れていて、顔は石のように無表情──人混みに紛れればすぐに見失ってしまいそうな、地味な風貌だ。趣味は正反対で、チェスと弓道。この不思議な場所についていろいろ説明してくれるのを聞くうちに、どれだけ多くの娯楽や活動があるのかを知った。そしてたぶん、しばらくはこの災難続きのことを忘れてもいいんだ、と思った。
気持ちのいい会話のあいだ、彼らが何度もユキに目をやるのに気づいた。彼女は口数こそ少なかったけれど、俺が会話に入りやすいように、ずっと気を遣ってくれていた。それはうまくいったと思う。俺はもともと内向的なほうではないし、人並みの社交性は持っていたから。
カフェに着いた頃には、もう二百人近い人がいた。ただ、店内も二階建てでかなり広い。特段すごい場所というわけじゃない。どちらかといえば、わりと庶民的な店に見えた。ひと目でわかったのは、給仕たちが皆むっつりとした顔で働いていることだった。メニューはシンプルだが、値段はなかなか痛い。本当は何も頼むつもりはなかった。初日なので、金はまだ振り込まれていなかったからだ。けれど三人が全額払うと言ってくれた。熱心に礼を言って、その夜の残りは素晴らしい雰囲気のなかで過ごした。何かを期待してくるわけじゃない人たちと話すのは、本当に久しぶりだった。
最後に連絡先を交換して、別れた。ようやくベッドにたどり着いたときには、部屋は想像していたよりずっと狭かった。正確には、バスルームとメインの部屋のふたつだけで、たぶん二十平方メートルくらい。小さなキッチンと寝室が一緒になっている。繰り返しになるが、ごく普通の寮だ。見事な庭園以外は、今日一日でこれといって突出したものは見つけられなかった。
死んだように眠った。
起きたのはかなり早く、朝の六時ごろだった。部屋を出ると、夜明けがちょうど始まったばかりで、地平線がかすかに白みはじめている。その光のなかではすべてが静まりかえって、ほとんど重さを失ったみたいだった。手すりにもたれかかる。通りにも、公園にも、庭にもまだ誰もいない。三階からの眺めは贅沢で、ようやく俺は、影のようにまとわりつく思考から解放された気がした。ずいぶんと、気が楽になった。
「おはよう!」
その声に、俺は危うく手すりから落ちそうになった。鈴を鳴らすみたいに澄んで、美しく、それでいて優しげな声が、朝の静けさを一条の光みたいに切り裂いた。
「……おはよう」とっさに口をついたのはそれだけだ。まだ姿は見えないけれど、声は俺より少し年上だ。彼女はすぐ隣に立ち、俺と同じように手すりに寄りかかった。距離は三十センチもない。体温が伝わってくるようだった。夜明けをとても愛おしそうに見つめていて、その横顔は朝の光のなかで、ほのかに輝いて見えた。
「朝焼け、見るの好きなの?」彼女は、それがすごく大事なことみたいに、こっちを向いて言った。真っ赤な、熟れた果実みたいに鮮やかな瞳が俺をとらえる。
その一瞬で、ようやく彼女をまともに見ることができた。女性にしては中背、体の線はずいぶん大人びていて、パッと見でラテン系だとわかる。ダークブラウンの髪は、うなじにかかるくらいの短さで、信じられないほど白くてなめらかな肌との対比が鮮やかだった。髪は強い縮れがあって、きちんと手入れされ、朝陽を受けてつやつやと輝いている。
「あの……」俺が言いかけるより先に、彼女はこちらの言いたいことを察したらしく、笑みを浮かべた。
「ごめんなさい! 私はジュリア。アルゼンチンから来たの。二学年で、あんたの隣の部屋よ。もうひとつ、共通点が見つかったわね」
「誰にでもそんなに愛想がいいのか?」ちょっとからかうように言うと、すぐに伝わったらしい。彼女の目に、いたずらっぽい光がちらりと浮かんだ。
「ううん、かっこいい男の子だけよ」彼女もまた、軽く揶揄を返してきたけれど、会話は途切れず、むしろ自然に続いていく。「あたし、二学年B組の副委員長なの」
「俺はごく普通の一学年D組だ」
「ああ、あそこは社会科学系が中心なんだっけ?」
