第3話 灰色の巨人と灰色の瞳
馬車を降りると、モン・ルグリュ城の正門は曇天を背に、まるで灰色の巨人が腕を広げて待っているようだった。
(巨人さん、お邪魔します……)
エマは心の中でそっと呟いた。
無数の蔦が石壁を這い上がり、門楼の上では色褪せた王家の紋章が、霧にけぶった空の下でぼんやりと光を受けていた。
鉄扉が重々しく開き、現れたのは年配の侍女と、黒衣の従者たち。
侍女の手の甲は皺で覆われているが、その所作は隙なく、どこか厳格な雰囲気がある。
「どうぞこちらへ」
促されて門をくぐると、内側は外気よりもさらに冷たい空気に満たされていた。
(わぁ寒い。まるで城全体が大きな氷箱みたい)
エマは自分の吐いた白い息がしらしらと落ちていくのを見つめる。
石畳の上を歩くたび、革靴の底からじわりと湿気が伝わってくる。
正門の内側は、灰色の巨人の一階部分全体を貫く通路になっていた。
天井の低いアーチが奥へと続き、外でも中でもない曖昧な空気が漂う。壁沿いには燭台が並び、冷たい石の匂いと蝋の香りがひっそりと満ちている。
回廊の隅には、使われていない椅子や荷車、錆びた甲冑が無造作に置かれており、どこか時が止まったような静けさが漂っていた。
その中にエマと侍女の靴音がこだまする。
遠くの天窓から落ちるわずかな光が、埃の粒をきらめかせ、古城の息づかいを感じさせる。
時折、壁の隙間から冷たい風がひゅるりと吹き抜け、蝋燭の炎を揺らした。
通路を抜け中庭に足を踏み入れた瞬間、どこからともなく囁き声が流れてきた。
――また新しい子が来たよ……
――今度は居なくならなきゃいいけど……
エマはさっと声の方へ視線を向けたが、そこには誰もいなかった。
(……きっとささやき妖精の仕業ね)
慌てて、侍女の後ろを足早に追う。白い息が、まるで消えかけた蜃気楼のように、広場の空気に溶けていく。
中庭を横切り本館へ入ると、細長い廊下が続き、床に敷かれた古い絨毯は所々すり減って色あせていた。
壁にはいくつもの重たい扉が並び、その一つ一つに古風な鉄の錠と、錆びた取っ手がついている。
どこからともなく、焼きたてのパンやハーブ、ろうそくの蝋が混じった微かな香りが漂い、小さな窓からは、霧に煙る中庭が青白くのぞいていた。
時おり遠くで呼び鈴の音や、誰かが階段を上る靴音が反響し、広いはずの館がどこか息苦しいほど閉ざされているように感じられる。
「荷物はこちらでお預かりします」
年配の侍女が事務的に言い、エマは小さく礼をして鞄を差し出す。
その手元には薄い傷跡がいくつも刻まれているのが目に入った。
(きっとお皿をたくさん洗ってるんだろうな……わたしだったらすぐ割っちゃいそう)
そんなことを考えている時。
回廊の奥から一人の青年が静かに現れた。
灰色のマントに身を包み、ダークブラウンの髪に、端正な横顔に鋭い輪郭。そして何よりも印象的なのは、曇り空を映したような灰色の瞳。
青年は足音も立てず上品に歩き、その美しい所作は庶民とは明らかに違った。
(灰色の瞳? この人、二十歳くらいかな……)
珍しい色の瞳に惹きつけられる。
しかし侍女はその男に一切目をやらず、エマの方だけを振り返った。
「ご案内しますわ」
まるで侍女にはこの男が見えていないかのようなふるまいだ。
エマは一瞬、(この男の人、妖精じゃないよね?)と妙な考えが浮かんだ。
すると、青年はわずかに顔を向け、じっとエマを見据える。
その視線は冷たく、けれど何かを測るような鋭さを秘めていた。
声も発せず、ただすれ違いざまに一瞥をくれるだけで、そのまま無言で遠ざかっていった。
灰色の瞳には、どこか人間離れした無感情さと、底知れぬ観察眼が潜んでいる気がした。
「食事まで、お部屋で少しお休みください。そして、勝手に部屋を出て歩き回らないように……いいですね」
侍女の声に、はっと我に返る。
「あっ、はい。わかりました」
廊下を進むごとに、壁の隙間から風が吹き抜ける。
階段の踊り場には古い鏡や、空っぽの花瓶が並んでいる。
すれ違う侍女や従者たちはみな、エマを観察するかのように見てきたが、誰も余計な言葉を交わさない。
回廊の床は、パンくずどころか塵一つ落ちていない。
(……王城には、コルヌはいないのかな……)
どこか遠くから鐘の音が響き、広い城がひそひそとした秘密で満たされているような心地がした。
薄暗い廊下を進んだ先で、エマを待っていたのは、エマと同じくらいの少女だった。光を受けると白金色にきらめく柔らかな髪と、先ほど見た男とまるで同じ灰色の瞳を持つ少女が二人を見て丁寧に頭を下げた。
その所作がとても美しく、エマは思わず見惚れてしまった。
「マリー。こちらが例の新人です。明日の朝までの流れを教えてあげて」
マリーと呼ばれた少女の肌は透き通るほど白い。その唇にも血の気が薄く感じられた。細身の体に深い色のドレスをまとい、瞳の奥には複雑な光が揺れている。
(さっきの人と同じ灰色の瞳。それにとっても色白で、まるでお姫様みたい)
「ようこそ。お部屋まで案内するわ」
マリーは少し微笑み、エマの緊張を和らげるように歩き出す。
「あなたが、エマね」
「はい」
「私はマリー。同じ十五歳。だから気楽に話して」
すぐには気楽になれないエマの様子に、マリーはくすっと小さく笑った。その横顔はやはり気高く美しいが、顔色はどこか影が差しているようにも感じられた。
マリーは階段を先導し、振り返るようにしてエマに話しかける。
「エマは、どこから来たの?」
「サント=ヴェール修道院です」
「と言う事は、ヴァレンヌ帝国に一番近いピエルモンの町ね」
「はい」
「帝国に近いからにぎやかなんでしょ? 王城が田舎で驚いたでしょう」
マリーは落ち着いていて賢そうだ。エマはもっと色々聞きたくなったが、まだ初日なのでぐっと我慢した。
ここで暮らす日々の中で、きっと話す機会はたくさんあるだろう。
だが、階段を上りきったところで、突然マリーの足が止まり、膝からがくんと崩れる。
「マリーさん? 大丈夫ですか?」
「あ……ごめんなさい、ちょっと……」
そう言うが早いか、マリーの顔がさらに青ざめ、その場に崩れた。
「マリーさん!?」
エマが慌てて駆け寄ると、マリーは意識を失っていた。