「そんな感じだ。昨日はばたばたしてて、入学式には出られなかったんだ」
「それ、もう聞いた?」彼女の表情がほんの少し翳り、値踏みするようなものに変わった。どこまで知っているのか、頭のなかで計算しているみたいに。
「なにを?」
「なんでもない、式のほとんどの内容は退屈だったんだけどね、最後の終わり方だけは別」
彼女はバッグから携帯を取り出し、ギャラリーを高速でスクロールし始めた。写真が山ほどある。速すぎて、俺にはほとんど何も認識できない。いくつもの顔、風景、雑多な集合写真がちらちらと流れていく。やがて目的のものに辿り着いた。動画だった。巨大な演壇に、初老の男が立っている。俺たち「エージェント」の話をしている。生徒たちはすでにそれを知っているらしく、反応はどちらかといえば冷静だったが、この学校にはクラスに最低二人、エージェントが潜り込んでいること、もし生徒の誰かがそれを見つけ出して引き渡せば、二千万ドルの報奨金が出ること、怖がる必要はないこと──学校が彼らを守るのだと淡々と告げていた。生徒たちの顔は、動画のなかで、恐怖から一転、みるみる生々しい熱意へと変わっていく。
そして俺の顔からは、血の気が引いた。
突然、えずきが込み上げてきた。まともに食事をとっていなかったせいもあるのか、ほとんど何も出なかったけど。やっと口から出たのは「マジか……」という、かすかな感嘆と恐怖が混ざった声だけだった。
「ねえ、あたしがあなたと話してるのには、もうひとつ理由があるの」彼女は、俺が誤解するのを怖れるみたいに、慌てて両手を振った。「違うの、それが一番の理由ってわけじゃないのよ! あなたのクラスに、一人、男の子がいるの。どうしても彼と話したいことがある。本人はメッセージを返さないし、あたしのクラスの人間にはそもそも興味がないみたいで、完全に無視されてる。そこでよ、もし彼とあたしを引き合わせてくれたら、五千ドル払うわ。どう?」
彼女の声はさっきまでより事務的になったが、それでもかすかな不安げな響きが残っていた。これがうまくいくかどうか、自分でも確信しきれてはいない、という感じで。やりとりは短かったけど、話の行き先はすぐに見えた。すでに口座には一万ドルが振り込まれている。五千ドルあればさらに助かる。大事なのは、なにがなんでも達成しろという条件ではなく、こっちから取りやめられる余地を残すことだ。
「わかった。ただ、こっちからもひとつ条件がある」自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。「と言っても、君にとっては簡単なことだと思うけど」
「なに?」彼女は小首をかしげ、目のなかで好奇心の光がきらめいた。
「明日、一緒にカフェに行ってほしい」
なにを口走ってるんだ、俺は。金が欲しかった。それも莫大な金だ。ここの物価を考えても、かなりの額だ。なのに、彼女の美しさから目が離せなかった。顔が一気に赤くなる。彼女が気を変える前に、どうにか言い訳を付け加えようとした。
「えっと、その、今年が俺にとって初めての年で、この学校がどんな場所か、人がどんな感じか知りたくて」
話しながら、彼女の反応をうかがった。それまで中立的だった表情が、ゆっくりと、ほぐれるみたいに笑みへ変わっていく。飾り気のない、あたたかくて、綺麗な笑顔だった。風が彼女のカールをそっと揺らし、朝の光に照らされて、まるで絵画から抜け出してきたみたいだ。
「上出来よ! じゃあ、番号を教えて。誰を引き合わせてほしいか、また連絡する。それじゃあね!」
彼女は軽い足取りで階段を降りていった。俺は、まだ頬が熱いまま、その後ろ姿を見送った。こんな朝早くから、どこへ行くんだろう。俺はといえば、もう一度ベッドに戻って、二度寝をしようと決め込んだ。
どうか通り過ぎないで、私の作品の最初の数章を評価してください。翻訳が不正確な点をお詫びします。私は日本人ではないので、自分で翻訳しています。




